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紅き天使の黙示録

第一章 -4- 自由の翼

 黒く、暗く、一欠けらの光も存在しない暗闇の世界に投げ出された。

 身体を包み込んでいた光は消え失せて、視界は混じり気の無い純粋な漆黒で塗り潰される。辺りには人の気配も無く、ただ耳に痛いほどの静寂に満ちていた。四方を見渡しても暗い空間だけが存在していてる。

 突然の事に状況を飲み込めず、ラキエルは沈黙のまま視線を配らせた。

 すぐ傍で、衣擦れの音がラキエルの耳に届く。ラキエルは反射的に振り向いて、闇の奥に存在するであろう人物の反応を待った。

 小さく何かを囁いたかと思うと、仄かな光が浮かび上がる。

 青白い光に照らし出されたのは、ラグナだった。

 彼は不機嫌そうに眉根を寄せて、探るように辺りを見回している。ラグナも先程の金色の光に包まれて、この場所まで飛ばされてきたらしい。腑に落ちないといった表情を浮かべているところを見ると、どうやら先程の移動魔術を使ったのは、ラグナでは無さそうだ。

 ラキエルが声を掛けようとした所で、先に何かを見つけたラグナが口を開いた。

「手出しするなって言ったはずだぜ?」

 暗闇の彼方に向かって、ややきつい口調でラグナは言い放つ。

 すると、闇の奥底で何かが小さく震えた。

『――貴方たちが傷つくかと思って……見ていられなかった』

 透き通るほどに美しい声が、ラキエルとラグナの耳元で響いた。

 空気を伝わり鼓膜に届いたというよりは、耳元で囁きかけられたような気がする。脳に直接響いたのかと錯覚するほど、不思議な声であった。

 そしてそれは、先程ラキエルの耳元に届いたものと同じ声でもあった。

 ラグナが魔術で呼び出した光を高い位置に移動させると、闇に隠れていた存在が照らし出される。

 闇より出てきたのは、小さな娘だった。

 光を受けて輝く淡い金糸の髪は、緩やかなウェーブを描いて腰に届くほど長い。色を持たないかのように白く滑らかな肌。細い肢体を薄い絹のドレスで包み、ひらひらと層を重ねて広がる裾が薔薇の花を連想させる。幼いながらに、はっと息を呑むほど整った容貌を持つ、可憐な娘であった。

 娘は悲しげに瞳を閉じたまま、俯いていた。胸の前で手と手を結び、祈るように黒い床に座り込んでいる。

『ごめんなさい……』

 消え入りそうなほど小さな声で囁いて、娘は瞼を開いた。

 大きな目に埋め込まれた曇り硝子のような瞳が、ラグナとラキエルを通り越して遥か闇の彼方を見つめる。

 娘の瞳を見止め、ラキエルは僅かに動揺した。

 ラキエルは己の瞳の色が一般的に無いものだと熟知している。多少珍しい色合いはあるけれど、紅い瞳だけはこの世に存在しないはずのものだった。紅の色彩はラキエルともう一人、罪を犯した堕天使だけが持つもの。

 しかし、誰とも違う瞳を持つラキエルでさえ、娘の瞳に驚きを隠せなかった。

 娘の瞳には色が無かった。

 透き通る白銀の瞳は、焦点の合わないまま虚空をだけを映し出す。

 淡く消え入りそうなほど色素の薄い娘は、虚ろな瞳を細めて微笑んだ。

『貴方たちの邪魔をするつもりはありません』

 知らない娘であるのに、どこかで知っている気がする。

 ラキエルが娘に何かを問いかけようとしたが、それよりも先にラグナが一歩娘へと近づいた。

「そりゃありがたいね。……でも、あんたがオレを庇ったってばれたら、またあんたの立場が危うくなるだけだぜ?」

 どうやらラグナはこの娘を知っているらしい。

 けれど友好的とは言い難く、どこか突き放したような言葉を返す。

 娘はラグナの言葉に小さく微笑んで、緩く首を振った。

『わたくしは良いのです。貴方が無事なら、それで良いの』

「あんたが良くてもオレは良くない、サリエル」

 冷ややかとすら思える声音で言い返し、ラグナは娘を見下ろす。

 けれど娘はすぐに応えず、暗闇の中に再び静やかな空気が流れた。

 気まずい沈黙にどうして良いか分からず、ラキエルはただ二人のやり取りを見守る。たじろぐラキエルを横に、静寂の終止符を打ったのは、娘であった。

『ごめんなさい。貴方はそういう人だものね……』

 蚊の泣くような声で呟き、娘は顔を伏せた。額に掛かっていた金の髪が一束頬に滑り落ちる。

 ラグナは短く溜息を吐いて、娘から視線を外した。

 二人のやり取りの意味が分からず、ラキエルはただ二人を見つめる。そして先程ラグナが呼んだ名に聞き覚えがある事に気付く。

「サリエル……様?」

 恐る恐るラキエルが娘の名を呼ぶと、娘はゆっくりを顔を上げてラキエルの方を見やった。白銀の瞳はやはり虚空を彷徨っているが、確かにサリエルはラキエルを見つめている。

 サリエルは優しい微笑みを浮かべ、唇を動かさぬまま静かに声を紡ぎだした。

『貴方の事も知っています。紅き呪いを受けしラキエル。わたくしは月の娘サリエル。こうして話すのは初めてですね』

 天界には一人だけ、女神が存在する。

 太古の神々の血を引き、唯一この世界で眠りについていない神。どういう経緯かは知らないが、女神はラグナという問題児に恩寵を与えた。記憶に間違いが無ければ、その女神の名がサリエルであった。月の女神、サリエル。すでに象徴としてしか知られていない神の眷属である、至高の存在だ。

 ラグナが神殿にいるので、サリエルは神殿の近くのどこかにいると聞いていた。けれどまさかこのような形で会う事になるとは予期せず、ラキエルは女神を穴が開くほど見つめた。

 女神の姿がこんなにも幼げな娘だとは思わず、呆然とする。

 そんなラキエルに微笑んで、サリエルは申し訳無さそうに小首を傾げた。

『驚かせてしまったようですね……。わたくしは貴方の事をずっと前から知っていました。アルヴェリアと同じ瞳を持つが故の不遇も、滅びの女神の呪いの事も。助けてあげたかったけど、わたくしに貴方を救う力がなかった……。ごめんなさい』

 サリエルに非などないのに、女神はまるで己が罪を犯したかのように謝罪の言葉を述べた。

 ラキエルは慌てて首を振って、床に方膝をつき、恐れ多いとばかりに頭を垂れる。すぐそばでラグナが呆れたように笑ったが、ラキエルはそれを無視した。

「いいえ……。でも、何故ラグナだけでなく俺も助けてくださったのですか?」

 先程の金色の光の介入は、サリエルの力だったようだ。

 女神の愛で子ラグナの危機にサリエルが動いたのは理解できるが、何故ラキエルまで助けたのだろうか。それが気に掛かり、女神に問いかける。

 サリエルはふんわりと優しい眼差しをラキエルに向けた。

『罪無き罰を負わねばならぬ理由など、貴方には無かった。それに、貴方やラグナを自由にしてあげたかったの。差し出がましい事をしてしまってごめんなさい』

 邪気も悪気も感じられない言葉で、サリエルは応える。

 サリエルは柔らかい微笑みこそ常に浮かべているが、何故か無理をしているように見えた。可憐で優しげな笑顔は、作り物めいている。無理矢理表情を明るくして、内に眠る心を押し殺しているようだ。

 ラグナを見やると彼は冷めた表情を顔に貼り付けて、サリエルに背を向けている。ラグナの女神に対する態度の冷たさに少しばかり驚いたが、二人の間柄がどういったものか知らないラキエルに意見する権利は無い。

「『自由にする』とはよく言うな。オレを縛り付けたのは、あんたの恩寵とやらだってのに」

 喉の奥でくつくつと笑い、ラグナは琥珀色の瞳で女神を見下した。

 サリエルは怯えたように肩を震わせたが、何かを言い返す事は無かった。ただ沈黙だけがラグナの言の葉を肯定している。

「……ラグナ、言い過ぎじゃないのか?」

 細い柳眉を寄せて沈むサリエルの様子に哀れみを感じ、ラキエルはラグナを咎めた。

「別に、本当の事しか言ってないぜ? それよりもさっさと行くぞ。この場所だって安全じゃない。じじぃが乱入してくる前に門まで行かないと、お前は牢に逆戻りだ。他人の心配するよりも、自分の事だけ考えてろ」

「でもっ」

 助けてもらった相手に対する態度にしては、いささか酷い。

 サリエルとラグナの間に何があったかなど、ラキエルには知る由もない。だが、どう見てもラグナが一方的にサリエルに冷たく当たっているように見える。

 更に食い下がろうとするラキエルをサリエルが止めた。

『良いの……本当の事だから。ラグナの言うとおり、早く逃げた方がいいわ。もうすぐここに、ディエル達がやってきます。見つかる前に、お行きなさい』

 サリエルは寂しげな表情を隠すように笑顔を浮かべた。

 宙を彷徨う視線は闇の彼方へ、けれど彼女が見ているのは一人の青年だった。

 どんなに冷たい態度を取られようとも、サリエルはラグナだけを見ている。それが恩寵を与えた者への愛情なのか、ラキエルには理解しかねた。だが、二人の間には目で見えない絆があり、それをラグナが断ち切ろうとしている。

「サリエル様は一緒に来られないのですか?」

 このまま二人を別れさせても良いものだろうか。

 ラキエルの見た夢の中で、娘は泣いていた。

 取り残される寂しさに、ただ涙を零すことしかできなかった非力な少女。離れていく手に縋り、いかないでと訴えていた。あの闇の中にいた娘とサリエルが重なって見えて、ラキエルは問いかける。

 しかしサリエルは微笑んだまま首を振った。

『わたくしはどこにも行けないの……。わたくしには構わず、お行きなさい』

「だそうだぜ? 行くぞ、ラキエル」

 女神の言葉に合わせて、ラグナがラキエルを杖で小突く。

 ラキエルはラグナを睨みつけたが、彼は全く動じず、余裕の笑みすら浮かべている。今更だがラグナには何を言っても無駄だと思い、申し訳ないとばかりに女神に頭を垂れた。

『ラキエル、ラグナを頼みます。わたくしはこの子の未来を縛ってしまった……。だからせめて、この子を自由に……天使も神もいない世界に、連れて行って欲しいの』

 小さく震える声が、それをラキエルに伝える。

 今までよりも遥かに消え入りそうな声。

 ラグナを見やると、彼は眠たげに大きな欠伸をしていた。どうやら、今のサリエルの言葉は届いていないらしい。

 サリエルが何故ラキエルを助けたのか、分かった気がした。

 ラグナはラキエルを救ったが、罪人を庇いながら逃げるほどの力を持っていない。だからラキエルは、ラグナを護りながら天界より逃げなくてはいけなかった。しかし、よくよく考えてみれば、ラグナが逃げる必要など無かったはずだ。ラキエルを逃がすだけで留まれば、彼は今までどおりの生活を続けられたはず。それなのにラグナは危険を承知でラキエルと共に逃走を図った。つまり、ラグナも天界から出る事を望んでいたのだ。

 それをサリエルが知っていたのか定かではない。けれど、サリエルはラグナの意志を何よりも尊重している。彼の望みを叶える為に、ラキエルの助力が必要だというのだろう。

 だからこそ、危険を冒してまでサリエルはラキエルを救った。この事が明るみに出れば、サリエルといえども、咎められないはずが無いというのに。

 ラキエルはサリエルの白銀の瞳を覗き込み、静かに頷いた。

「……はい。必ず」

 サリエルはラキエルの言葉に安心したように微笑み、そっと細い両手を持ち上げた。

『門のそばまで送りましょう』

「いい。自分で行ける」

 サリエルの申し出を断るラグナに、サリエルは零れんばかりに愛らしく微笑みかけた。

『これで最後だから。少しだけわたくしに御節介をさせて』

 痛々しいほど健気に、サリエルはラグナを気遣う。

 そんなサリエルの態度に言い返せなくなったのか、ラグナはそっぽを向いて「好きにしろ」と呟いた。

 サリエルは嬉しそうな表情を浮かべて、今まで一度も開かなかった唇を開いた。

「ありがとう、ラグナ」

 高く澄んだ声が、優しい響きを纏い闇に木霊する。

 サリエルがそっと腕を振るうと、暗闇に光が零れた。金色の光が闇を進み、ラキエルとラグナを取り囲む。光は細い糸となり、絡み合いながら二人を優しく包み込んだ。

 ふわりと身体が浮き上がり、二人を縛る重力が消えていく。

「じゃあな、サリエル」

 最後に一度だけラグナがサリエルを振り返り、明るい笑顔を向けた。今までの刺々しい雰囲気の無い、ラグナ本来の明朗とした表情を見つめながら、サリエルは口元を緩めた。

『ええ、さようなら――……』

 次第に光が強くなり、ラキエルとラグナは月色の光に飲まれて消えた。

 再び、サリエルは暗い闇の世界に取り残される。

 少し前までと同じ静寂の中、女神は白く滑らかな頬に透明な雫を零した。

 心に存在する感情はただ一つだけ。

 別れ行く者への名残惜しさ。

 しかし、それを言葉には出来なかった。

 引き止める事も出来ただろう。サリエルが望んだなら、ラグナは思い留まったかもしれない。けれどこれ以上、彼を縛るわけにはいかなかった。

 たった今まであった喧騒は黒に吸収されてしまったようで、物音一つしない閑寂とした空間が広がる。サリエルは頬を滑る涙をそっと拭い、暗い天上を見上げた。

「大地に眠りし我が母よ、どうかあの子達を御守り下さい。わたくしの声が届くのならば、彼らの背に自由の翼を与え給え」

 小さな囁きは歌うような響きを持って、わびしい余韻を残して消えた。

 サリエルは闇に佇み、何も映さない白銀の瞳をそっと閉じる。

 閉じても開いても、サリエルの瞳に存在するのは果て無き闇だけ。彼女の色は琥珀の輝きを持ったまま彼の瞳に。そして彼の明るい鳶色の瞳は遥か昔、裁きの炎に焼かれた。戻らぬ過去を振り返り、サリエルは闇の中で懺悔をする。

 彼を縛り付けてしまった己を呪い、今はただ彼の自由を望んだ。

 サリエルの寂しさは消えない。

 けれどその代償に、彼は解き放たれる。だから――。

『さようなら、ラグナ』

 置いていかれる悲しみを押し殺し、サリエルは呟いた。 

◆◇◆◇◆

 一人きり、闇の中に取り残されるサリエルが酷く不憫に思えた。何故ラグナは冷たく当たっていたのだろうか。優しく儚げな女神に、どうしてあのような態度を取ったのか。ラキエルには理解できない。

 だが、ラグナの最初の言葉を思い出し、彼を非難する事もできなかった。

 ――神々の恩寵はただの呪いさ。

 確かに、ラグナはそう言った。

 ラキエルに与えられた滅びの女神の恩寵が重荷となるのは理解できる。滅びの女神の恩寵とは名ばかりで、実際それは呪いと呼んでも差し支えないものだ。けれど月の女神の恩寵は、ラグナに様々な力を与えたはずだ。高い魔力を有すると言われているサリエルの恩寵があるからこそ、ラグナは魔術を好き勝手に操れるのだろう。

 ラグナがサリエルに対して冷たかったのは、何故なのだろうか。

 金色の光に包み込まれたまま考え続けていると、突然後頭部に鈍い痛みが走った。

「何ぼーっとしてるんだよ。ほら、さっさと行くぜ?」

 振り返った先で、ラグナが憎まれ口を叩く。

 いつの間にか空間移動は終わっていたらしく、ラキエルは細い橋の上に立っていた。

 橋の下は底の見えない夜空が広がり、緩やかな風に雲が流されていく。一定の距離に間隔をおいて聳え立つ柱が橋の両端を飾り、橋を構成する石には独特の魔術文字が刻まれていた。記憶に間違いが無ければ、ここは時空の門へ続く橋だ。

 ラグナはさっさと橋を歩き始め、慌ててラキエルもその後を追った。

「ラグナ、どうしてあんな言い方するんだ」

 どうしても心に引っかかり、ラキエルはラグナに問いかける。

 初対面のラキエルにも、彼はあのような態度を取らなかった。

 ディエルに対しては馬鹿にしているといった感があり、噂に聞くラグナは冷たい人間というよりも、愉快犯といった感じが強い。けれどサリエルに対する態度は、あからさまに冷たかった。言葉も少なく、馬鹿にした風でもなければ貶すわけでも無い。

 だが、誰よりも距離を置いているように見えた。

 まるで、腫れ物に触るような態度を垣間見て、ラグナの真意がますます読めなくなる。

「何の事だ?」

 ラキエルの問いにラグナは振り向かずに応える。

「サリエル様の事だ」

 突然ラグナが歩みを止めて、くるりと振り返った。

「まずオレから質問。あんたさぁ、あいつの事本当に女神様だとか思ってるわけ?」

「……は?」

 ラグナの質問の意味が理解できず、ラキエルはラグナの問いを復唱してみる。深くその答えを考えたが、辿り着く応えは一つだけだ。

「神の血を引く御方だと聞いた」

「あーあ、あんた騙されてるよ。あいつは女神なんかじゃない。フィーオやじじぃが嘘八百を並べ立てて、勝手に崇め奉ってるだけさ」

「どういう事だ?」

 サリエルの存在は、天界で唯一の女神であり、天の象徴そのものであると言われている。その姿を見た事など一度も無かったが、ラキエルは月の女神が尊き存在だと信じていた。けれど実際にサリエルの姿を目にして、彼女が女神なのだといわれてもぴんと来ない。

 あまりにも幼く、儚げで、今にも消えてしまいそうだった小さな少女。神と呼ぶには優し過ぎる気がした。薄っすらとだが、サリエルの表情や言葉からは隠しきれない感情が滲み出ていた。女神と呼ばれる人が、天使の言葉に一喜一憂するものなのだろうか。

 そう、確かにラキエルの想像していた神とは違う。

 だが、ラグナに違うと言われても、今一信じられない。

「あんたさ、何でもかんでも信じりゃ良いってもんじゃないぜ? サリエルはあそこに幽閉されてるのさ。神の象徴として、いいように利用されてる」

「利用……?」

「確かにサリエルは神の血を引いてるのかもしれないが、神様なんかじゃない。並外れた魔力を持ってるし全然歳も取らないが、あいつはただの子供だ。回りの存在に流されて、神様の名を押し付けられてるのさ。……そんな偽りの女神様の恩寵を頂いたオレが、どうして自由気ままに出来るか、不思議だと思わねぇ?」

 天界一の問題児ラグナ。彼が今までに働いてきた悪事は、容易く許されるものでは無いはずだ。いくら逃げ続けているとはいえ、神殿にいたのではいつかは捕まる。しかし、ラグナが捕まったという話は一度も聞いていない。それは一体何故なのだろうか。

「サリエル様が神じゃないなら、おまえは裁かれてるはずだ。どうして見逃される?」

 ラグナはその問いかけを待っていたとばかりに口角を上げた。

「オレはあいつが逃げ出さないための足枷さ。だからオレは何をしても野放しにされてる。じじぃとフィーオが大切にしてるのは、女神としてのサリエルだからな。逃げ出されたら困るらしいぜ。……知ってのとおり、オレに戦う力が無いからな。上の奴らは安心してた」

 面白そうに遥か遠くの夜空を眺め、ラグナはゆっくりとした口調で語る。

「おまえは逃げ出す機会を窺ってたのか?」

 ラキエルに脱走を持ちかけてきたラグナ。

 気まぐれで掴みどころが無く、今の今までラグナがラキエルを救う意味が分からなかった。だが、ラグナの言葉を聞いて、ようやく全てを理解する。

 天界より逃げたがっていたのは、ラキエルではなくラグナだったのだ。

「そうさ。煩わしい神も天使も規則も無い世界に行きたかったんでね」

 悪びれた様子も無く、嬉しそうな表情のままラグナは言う。

 隠し事もせずに堂々と本音を晒すラグナに半ば呆れ、ラキエルは怒る気が失せてしまった。結果的にラグナはラキエルを利用したのかもしれない。けれど、ラグナがラキエルの命を救ったのも事実だ。それだけは、ラキエルも感謝している。

 利用されたというよりは、利害が一致したから共に行動したと考えた方がしっくりくる。

 ラグナの不可解な行動の理由は解ったが、もう一つ疑問が生まれた。

「でも、どうしてサリエル様を置いていく?」

 サリエルの足枷がラグナだと言うのならば、ラグナはサリエルと共に逃げても問題無かったのではないだろうか。サリエルがラグナの足枷となっているわけではないだろうに。けれどサリエルは身を引き、ラグナはサリエルを突き放すようにしていた。

 そうまでする理由があったのだろうか。

 サリエルが利用されているというのならば、尚更救うべきではなかったのだろうか。

 ラキエルの問いにラグナは微笑を消し、つまらなそうに石の橋を見つめた。

「これ以上あいつと関わるのは御免だ。――それに、言っただろ? 神の恩寵は呪いだ。必ず何かしらの災いを呼ぶ。アルヴェリアみたいに……」

「アルヴェリア……?」

 十二の神々の寵愛を与えられた至高の天使。

 誰もが羨望の眼で見つめていた、神にもっとも近い場所にいた天使は堕天した。その理由は明かされていない。ただ、アルヴェリアの狂気として語り継がれ、伝えられて、ラキエルもそうと思い込んでいる。

 けれどそれは違うのだろうか。

 ラグナの言葉は抽象的過ぎて、そこに見え隠れする偽りと真実の境目が見えない。

「どういう意……」

「ラキエル! 伏せろっ!」

 突然ラグナが大声で叫び、ラキエルの傍まで駆け寄り、自分よりも高い位置にある頭を押さえつけた。ラグナに引っ張られるような形でラキエルは石の床に屈みこむ。抗議の声を上げようとしたが、それよりも早く何かが大地へ突き刺さる。

 十数本の矢だった。鋭く尖った刃先が石の隙間に突き刺さってた。

「もう追ってきたのかよ、くそじじぃ」

 忌々しげに舌打ちをして、ラグナは立ち上がった。

 ラキエルもそれに習い、素早く身を起こすと背後を振り返った。

 橋の彼方の空に、先程ディエルを囲っていた十数人の天使たちが見える。今度は槍ではなく弓を持ち、二枚の巨大な翼を羽ばたかせて津波のように迫り来ていた。

 弓に矢を番えた数人が標的を定め、弦を引く。

「ほら、ラキエル。逃げるぞ! 門はすぐそばだ」

 先に門まで辿り着ければ、ラキエル達は逃げ切れる。

「ああ」

 ラグナの言葉に従い、ラキエルは身を翻して勢い良く走り出す。

 だが、ラグナが追ってくる音が聞こえない。

 不審に思い振り返ろうとするラキエルの前に、白銀の羽根がひらりと舞い落ちた。

「なぁ、ラキエル。あんた正真正銘の馬鹿だろう?」

 精一杯足を動かして走るラキエルの頭上で、ラグナが呟いた。

 顔だけ上を仰ぐと、ラグナは三枚の翼を悠々と広げて飛んでいた。ぐんぐんとラキエルを追い越し、呆れたような視線を投げる。

 ラグナが何を言いたいのか理解して、ラキエルは穴があったら飛び込みたい気分に陥った。翼で追ってくる相手に、走って逃げる天使などいないだろう。

 慌ててラキエルは背にしまいこんでいた翼を具現化させた。ラグナとは違う、左右対称の一対の翼を広げる。

 走る勢いを削がぬまま、橋から飛び立つ。

 今までラキエルが走っていた場所に、数本の矢が放たれた。手加減を感じられない無慈悲な刃にぞっとしながら、少しでも差をつけようと空気を裂いて下降気味に加速する。

「門は?」

「安心しろ。ほら、あれだ」

 このような状況でも余裕ぶった笑みを浮かべるラグナは、橋の途切れた先を指差した。

「あれが地上と天上を結ぶ、時空の門だ」

 細く長い橋の終わりの先には、巨大な門が存在していた。空間が歪みを生じて、朝と夜が交わっているような不思議な色合いの空が覗く門。小さな祠の上で、それは存在していた。

 少しずつ確実に門へ近づき、それと同時に背後より迫る矢が近くなってきている。

 門さえくぐってしまえば、解放される。

 少しでも早く、前へ。

 生きるため、自由を手にするための翼を広げて、二人は門を目指し飛んだ。