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紅き天使の黙示録

第一章 -2- 救いの手

 薄氷の上に投げ出されたような気分だった。

 冷たい床は体温を奪い、平らでないため酷く居心地が悪い。全身にしびれるような痛みを感じて、ラキエルは小さく唸った。身体が思うように動かない。意識は朦朧としていて、夢の中を漂っているような感じがした。

 はっきりとしない意識の片隅で、朧げな歌が聞こえる。

 優しく紡がれる声は透き通り、深く心に染み渡るような音色だった。詞までは聞き取れなかったが、繊細で美しい旋律が奏でる歌は、どこか懐かしく、耳に心地よい。

 ふとラキエルの頬に、温かな何かが触れた。しっとりとした感触のそれは、優しく頬を、額を撫ぜる。不思議な事に、それが触れた所から、全身に広がっていた痛みが引いていく。冷たくなっていた指先に熱が戻り、夢心地を彷徨う意識が呼び寄せられる。

 無意識のうちに、ラキエルは頬を撫ぜたものを掴んだ。

 歌声が止み、代わりに小さな悲鳴が上がる。

 ラキエルの知らない、女の声だった。

「……だれだ?」

 ラキエルの掴み取ったものが、怯えたように震える。細く頼りなげなそれは、ラキエルの指よりすり抜けた。

 温かな感触が去り行き、ラキエルはどこか寂しさを感じた。置いていかれるような焦燥感を覚え、手を伸ばす。だが、宙を彷徨う手は、ただ空気だけを掴んだ。柔らかな温もりを、見つける事は出来なかった。

 伸ばした手を床に下ろして、ラキエルは瞳を開いた。

 ぼやけた視界は次第に鮮明になり、この場所が薄暗い空間だと理解する。無機質な石で囲われた、狭い場所だった。高い天井の近くに、柵の取り付けられた窓があり、その場所から細い光が伸びている。荒削りされたような石の床はひんやりと冷たく、所々薄汚れていた。

 ラキエルは身体を起こし、辺りを見まわした。

 一番初めに視界に飛び込んできたのは、鉄の檻であった。窓のある石壁以外は、太い鉄の柵に囲まれている。通路を挟んだ向かい側は、ラキエルのいる場所と同じ檻が存在していた。

 己の立たされている状況がつかめず、ラキエルは柵を掴み力任せに引いた。だが、鉄の檻は強固で、引いても押してもびくともしない。

「ここは……?」

 何故このような場所にいるのだろうか。

 訳がわからず、ラキエルは記憶の糸を辿る。

 ラキエルは神殿内の祈りの間へと向かうはずだった。

 ラキエルは毎朝早くに、祈りの間へと足を運んでいる。一日の平穏を願い、神への感謝の言葉を伝えるのが、ラキエルの日課であった。早朝のこのひとときは、ラキエルにとってもっとも心安らぐ時間だった。一人きり、誰の干渉も受けずに瞑想にふける。しんと静まり返るその空間では、嘲笑も嫌味も耳に届かない。神の御前で、ただ平和を望み祈りを捧げる。未完全な天使であるラキエルに唯一許された、人のための祈りだ。

 けれど祈りの間に辿り着く前に、四人の天使に絡まれ、ラグナを垣間見て、ディエルに遭遇し、その後、知らぬ男に出会った。

 漆黒の外套を頭よりすっぽりと被った、異質な男の姿が脳裏に浮かぶ。

 ――お前の存在は、この天界の汚点となる。

 男の言葉が蘇り、ラキエルは力なく石の床に膝をつけた。

 突然その言葉を告げられた時は、何の事かと戸惑った。しかし、冷静にその言葉の意味を考えれば、思い当たる事柄があった。

 ラキエルの存在は、天界に混乱をもたらす。それは、紅い瞳のせいだけではない。

 ラキエルには二つ、知られたくない秘密があった。

 一つは長い前髪で隠した瞳の色。

 そして、もう一つは――。

「ラキエル」

 石の床を見つめるラキエルの耳に、聞き知った声が届く。

 顔を上げるとそこには、先刻別れたはずの老天使が静かに立っていた。柵を挟んだ外側で、ディエルは悲しげな表情を浮かべている。灰色の瞳には、哀れみのような感情がちらついていた。

「……ディエル様?」

 引き絞るような声色で、ラキエルはディエルに応える。

 視線が交わり、ディエルは悲しげな表情のまま、ただ静かにラキエルを見下ろす。普段、ディエルがラキエルを見つめる視線は、どこか優しげであった。それは慈愛に満ちているようでもあり、ディエルは他の天使よりもラキエルを気にかけてくれていた。ラキエルが落ち込んでいれば、ディエルはすぐに察し、悩み事はないかと尋ねる。悩みを打ち明けた事はないが、ラキエルはディエルの心遣いに感謝してきた。

 厳格で優しいこの老人を、ラキエルは好いている。ディエルがラキエルを気にかけてくれたように、ラキエルもディエルを良く見ていた。普段はいつも優しげで、白い髭に包まれた口元は見えなくとも、どこか微笑んでいるような雰囲気を持っている。

 だが、今のディエルは、悲しい目をしていた。

 心に不安が生まれ、ラキエルは真っ直ぐにディエルの瞳を覗いた。

 静寂が満ちて、世界から音が消える。

 時が止まってしまったかのように、閑散とした空気が流れた。

 やがてディエルは、白く豊かな顎鬚に包まれた唇を動かした。

「天界の最高指導者フィーオ殿が、そなたの処分を決められた」

 重々しく告げられた言葉は、ラキエルにとって、もっとも聞きたくない言葉であった。

「突然このような事になって、驚いているだろう……。わたしも、たった今フィーオ殿に事情を聞いたばかりだ」

 再び視線を石の床に戻し、ラキエルは瞳を閉じる。

「そう、ですか……」

 ラキエルにとって、こうなる日が来る事は前々から知っていた。

 天使に疎まれる理由は瞳の色。けれど、天界の汚点とみなされたのは、瞳の色などではないだろう。

 長年、ラキエルの心に巣食ってきた罪悪感の源。それは、ラキエルに死を宣告するだけの理由を持ち合わせていた。

「白き天使アルヴェリアと同じ紅を持ち、滅びの女神デラの呪いを受けしそなたは、天界に悪影響を及ぼすと判断された」

 ラキエルはただ静かに、こくりと頷き、顔を上げた。

 長く伸ばした前髪を手で押さえ、額を曝け出す。露になる、鮮やかな紅い瞳。その更に上には、色濃い文字にも見える、どす黒い痣が存在していた。白い額に浮かび上がる禍々しい紋様の痣は、ラキエルにとって知られたくないもう一つの秘密であった。

「……俺が、滅びの女神に選ばれたから、ですね」

 ラキエルの額の痣を見つめ、ディエルは深く頷く。

「滅びの女神に選ばれし者は、まわり全てを破滅させる。かつて、滅びの紋を持っていた人間の娘がそうであったように」

「俺の他にも、この紋を持つ人が……?」

 神々の恩寵は、一人の存在に与えられる。

 同じ神の恩寵を、選ばれた者以外が受ける事はない。選ばれし一人が死ぬその時まで、神の恩寵は持続する。故に、今滅びの女神の恩寵を受けているのは、ラキエルだけだ。

 だが、ラキエルの他にこの紋を持つ者がいたというのは初耳だった。

 疑問を返すラキエルに、ディエルは静かに頷く。

「そう。そなたの前に、滅びの女神に選ばれてしまった哀れな娘がいた。その娘は、女神の寵愛を受けたが故に、肉親や祖国、大切なもの全てを失った。滅びの紋を持ちえし者は、まわりを全て巻き込み終焉へと導く。……それが、滅びの女神の呪いだ。……そして、いつかお前の存在が、天を滅ぼすと判断された」

 神々の恩寵は、必ずしも素晴らしいものとは限らない。

 神の紋は、人や天使に大いなる力を与える。それらは使い方次第で善にも悪にもなりうる。だが、神々が選ぶ者は、心清き者の場合が多い。だから、神の力が悪用される事など、あまり無いのだ。

 しかし、滅びの女神の恩寵だけは違う。神々の中でもっとも不吉な役割を持つ女神デラは、選んだその者を滅びへ導く。力を与える訳でもなければ、心清き者だけを選ぶわけでもない。女神の象徴する「滅び」そのものを、選びし者へ贈るのだ。

 滅びの女神に愛されし者は、遅かれ早かれ死ぬ定め。死して女神の御許へ、女神を慰めるために行くのだ。

「ラキエル。そなたに罪は無い」

 掠れた声で、ディエルは呟く。

 ラキエルは黙ってその声を聞いた。

 紅き瞳と滅びの紋。それらは全て、ラキエルが生れ落ちた時より持っていた。生きる過程で罪を犯したのならば、それを償うのは当然だ。だが、生れ落ちた事が罪ならば、その罰は誰が受けるのだろうか。
 いつかその選択を迫られる日が来る事を、ラキエルは予想していた。

 己の額にあるものが滅びの紋と知った時より、ラキエルは答えを探し続けてきた。毎日祈りの間へ足を運び、神に啓示を求めもした。

 長き葛藤の末、様々な答え、いくつもの道からラキエルが選んだのは、運命に身を委ねる道であった。
 ラキエルは悲しげなディエルを覗き込んで、血の気の薄い唇を開いた。

「天使は死した後、神の御許へ還ります。それが遅いか早いか、それだけです。……それに、俺は女神の呪いが天を滅ぼす事を望みません。だからこの呪いと共に、少し早いかもしれませんが、女神の御許へ参りましょう」

 天使は神の子であり、使いであり、僕だ。

 望まれるのだったら、滅ぼす役割を持つ悲しい女神へ命を差し出そう。それで天界が危険に晒される事無く、女神の心も安らぐのならば、ラキエルは天命に従うまでだ。

 全てを受け入れるというラキエルの答えに、ディエルは瞳を曇らせる。緩く首を振り、ディエルは腕を伸ばしてラキエルの肩を掴んだ。骨ばった指が食い込み、ラキエルは僅かに驚く。

「ラキエルよ。違う。……違うのだ。本来ならば、女神の呪いはそなたを裁く理由にはならぬ。上の者たちは、そなたをアルヴェリアとして裁きたいだけなのだ」

「――アルヴェリア? 何故、俺をアルヴェリアに?」

 ディエルの言葉に動揺を隠せず、ラキエルは眉根を寄せる。ディエルはラキエルの疑問に答えず、ラキエルより視線を外した。

「そなたに罪は無い。そなたが受けるべき罰など、もとより何一つ無いのだ」

 小刻みに震える声は今にも消え入りそうなほど小さい。それと反比例して、ラキエルの肩に乗せられた手に力が込められる。細い老人のどこにこんな力があるのだろうか。ラキエルの肩を砕かんばかりの勢いで押さえ、ディエルは首を振った。

 皺の刻まれた顔には、深い翳りが落ちている。見えぬ何かと対峙しているように、ディエルの表情は険しく、骨ばった肩は震えていた。

 その様に返す言葉が見つからず、ラキエルは俯く。

 ディエルは何かを知っている。だが、神殿を預かる者として、ディエルは真実を告げられないのだ。軽はずみな言動の許されない立場にあるディエル。普段は落ち着いた雰囲気を持つ老天使は、今はラキエルよりも遥かに苦しんでいるように見えた。

「ディエル様」

 いたたまれず、ラキエルはディエルの手をやんわりと外し、一歩後退する。

「俺はこうなる事を覚悟していた。だから、俺は自分の意思で女神の元へ行くんです。名目が何であれ……、俺は受け入れます」

 口元に笑みを浮かべようとして、ラキエルは己の表情が引きつっている事に気付く。長年笑った事など無かった顔は、優しく微笑む事を忘れていた。何故だかそれが悲しくて、ラキエルはごつごつとした石の床へ視線を落とす。長い前髪がさらりと零れ落ちて、顔の半分を覆い隠した。

 痛々しげなラキエルの様子に、ディエルは己の非力さを感じた。天使として生まれたラキエル。彼は、笑う事すら許されず、過酷な運命を強いられてきた。外見的特長という、実に下らない理由で迫害を受け、滅びの紋の呪いに苛まれてきた哀れな青年。ディエルはそんなラキエルを救ってやりたいと思っていた。誰かがラキエルを憎むのならば、ディエルはその何倍も、この天使を愛してやろうと心に決めていた。

 だが、それは全て叶わずに終わる。

 ただ檻の外側より見守る事しか出来ぬ我が身を呪い、ディエルは拳を固めた。

 ディエルの役目は、ラキエルが裁かれるその日まで、檻に幽閉して誰の目にも触れないようにする事だ。そう、天界の指導者より、直々に命じられた。

 ディエルに身勝手な行動は許されない。

 神殿を預かるものとしての責任は、決して軽いものではないのだ。

 俯くラキエルをただ悲しく見つめて、ディエルは最後の一言だけを呟いた。

「十日後の夕刻、月の女神の前でそなたは裁かれる」

 ディエルはラキエルの感情を読み取る事ができなかった。

 黒髪の合間より覗く寂しげな瞳には、怒りも絶望も存在しない。ただ途方もない悲しみだけが満ちて、それがディエルの心を痛めた。

「……ええ。ディエル様。少し、一人にさせてくださりませんか?」

 俯いたまま、ラキエルは平然とした声音で言う。

 ディエルは無言のまま頷き、牢に背を向けた。

 重々しい足取りでディエルは牢獄より立ち去っていく。その後姿を見つめながら、ラキエルは深く息を吐いた。

 今更、反抗する気は無い。

 女神の呪いがもたらす脅威を考えれば、ラキエルを抹消するのは当然だ。例えそれに、ラキエルの知らない思惑が含まれているのだとしても、結果は同じ事。ただ、一人でもラキエルの死を嘆いてくれる人がいるのならば、それだけで良い。

 最後に見つめたディエルの悲しげな瞳が、脳裏に焼きついて離れない。

 よろよろと柵より離れ、ラキエルは石の壁にもたれ掛かる。気力果てた囚人のように、だらりと床へ腰を下ろした。

 残された時間は十日。

 普通ならば、過去を振り返って思い出に浸るものだろうか。それとも、神に祈り懺悔するのだろうか。だが、そのどちらも、今のラキエルには出来そうになかった。

 過去を振り返るほど、ラキエルには良い思い出がない。

 神に懺悔するにしても、何を告白するのか思いつかない。

 今は一人になりたかった。

 落ち着かない心を宥めるだけの時間が必要であった。

 死刑宣告をされたようなものなのに、不思議と恐怖は無い。

 だが、何か遣り残してしまった事がある気がして、それがラキエルの心を憂鬱にさせた。ひどく落ち着かず、そわそわとして、だけどその理由が分からない。

 自分の膝を抱き寄せて、ラキエルは顔を伏せた。

「――おい」

 突然、ラキエルの鼓膜に声が入り込む。

 ラキエルは顔を上げて、辺りを見回した。

 がらりとした牢獄に人の気配は無い。背後以外の四方を見回しても、石の壁と鉄の柵しか見つける事は出来なかった。

 空耳だと考え、再びラキエルはもとの体勢に戻ろうとする。

「おい。こっち向けよ」

 再び発せられた声と同時に、ラキエルの頭上に固いものが落とされた。

 小気味良い音が響き、ラキエルの頭部に鈍い痛みが走る。

「った!」

 しゃらん、と軽い金属が擦れあうような音色が鳴る。

 ラキエルが頭上を仰ぐとそこに、人の頭部よりも大きな十字架が存在しいた。それは隣の檻とを仕切る柵の奥より伸びている。光の届かないその先は、ラキエルの檻とは違いひどく暗い。視線を伸ばし、目を凝らすと、暗闇の中で青白い首が浮かんでいた。

「よぉ。さっきも会ったよな」

 口元をにたりと笑わせて、暗闇に浮かんだ首が喋る。

 暗い中で、異様なほど光を集めて輝く琥珀色の瞳が、夜空に浮かぶ月を思い浮かばせる。女性的とはまた違う端正な顔立ちはどこか子供っぽさを残して、それが生首を余計に不気味に見せた。色味の薄い唇は歪んだように微笑んでいるが、鋭く釣り上がった瞳は笑ってなどいない。一見無邪気な子供を思い起こさせるその表情は、油断のならない雰囲気を漂わせていた。

 生首が動いたかと思うと、首より下の身体が闇より抜き出た。それが何も無い空間から現れ出でたかのように見え、ラキエルは驚き瞳を大きく開く。

 ラキエルの頭上を彷徨っていた十字架を柵の隙間から取り戻し、男はラキエルを見下ろした。

「そんなに驚くなよ。隠れてただけなんだからさ」

 暗がりより出てきたのは、黒衣の天使だった。獣の耳を思わせる尖った両方の端に十字架の飾りが付いた、黒く風変わりな帽子を被り、背より白銀に輝く三枚羽を生やした天使。ディエルに追われていたはずの、悪戯好きな天使ラグナエルがそこにいた。

「おまえは……」

 ラキエルの疑問の言葉を遮り、ラグナが言葉を投げる。

「えーっと……ラキエルだっけ? ……へぇ、本当に紅い目なんだな」

 ラキエルと同じ目線までしゃがみ込み、ラグナは無遠慮にラキエルの瞳を覗き込む。輝きを持つ琥珀色の瞳に見つめられ、ラキエルは不快そうに眉根を寄せた。

「確かに、アルヴェリアに似てない事も無い、か……」

 一人ごちに呟き、ラグナは口角を上げた。

「あんたさぁ、結構有名だよな。神殿の連中があんたの噂してるの、よく聞くぜ?」

 噂ではなく、陰口の間違いだろう。

 深紅の瞳について悪く言う者が大勢いる事を、ラキエルは知っている。だが、あまり人との関わりを持たない問題天使が、何故その噂を知っているのだろうか。不思議にこそ思うが、あえてそれには触れず、ラキエルはラグナに負けじと言い返す。

「おまえも有名だ。月の女神に選ばれた天使ラグナエル。何故こんなところにいる?」

「言っただろ。隠れてたのさ。じじぃも最近しつこいからな。やる事たくさんあるってのに、オレばっかり追い掛け回してきやがる。ここはうってつけの隠れ場所だったんだが……」

 まさかディエルも、神殿の地下にある牢獄にラグナが隠れているとは思わないだろう。滅多な事では人の寄り付かないこの場所は、ラグナにとって騒ぎをやり過ごす格好の隠れ場であった。

「黒服が来るわじじぃが来るわで、おちおち昼寝もできねぇのな」

 実に面倒だと言わんばかりに、ラグナは肩を竦めて見せる。

「まあ、お陰で面白い話も聞けたけどな」

 すうっと瞳を細めて、ラグナは笑う。心から喜んでいる笑いではなく、何か面白い玩具を見つけた子供のような笑みだ。だが、相変わらず琥珀色の瞳は欠片も笑っていない。

「……どこから聞いていたんだ?」

「最初っからさ。あんたが痛い痛いって呻いてた時から、オレはここにいたぜ?」

 ふと、ラキエルは目覚める前に聞いた女の声を思い出す。

 しかし意識を取り戻した時は、誰もそばにいなかった。ラグナが気配を消して隠れていたとしても、女がいた痕跡はどこにもない。あれは夢だったのだろうかと考え込み、不適に笑うラグナを見つめた。

「女の声がした。誰かいたのか?」

「さぁ。いたかもしんねぇし、いなかったかもな。夢か現か幻か――」

 真剣な眼差しで問うた言葉を、ラグナは曖昧な答えで返す。

 おどけた態度のラグナを、ラキエルは不愉快そうに睨みつけた。

「怖い顔すんなって。それよりもさぁ、あんた本当に死ぬ気なのか?」

 ラキエルを侮蔑する天使たちとはまた違う、どこか馬鹿にしたような声色でラグナは問いかける。

 恐らくラグナは先程のディエルとの会話を聞いていたのだろう。盗み聞きされていた事に怒りを覚えながら、ラキエルはこくりと頷く。

 結論はもう出ているのだ。今更、答えを変える気は無い。

「へぇ。女神に呪われてるから、あんたは潔く死ぬのか。はっ、本当に迷惑な話だな、女神の恩寵も」

 嘲るように笑い、ラグナは帽子より零れ落ちてきた鳶色の髪をかきあげた。

「……月の女神の恩寵を受けているおまえが、何でそんな事を言う?」

 滅びの女神を別として、神々の恩寵は人に力を与える。魔力だったり、超人的な身体能力だったりと、神々によって様々だが、決して悪いものではない。事実、このラグナは月の女神の恩寵があったからこそ、こうして好き勝手を黙認されているのだ。これがただの問題児であったならば、今頃ディエルによって軽く十年は牢獄入りを科せられたであろう。

 訝しむラキエルを一瞥して、ラグナは口を開いた。

「神々の恩寵はただの呪いさ。あんたが思ってるほど素晴らしいものなんかじゃねぇよ。まあ、月は滅びの女神に比べりゃ、少しはましかもしれないけどな」

「……」

 神々すらも嘲るような物言い。

 ラグナの真意が掴めず、ラキエルは黙りこくる。

「馬鹿らしいとは思わねぇの? 望んでも無い寵愛を押し付けられて、――でもまわりの奴らは女神の呪いが恐ろしいから、元凶を殺せと言う」

 琥珀色の瞳で真っ直ぐにラキエルを見つめ、ラグナは一呼吸の間もおかずに言い切る。

「なのにあんたは、神様が言う事は絶対。神様は素晴らしいって?」

 問題ばかり起こすラグナが、まともな神経では無いと分かっていたが、言葉の端々ににじみ出る不満は、憎しみの感情も存在していた。まるで、神を憎んですらいる、むき出しの敵意。それを表すような、冷ややかな瞳。

 ラキエルにとって、天使とは神の僕にして神の使いだ。神は絶対であり、正しい存在だと信じている。その神々を侮辱されて、ラキエルは不愉快といわんばかりに瞳を細める。

「……神の代理であるフィーオ様の勅命だ」

 フィーオとは、天界の指導者だ。

 天使たちをまとめ、神託を受けてその言葉を天使に伝える、神の代理人。天使たちの中でもっとも高い位を持ち、地上と天界の管理を任されているのもこの天使だ。

 先程、ディエルはフィーオがラキエルの処分を決めたと言った。それはつまり、神の判断と受け取れる。フィーオの言葉は神の声。フィーオの考えは神の意志。だからこそ、ラキエルは大人しく従ったのだ。

「ご立派だな。どうして裁かれるのかも知らないで、神の言葉には絶対服従ってわけか」

 鼻で笑い、ラグナは胡坐をかいて座り込んだ。

「そんじゃ、冥土の土産に一つだけ教えてやるよ。あんたはラキエルとして裁かれるわけじゃない」

 身長はラキエルの方が高いため、ラグナはラキエルを見上げる形となるのだが、その目線はどこか挑むような鋭さを帯びている。それを真っ直ぐに受け止めて、ラキエルは疑問を返す。

「ディエル様も、そんな事を言っていた。どういう意味だ?」

 鉄の柵ごしに問いかけると、ラグナは面白そうな表情を浮かべた。

「名目がなんであれ、受け入れるんじゃなかったのか?」

 ラグナがわざとらしい口調で言い返してみると、ラキエルの表情が歪む。その様子を楽しんでいるようなラグナに、ラキエルは溜息をつきながら尚も食い下がった。

「自分の事だ。知っていても良いと思っただけだ」

「へぇ……まあ良いか、教えてやるよ」

 十字架を象った杖をラキエルへ向けて、ラグナは一言二言呪を紡ぐ。

 十字の先端に朧な光が現れ、暗闇を眩く照らし出す。光は虹彩を取り入れ、色が混ざり合い溶け合ううちに、光の中に男の顔が浮かんだ。

 輝くほど白く、絹のように滑らかな長い髪が癖一つ無く額に掛かり、肩へ胸へと落ちている。彫刻に彫ったかのような美しい造形の目鼻立ち、白磁の肌。その中ではっきりと目を惹く、鮮やかな色の瞳が印象的な、ラキエルの知らない男であった。

 どこかで見た事のある紅い赤い紅蓮の瞳は、真っ直ぐにラキエルを見つめている。

「まさか……」

 息を呑んで、ラキエルは光に浮かび上がった男を凝視する。

「そのまさかさ。あんたも名前くらいは聞いた事あるだろ? これが、天界と地上界を騒がせてる、かつての白き天使アルヴェリアだ」

 ラキエルはアルヴェリアの名こそ知っていたが、その姿を見るのは初めてであった。ラキエルとよく似た、紅い瞳。それはラキエルの想像よりも遥かに神秘的で、けれど白に浮かぶ紅い色彩は、どこか不吉でもあった。十二の神に選ばれ、寵愛を欲しい儘にしたアルヴェリア。少し前までは、フィーオよりもなお神の近くにいた天使。

「アルヴェリアは、天使と神を裏切った。昔の偉人も今では、多くの人間や天使の命を奪い、大地へ堕天した第一級の罪人だ。それは知ってるよな?」

「ああ。でも何で」

 動揺を隠し切れないラキエルは、信じられないものを見るようにラグナを見つめた。

「あんたはさ、アルヴェリアが罪を犯した理由を考えた事あるか? ……あれだけ栄光の真っ只中にいた奴が、理由も無く誰かの命を奪って、栄光の座を捨てると思うか?」

 声色を落とし、落ち着いた口調でラグナは言う。

 今までのおどけた態度が一変し、ラキエルは戸惑いを感じながらも、ラグナの言葉の意味を考える。
 ラキエルが返事をする間もなく、再びラグナが口を開いた。

「話を変えようか。もしあんたが、誰かの『代わり』として裁かれるとしたら、甘んじてそれを受けるか? 誰かの手の上で踊らされてると知っても、それから目を逸らして死を選ぶのか?」

 ラグナは杖を振るい、白い光に浮かんだアルヴェリアをかき消す。

 そして先程と同じように呪を唱え、再び光に別の誰かを浮かばせる。

 アルヴェリアの代わりに浮かび上がったのは、ラキエルだった。長い前髪で額と瞳を隠した、まだ幼さの残る青年が光に浮かぶ。だが、ラキエルの知る己の姿ではなかった。顔の造形は鏡に映したように同じ。けれど、額にかかる髪の色は、雪のように混じり気の無い純白に塗り潰されていた。

 その姿は、どこかアルヴェリアに似ていて、ラキエル自身、妙な疑いを持ってしまうほどだ。

「何が言いたい」

 ラグナの言葉の真意が掴めず、ラキエルは低く言葉を投げる。

 ラグナは口角を上げて微笑み、どこか見下げたような視線をラキエルに向けた。

「あんたはアルヴェリアとして裁かれる。滅びの女神の呪いを受けた半人前の天使ラキエルとしてじゃなく、第一級犯罪人アルヴェリアとして大衆とサリエルの前で裁かれるのさ。裁かれる理由は、神を裏切った罪、そして天使殺しの罪だ」

 はっきりとそう告げて、ラグナはラキエルの幻影を光と共に消した。

 ラキエルはラグナから視線を外し、瞳を閉じて頭を振る。

「……戯言だ」

 ラグナの言葉が真実であるはずない。彼への先入観から、ラキエルはラグナの言葉を否定する。ラキエルが信じるのは、天上の神々と、彼らの声を聞くフィーオだ。天界切っての問題児の言葉を信じるほど、ラキエルは愚かではない。

「そう思っても良いぜ。オレはオレの知る事を教えただけだからな。実際オレも、何であんたをアルヴェリアに見立てるなんて回りくどい事するのか、知らないしな」

 ラキエルには、ラグナの言葉が真実なのか、判断しかねた。

 ただ、先程のディエルとのやり取りを思い出す。

 罪が無いのにと、ラキエルの為に嘆いた老天使。ラキエルよりもずっと苦しんでいた、悲しげなディエルの目が浮かび上がる。

 ――上の者たちは、そなたをアルヴェリアとして裁きたいだけなのだ。

 確かに、ディエルはそう言った。ラグナと同じ事を、ディエルは口走った。思わず喉を突いて出た言葉は、一体どのような意味が込められていたのだろうか。

 ラキエルが裁かれる理由は、額の紋の存在故だと思っていた。滅びの紋が呼ぶ呪いは、災厄の元凶と見られても仕方が無い。更に紅い瞳がアルヴェリアを彷彿させて、天界を混乱させるという理由にも納得がいく。それらが天界の汚点として残る前に、速やかに消した方が良いというのは、仕方が無い事だと思ってきた。

 だが、真実は違うのだろうか。

 ラグナやディエルが言うように、ラキエルの知らない思惑が影で動いているのだろうか。

 そしてラキエルは、それを知らぬままこの世から消えるのだろうか。

「……何が正しいかは、あんたにしか決められない。オレはあんたがどうなろうと知ったこっちゃないし、生きようが死のうがどうでもいい」

 突き放すような冷たい声で、ラグナは言い切った。

 行き着く先は、死。

 それがラキエルの全てだった。どんな道を歩んでも、どんな道を選んでも、最後には死が待ち受けるのだと思ってきた。神の御許へ行くためというのも、結局言い訳に過ぎない。ただ、先の見えない未来がたまらなく不安で、死という逃げ道を自ら選んだ。

 一人きりの寂しさに、どこか疲れていたのかもしれない。

 神は敬うべき偉大な象徴だ。

 けれど言ってしまえばそれだけで、ラキエルは神々がどんな存在なのかも知らない。ただ、天使として、神が創り出したこの世界に生きる者として、神々の存在を誇大評価してきた。

 神の声は絶対なるもの。

 神の意思は、生きとし生けるもの全ての意思。

 そう考える事は、間違っていないはずだ。だが、それらを踏まえて、ラキエルの意志はどこに存在していたのだろうか。信じていれば救われると、心の奥底で思ってはいなかっただろうか。

 その全てがラグナの言葉により覆されて、ラキエルはただ戸惑う。

「……俺は、どうすればいい?」

 ラグナの言葉を鵜呑みにする気は無い。

 けれど、もしもディエルやラグナの言葉に少しでも真実が混じっているのならば、ラキエルはどうすべきなのだろうか。

 見つめた先でラグナは、冷ややかな視線をラキエルへ向けるだけだった。

「知らねぇって。決めるのはあんたであって、オレじゃない」

 ラキエルは返す答えが見つからず、一文字に口を閉じる。

 そんなラキエルを横目で見やり、ラグナは銀の杖を支えに立ち上がった。

「んじゃラキエル。もう一度聞くぜ? あんた本当に死ぬ気なのか?」

 女神がラキエルの死を望むのならば、ラキエルは従うつもりだった。

 けれど、ラキエルの死を願うのが、神ではなく天使なのだとしたら。それに従う理由は、ラキエルにはない。

 ラキエルはアルヴェリアではないのだ。一度も会った事の無い堕天使の代わりに裁かれるなど馬鹿げている。恐らく、ラグナはそう言いたいのだ。

 改めて死ぬ気なのかと問われ、ラキエルは困惑する。

「俺は……」

 半ば諦めて、生きる事を自ら放棄していた。

 女神に呪われた自分には生きる資格が無いのだと思い込み、死をも恐れず、どこか冷めた目で現実を見つめてきた。まわりの視線を気にして、感情を大っぴらに出すのも恐れた。

 生きていながら死んでいるような、何の重さも無い人生。

 生と死の境界線は限りなく薄く、脆い。

 それでも、ラキエルは今生きている。まだ、死んでない。

 死を受け入れる反面、心のどこかで遣り残した何かを探し続けている。

 それが何であるのか分からないのだけれど、死を望まない気持ちが、確かに存在していた。落ち着かず、そわそわしていたのは、恐らく生への渇望だ。諦めようとするラキエルに、ほんの僅かに芽吹く生への執着。それは偽り無くラキエルの願いであった。

「――俺は、許されるのなら……生きたい」

 そう、本当は生きていたい。

 まだ、死にたくなど無いのだ。

 許されるのならば、女神がラキエルの魂を迎えに来るその日まで、生きていたい。

 押し殺してきた素直な感情を言葉にして、ラキエルは聞き取るのも困難な声で呟く。掠れた声で紡がれたそれを聞き届け、ラグナは口元を綻ばせた。

「なら生きろよ。簡単に諦めて、死を選ぶんじゃねぇよ」

 上手く口車に乗せられてしまった気がしないでもない。

 だが、口角を上げて笑うラグナに、邪気は感じられなかった。

 ラキエルはそこで初めて、自分の願いを告げたのだと気づく。気恥ずかしい気分になり、ラキエルはラグナより視線を外した。

「なぁ、オレと一緒に行かないか?」

 唐突にラグナが一言呟く。

「どこへ?」

「天使も神もいない場所にさ。あんたはこのままここにいれば、確実に殺される。それは分かるだろ? 生きるためには、ここから逃げないといけない」

 確かに、今更ラキエルが反抗したところで、待ち受けるのは死だ。フィーオの思惑が変わらない限り、ラキエルは牢獄から出る事も出来ない。この場所より出るという事はつまり、逃げ出すという事だ。

 それは勿論、天への反逆である。

 ラグナは杖を持つ手とは逆の手を、柵の隙間より差し出した。男にしてはやけに繊細な手は、窓より一筋伸びた光を受けて白く頼りなげに見える。

 差し出された手とラグナを交互に見やり、ラキエルは身体をラグナに向けた。

「オレの手を取って、一緒に脱走するか。それとも大人しく死を待つか」

 罪無き罰を受けて死ぬか、罪を重ねて生きるか。

 二つの選択肢に善悪の区別は無く、どちらが正しいとは一概に言えない。

 この問題児の天使が、どういうつもりでラキエルを助けるのかは分からない。だが、彼の言うとおり、ここでラキエルが選ばなければ、近い未来に待つのは死だ。

「今ここで選べよ」

 罪を背負い生きるか、罪無く死ぬか。

「――俺は」

 ラキエルは手を伸ばす。頭の中では駄目だと思う気持ちがあった。

 神を信じてきたラキエルは、天への反逆が何よりも重い罪に思える。

 たとえ理不尽な死だとしても、受け入れるべきだろうと、ラキエルの良心が囁く。罪を犯すよりは、死を選べ、と。

 けれどそれ以上に――。

「生きたい」

 生きることが罪なのだとしても、まだ死を選ぶには早すぎる。

 綺麗事を並べても、死んでしまっては何の意味も無い。

 だから、ラキエルは生を願う。

 ゆっくりと伸びたラキエルの手は、柵の奥より差し出された救いの手を、しっかりと掴み取った。