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紅き天使の黙示録

序章

 瓦礫の積み上げられた廃墟に、一人の女が佇んでいた。

 波打つ漆黒の髪に、同じく黒いドレスを身に纏う。黒のベールより覗く顔は無表情のためか、人形めいた印象を持っていた。

 身に纏う衣装や、瓦礫の岩の上でありながら上品に座る様から見て、女は身分の高い者に思われた。およそ廃墟に相応しくない女は、その場から一歩も動かずに、ただ真っ直ぐ前を見つめていた。その視線の先には、崩れ落ちた王国の残骸だけが閑寂と存在を残している。

 強い風が真正面から吹き抜けて、女の長い黒髪を攫っていった。

 不意に、背後辺りに人の気配を感じ取り、女は無言のまま振り返った。

 女の目先には見慣れてしまった家屋の瓦礫と、見慣れぬ一人の天使がいた。淡い月の光が背後から射しているため、天使と思わしき男の表情は分からない。しかし、月光に浮かび上がる背からはえた翼は、眩いほどに白く美しい。絵空物語に描く、天使の虚像と重なる生き物が、真っ直ぐに女を見つめていた。

「何をしている?」

 天使は女に問う。

 滑らかな低い声に問われ、女は嘲笑したような笑みをベールの奥で零した。

「明日滅びる国の追悼をしていたのよ。ここは千の歴史を築いてきたデルフィーネ王国。ご覧の通り、今は廃墟と化してしまった」

 しなやかな腕を広げ、辺りに広がる瓦礫を指す。天使は女の腕に誘われ、辺りを見回した。

 そこは女の周りだけを残し、瓦礫の山と化していた。廃墟のいたるところから硝煙が昇り、むっとするほどの濃い死臭に満ちている。石の塊と化した城壁や柱には、赤い飛沫が生々しくこびり付き、女の周りには兵士だったと思われる屍が転がっていた。遠くの方では小さな子供と思わしき、生を放棄した骸が打ち捨てられていた。それは酷く凄惨な光景と言えた。

 しかし、その中で女が怯えている様子は無い。手に持つ白銀の竪琴の弦に細い指を絡め、小さな響きに変えて静寂の空へ音を鳴らす。それはまるで、滅び行く王国へ送る鎮魂歌のようだ。

「何ゆえ、千の時を生き延びた国が滅びる?」

 天使の男がそう尋ねると、女は僅かな沈黙を挟み、語りだした。

「デルフィーネは歴史深き王国。強国では無いけれど、豊かな国であった。しかし、ここ数年我が国は日照不足による不作が続き、民は飢え、栄光は音も無く去っていった。それでも、我が国には黄金を採れる鉱山がいくつもあり、この災厄の日々を乗り切るだけの有余はあった。しかし、かねてよりその黄金に目をつけた西の国の王は、デルフィーネを吸収する好機とばかりに身を乗り出してきた。欲深な西の王ゼルスは、我が国の姫君を差し出し、領地の半分と鉱山を寄越すよう要求してきた。民と王はこれを受け入れず、姫君と領地を守るため、戦へと身を投げ出した」

 国同士の乗っ取り合いは珍しい話ではない。戦争など、探せば世界中どこだって起こっている。そして彼女の国は敗戦し、デルフィーネは滅びる。それだけの話だ。しかし、廃墟となったこの国が、未だ滅びていないと言いたげな女の言葉が引っかかり、男は尚も問う。

「戦に負け、国は滅びたのだろう? 何故、明日滅びると言う?」

「まだ、滅びてなどいない。ゼルスはこの国の黄金と領地の他に、国王の一人娘であった姫君を要求している。遠く流れる噂では、姫君は天上の神々に愛されし者と言われていた。その噂を聞きつけたゼルスは、何としてでも姫君を我が物にしようとしている。未だ姫君はゼルスの手中に落ちては無い。……王族の生き延びている国に滅びは来ない。だから、この国はまだ滅びぬ」

 デルフィーネの姫君は国を思い、何度も考え直しゼルス元へと行こうとした。けれど、父たる王はそれを許さず、また民も姫君が失われる事を嘆いた。そして何よりも、もし姫君が暴君ゼルスの元へと行けば、彼は姫君を人質にこの国を飲み込むだろう。似たような事情で西の強国に取り込まれた国々は、あまりにも酷な政治の下、飢餓や疫病などで片っ端から滅んだと聞く。そうなれば、死より辛い苦しみと共に生きていかなくてはいけない。それでは、国に未来は無い。だから、デルフィーネは戦で物事を跳ね除けようとした。しかし結果は、デルフィーネ王国の惨敗と終わった。

 戦の終わった昨夜のうちに、王と兵が殺された。今日の朝は城壁を破壊し、夕刻に差し掛かった頃、十にも満たない幼い王子達が殺された。そして先ほど、月が空高く上った頃に、国の民と城が犠牲となった。

 全てが終わり残されたのは、女ただ一人。

「お前が滅びる国の姫君か?」

 全てを見透かしたような眼差しで、天使は女を見つめた。女は真っ直ぐにその視線を受け止める。視線と視線が交差し、無言のまま二人は見つめ合う。

 先に折れたのは、女の方だった。

「いかにも。わたくしがデルフィーネ最後の王族にして滅びの女神の愛で子、ラフィーナ」

 そう言って、ラフィーナは黒いベールを剥ぎ取った。

 遠く噂が流れるほど、確かに彼女は美しかった。白雪の如ききめ細やかな白磁の肌、やや切れ長の黒い双眸は長い睫に縁取られ黒曜石のように深く煌いている。鼻筋は細くその下の唇は紅など塗らなくとも血の様に赤い。可憐な女ではなかった。野に咲く蘭には決して例えられないだろう。もし例えるならば、茨に咲いた薔薇のような女。触れれば傷つくと分かりきっているのに、触れられずにはいられない孤高の花。外見だけでなく、女は心の芯から鋭い棘に守られているようだ。強い光を湛える双眸は、威圧するような鋭さを帯びて天使を見据えていた。

「……して、お前は明日暴君の目前で死んでやるつもりか?」

 王族がいては国は滅びぬと言いながら、明日滅びる国の追悼をしていたラフィーナ。それはつまり、彼女が死ぬという事だ。ゼルスも美しい姫君の骸が欲しいわけではないだろう。それを知っているからこそ、彼女は何らかの方法で死んでやるつもりなのだ。

 天使の予想を裏切らず、女は深く頷いた。

「わたくしは、父と民の誇りを継ぎ、決して彼の王には媚びないでしょう。……白き神の御使いよ、わたくしは貴方にも救いを求めない。千の歴史を刻み続けてきたデルフィーネの皇女として、先に逝った者たちの為にも、堂々たる最期を迎えましょう」

「勇ましい女だな。滅びの女神に選ばれただけの事はある……。だが、何ゆえ救いを求めぬ? 目の前に天使が舞い降りたならば、縋るが人というものだろう?」

 嘲るように男が問うと、ラフィーナは挑むように天使をきつく見上げた。

「我が願いは永遠に叶わぬ。もはや、わたくしに残された道はただ一つ。誰にも、それを変える事は出来ないでしょう。それが例え神の御使いであろうとも……」

 ラフィーナは長い睫を伏せ、天使より視線を外し俯いた。

 天使は落胆の色を隠しきれていないラフィーナを見て、つまらなそうに顔を顰める。

 瓦礫の上より舞い降りて、天使はラフィーナの元まで歩いてきた。

「女、そなたの望みとは何だ?」

 天使は手に持つ細長く白い杖を、ラフィーナの首元へとあてがった。ラフィーナは青と白の宝玉が埋め込まれた杖の先端を向けられ、驚きに顔を上げる。

「わたくしの望みは……」

 気丈な立ち振る舞いをしていたラフィーナの表情が、微かに戸惑いの色を浮かべた。望みを告げる事に躊躇っているのか、紅の唇は微かに震えている。それでも黒曜石の瞳に宿る光は強く、天使を威嚇する力は失っていない。

「今この場で、そなたの言葉を聞く人間はおらぬ。望みを言うがいい」

 甘く囁くような猫なで声で、天使はラフィーナの望みを聞き出そうとする。ラフィーナは男の策略に掛かり、答えようと唇を開く。けれど何かに引き止められるように我に返り、再び唇を一文字に閉じる。

 静寂が辺りを支配し、北方より流れる風が絶えず二人の間を吹き抜けた。

 ラフィーナは躊躇いを捨てるように軽く頭を振り、観念したように形の良い唇を開いた。

「わたくしの望みはただ一つ。自由の身となり、全てのしがらみより解放される事……。けれど王族たる者、責務と誇りは捨てられぬ。だから……永遠にその楔より解き放たれる事はない」

 地位というものは時に人を縛る枷となる。生まれながらにして王の血を引き継いだラフィーナに、自由は無かった。国を思い、ゼルスの元へ行くという決断すら、周りに引き止められた。結局、最期まで自らの行く末を選ぶ事すらできなかった。望みは失われ、今はただ絶望を心に、終焉を待ち続けるだけ。今更、誰がラフィーナを救うというのだろうか。全てが失われ、この先に望みは無い。今のラフィーナに出来るのは、最期の抵抗にゼルスへ一矢報いる事だけだ。

 ラフィーナは望みを告げても無駄だと理解していた。何もかもが遅すぎた。せめて、国が滅びる前だったならば、望みも叶えられたかもしれない。叶える意味があったのかもしれない。けれど滅び行く国でただ一人残された今、自由に何の意味があるのだろうか。

「自由を望むか……」

 ラフィーナの思いを知らぬ天使は、彼女の望みを口にした。

 天使はラフィーナに突きつけた杖を手元に戻すと、ゆっくりとラフィーナへ歩み寄ってきた。

 天使が近づくにつれ、月明かりの影で見止められなかった彼の顔が露になる。ラフィーナは息を呑んだ。天使はその名に相応しい、完璧に美しい容貌を兼ね備えていた。銀か淡い白金だと思い込んでいた髪の色は、透けるほどに混じり気の無い純白。それは癖一つ無く真っ直ぐ背に流れ、腰に届くほど長い。彫刻のように堀の深い目鼻立ち、髪と同じく色素の薄い肌。しかしラフィーナは天使の造形の美しさに驚いたわけではなかった。彼女の視線は、彼の一部に注がれていた。全てが淡い色彩の中、禍々しいほどに映える紅。それは真っ直ぐにラフィーナの瞳を覗き込んでいる。見た事も聞いた事も無い深紅の瞳を、ラフィーナは魅入られたように見つめた。

「女、自由を望むか?」

 深紅の瞳持つ天使に問われ、ラフィーナは弾かれたように肩を震わせた。

 血と屍は恐ろしいと感じなかったのに、この天使の瞳は何と毒々しいのだろうか。天使の容貌の中に、悪魔のような瞳。冷たく突き放したような、人を見下げた視線。血よりも赤く、紅玉よりも高貴な色彩。恐ろしいと思う反面、それは酷く美しい。

 ラフィーナはその瞳に抗うように、きつく男を見据え、震える肩を両手で抱く。気負けしていると感じ取られないように、声色を落として天使の問いに答えた。

「自由を望んだわ。でも、それは遥か昔の事。今は叶わぬ夢を見たと、その愚かさに自嘲するだけ。滅びを待つだけのわたくしに望みは無い」

 ラフィーナの言葉を理解していないのか、更に天使は座り込む彼女に近づく。ラフィーナは心の内で微かな恐怖を覚えた。死を覚悟し、滅びを待つだけと思っていた命が、近づく天使に恐れを示す。鼓動が早まり、込み上げる震えを必死に押し殺して、ラフィーナは耐えた。

 鼻先が触れるほどに近づき、天使はラフィーナの目線まで腰を折り、屈む。息を止めて成り行きを見つめるラフィーナの頬に、冷たい指先が触れた。滑らかな感触を楽しむように頬を滑り、天使の手はラフィーナの顎を捕らえる。軽く指先に力を入れられ、ラフィーナは否応無しに天使の方へ顔を向ける。深紅の瞳が間近にあり、その透き通るような紅が、ラフィーナを捉えていた。

「デルフィーネの皇女ラフィーナよ、滅びの女神デラに愛されし娘。望み無きそなたに自由を与えよう」

「……何を今更」

 天使の言葉を聞き、心の奥底から込み上げてくる感情は、虚しいほどの悲しみだった。今、望みが叶っても何の意味も無い。家族も友も全て失った今、自由など何の価値も持たないのだ。滅びを待つ命に、希望など与えてどうするつもりなのだろうか。

 堪え続けてきた悲しみ、怒り、絶望、虚無、その全てが心の中で渦巻いていく。混ざり合い、どうする事も出来ない思いを、ありったけの憎悪を込めて天使にぶつける。ラフィーナはきつく、白い神の御使いを睨みつけた。

 今更何故。そう目で訴え、ラフィーナは天使の手を振り払おうと腕を振り上げた。大きく振りかぶり、天使の手めがけて振り下ろす。けれどそれは、天使の空いていた手に阻まれ、掴みあげられてしまう。手首の骨が軋み、その痛みにラフィーナは顔を歪めた。

 自分をきつく見据えるラフィーナに、天使は微笑みかけた。

「共に来い、ラフィーナ」

「……天使の世界へでも連れて行くというの?」

「いや、違う。私は既に堕天した身。そなたと同じく、追われる側の者だ」

 堕天という言葉にラフィーナは驚き、掴みあげられていた腕から力を抜いた。美しくも邪気を孕む天使は、理解できないほど優しくラフィーナを見つめている。

「何故……?」

「天使の世界はそなたら人間が思うほど美しくも気高くも無い。私はそれら全てのしがらみを捨て、自由を手に入れる。だが一人で自由と叫んでも、実感が沸かぬ。そなたは縛られているのだろう? ならば、私と来い。共に自由を得ようぞ」

 ラフィーナは訳が分からず、大粒の黒曜石の瞳を瞬いた。しかし、何度瞬いてもその瞳に映るのは深紅の瞳で、これが夢で無いと自覚させられる。

「何故、わたくしなの?」

 天使は答えず、そっとラフィーナの漆黒の前髪を払った。露になった白い額には、傷とも見れる紋が存在していた。天使はラフィーナの額に刻まれた紋に、冷ややかな指先で触れる。その紋は、ラフィーナが滅びの女神に愛され生まれてきた証であった。神々に愛された者には、身体のどこかに紋が刻まれる。ラフィーナは生れ落ちた時より、額に古代ルーン文字を連想させる滅びの紋があったのだ。

「そなたは私と同じ……。それに枯らすには惜しい花だ」

 そう言って、天使はラフィーナの腕を解放した。額に触れていた手も離し、ゆっくりと天使は立ち上がる。

 ラフィーナは天使を不思議そうに見上げた。

「我が名はアルヴェリア。十二の神に愛され、呪われし者。ラフィーナ、私と共に来い」

 白き天使アルヴェリアは、ラフィーナに手を差し出した。

 彼は背の翼を広げ、大きく羽ばたかす。漆黒の世界に、純白の翼が広がる。その眩さに、ラフィーナは瞳を細めた。

 白い法衣の袖より伸びる手は、ラフィーナを救うもの。

 けれど差し出されたその手は、ラフィーナの一言で去る。生と死の狭間、絶望に生きるか、安らぎ死ぬか。極端な選択肢に足された、予期せぬ道。堕天使と共に自由を得る。それはラフィーナの考えた事の無い道だ。

 先に待ち受けるのは絶望かもしれない。騙され死ぬのかもしれない。希望があるのもしれない。

 けれど、死に逝った父と弟、民達は何と思うだろう。彼らの元へ逝くのを待っているだろうか。それともラフィーナの生を望むだろうか。しかし、それに答えるのは他の誰でもなくラフィーナ自身だ。

 迷うラフィーナを横目に、アルヴェリアが動いた。翼を広げ、瓦礫の地を蹴り空へと浮かぶ。

 次第に遠ざかる腕を見つめ、ラフィーナは無意識のうちに立ち上がっていた。たった一度の機会、捨ててしまうにはあまりにも惜しい気がして。ラフィーナは縋りつく思いでその腕を掴み取った。

 アルヴェリアはラフィーナを抱き上げて、満足そうに微笑んだ。

 力強く翼を羽ばたかせ、アルヴェリアは空高く舞い上がる。

 白い羽根が一枚二枚と地に揺れ落ちて、再び廃墟に静寂が戻る。

 そして千の時を永らえたデルフィーネ王国は、音も無く滅び去った。