欠けた三日月が寂しげに、光を零している。
月を慰めるように淡く輝く小さな星は、夕闇に飲まれるようにして次第に遠ざかり、一つ、また一つと消えていく。天にも地にも存在していた空が、少しずつ遠ざかっていた。
それは自分が落ちているせいだと気付くまで、かなりの時間を要した。
意識がぼんやりとして瞳を閉じようとする己を、痛みが引き止める。背中がしびれているのか、翼を動かそうと思っても思い通りに動いてくれない。それなのに、血が巡るたびに溢れる痛みは途切れず、意識を手放す事を許さない。
(――落ちる)
どこまで、落ちるのだろう。
空が遠ざかり、下には何があるのだろう。
ふとそんな事を考えていると、ラキエルの腕の先で何かが動いた。
ラキエルは先程まで、ラグナの服を掴んでいた事を思い出す。だが、背の激痛に全身の力が抜けて、ラキエルの指先は宙を漂っていた。その手を、冷たい手が取る。
「生きてるか?」
唐突に問いかけられて、ラキエルは唸るような声で短く答えた。けれど声は言葉にならず、弱りきった獣のような音だけを虚しく零す。しかし答えがあるという事は肯定だと取ったらしく、相手は安堵の息を漏らす。
「思いきった事するな。死んだら意味ねぇじゃん」
目線だけ掴まれた腕の方へ向けると、ラグナが苦々しそうに笑っていた。
あまり顔色が優れないところを見ると、ラグナも無事な状態ではないようだ。しかし、全身から力が抜けてぼんやりとしているラキエルよりは、ほんの少しだけ元気そうでもあった。
ラキエルが何も答えないでいると、ラグナはふと視線を下げて薄く瞳を細めた。しばらく二人、無言のまま落ちていく空を眺める。静かな空気が流れ、風の音、冷たい夜の空気が身に染みていく。
妙な沈黙を終わらせたのは、ラグナの方だった。
「なあ、空の下には何があると思う?」
「……雲」
はっきりしない頭で、思い浮かぶものを呟いてみる。
「違うだろ」
「じゃあ、土」
ラグナは呆れたを通り越して、哀れむような目でラキエルを見た。
なぜそんな視線を向けられるのか理解できず、ラキエルはラグナを軽く睨んだ。
「夢が無ぇのな。空の下には、自由があるんだよ」
無邪気な笑顔で、ラグナは言う。
琥珀色の瞳で、ただ真っ直ぐに大地を見つめる彼は、酷く嬉しそうな、だけどどこか悲しそうな笑みを浮かべていた。ラグナを知らないラキエルに、彼の心情を推し量るのは難しい。けれど今は、ラグナが何を思っているのか解る気がした。
願いを成就できた喜びと、目的を失った喪失感。
逃げる事に夢中すぎて、きっと、その先を考えてはいなかった。勿論、それはラキエルも同じだ。生きるために逃げるしかなかったラキエルは、逃げた先がどんな世界なのかも知らない。知らないから不安で、憂いを隠せない。
何も知らない世界で、これから――。
「これからどーすんの?」
思考を読まれているのではないかと疑いたくなるほど、絶妙なタイミングでラグナが問いかけてきた。
「……分からない」
「考えてなかったのか?」
意地の悪い声で、ラグナは更に追い討ちをかける。
ラキエルは眉を寄せて、僅かに滲んだ手のひらの汗を、胸部の服と共に握りこんだ。見栄を張らねばならない状況ではないのに。答える言葉が見つからない事に、焦りを感じた。けれど焦りを悟られたくないと思い、動揺する心を押し込めて、ラキエルは低く呟く。
「行く場所なんて」
どこにもない。そう続けようとした。だが、その言葉を聞いていないのか、聞かない振りをしているのか、ラグナはラキエルの言葉をさも当然のように遮った。
「明確な予定が無いならさ、もう少しオレに付き合ってみない?」
「何故?」
もう、共に行動する理由は無い。ラグナは逃げ切る事ができたのだから。危険を冒してまで追われる身であるラキエルに、同行する必要は無いはずだ。彼の願いは、自由になりたいという望みは達成された。目的を果たすためにラキエルを利用しただけのラグナにとって、もう、ラキエルは何の価値も無い。
思っていることが直に顔に出てしまっているラキエルは、己のそれに気付かず、問い返す。
「だってさー、一人じゃ寂しくね?」
折角一緒に逃げたんだから、もう少し遊ぼうぜ。と付け足して、ラグナは口角を上げた。
一人が寂しいのなら、サリエルを連れればよかったのに。そう言おうとして、ラキエルは開いた唇を、小さな溜息だけ零して閉じた。ラグナに遠慮しての配慮ではない。
目的もなく、一人で追われ続けなくてはいけないラキエルは、未来に不安を感じていた。唯一ラキエルを理解してくれていたディエルさえも裏切り、堕天したラキエルに明るい未来などあるはずが無い。一人きり、生きるために、逃げる人生。それはもしかしたら、死よりも尚苦しいのではないかと思ってしまった。いっそ逃げずに、素直に滅びの女神の御許へと逝った方が良かったのではないだろうかと。
孤独には慣れていた。
一人でいる事が当たり前だったし、無理をしてまで他人に理解されたいとも思わなかった。でもいつかきっと、世界がラキエルを受け入れてくれる。そう思いながら、生きてきた。
しかし、世界がラキエルを受け入れてくれる日など、もう来ないだろう。
天を裏切り、本当に罪を犯したラキエルに、世界は背を向ける。完全な孤独に震えながら、天の使者から逃げなければいけない。それは希望に満ち溢れた未来ではない。けれどそれを共有してくれる人がいてくれるのならば。少しは、生きる喜びを知ることが出来るのかもしれない。
だから、ラグナの言葉を嬉しく思った。
一人は寂しい。
孤独に慣れていても、それを苦痛と感じなかった事は一度も無い。いつだって寂しさや心細さを感じていた。けれどラキエルは寂しさを消す方法を知らなかったし、孤独な世界から抜け出す術も無かった。
そこに差し伸べられた手を払えるほど、ラキエルは天邪鬼ではない。
例え悪魔の腕でも、今の状況では取りかねなかった。
しかし、手を差し伸べるのは悪魔でも天使でもない。自由だけを望む、堕天使だ。
「……そうだな。一人は、寂しい」
掠れた声で、そう言うだけで精一杯だった。
それ以上何か言おうとすれば、同時に乾いた瞳の奥から熱いものが押し寄せてきそうだったから。遠ざかる空に視線を向けて、ラグナを見ないようにした。見なくても、ラグナが笑っているのは予想できた。それが意地の悪い笑みではない事も分かっていた。
「決まりなっ! どーせだから楽しくやろうぜ、ラキ」
「ラキエルだ」
「んだよ。細かい事は気にすんなって。エルまで呼んでたら、天使みたいじゃねーか」
天使の名前の最後につく『エル』は、天使の世界では神と言う意味合いが込められている。だから、神の使いにして神の子である天使の名は、決まってエルが付く。ラキエルも然り。ディエルも然り。ラグナも本来ならばラグナエルである。しかし、それを声に出して呼ぶには、少しばかり長い気がする。
それに、ラグナの言葉で気付いたが、ラキエルはもう天使ではない。天使を名乗る事は許されない。翼を黒く染める気など無いが、天意に逆らった二人は天使であって天使ではない。
ラグナの場合、エルを省いたのは恐らく、呼ぶのが面倒だったからだろう。しかしラキエルはラグナの本音など気付くはずもなく、ラグナの言葉を深読みして頷く。
ラグナは今までどおりラグナと呼べばいい。けれどラキエルは、これからはラキとなる。短い名前に違和感こそ覚えるが、それも悪くは無い気がした。
「……もしもディエル様が俺の立場だったら、『ディ』になるのか?」
ラグナは一瞬馬鹿を見るような目でラキエルを見つめた。しかし、その表情は見る見るうちにだらしなく破顔し、笑顔を形作る。
「ばぁっか。じじぃはじじぃだよ! あんた下らないことばっか聞くのな」
相当面白かったらしく、ラグナは一人静かな空の上で笑う。
背の矢傷も忘れてしまったのか、腹を抱えて目元には涙まで滲ませている。あまりにも豪快に笑うので、ラキエルは横目にラグナを睨む。だが、鋭い視線をものともせずに、ラグナはおかしそうに笑い続けた。
ひとしきり笑った後、ラキエルは元より、ラグナも口を閉じる。
急に静寂が戻り、どちらも何かを切り出そうと思うのに、頭の中に言葉が浮かばない。
空から落ちて、大地へとゆっくりと降りていく。
心地よい静寂に身を委ね、ラキエルは瞳を閉じた。
このまま死んでも、構わない気がした。それほどに、心の中は穏やかで、意識が少しずつ霞んでいく。背に感じていた激痛も、痛みを超えて何も感じなくなっていた。ああ、このまま眠りたいと思い、意識を闇に向ける。
しかし、ラキエルが完全に意識を飛ばす前に、ラグナの声が聞こえ意識を留める。
「なぁ、お前にとって、女神の恩寵は重いか?」
「考えた事……ない」
今にも消え入りそうな声で、ラキエルは答える。何を聞かれているのかも、よく分からなかった。ただ、眠ろうとする意識の片隅で、ラグナの何処か寂しそうな声が聞こえた気がした。その声が今まで聞いたものとは違うようで、答えなければいけないと思った。でなければ、彼が消えてしまうような、そんな予感がした。
「そっか。……オレには重いよ。重すぎて、空も飛べない」
ラグナは視線を空へと向けた。
広く、果てしない自由の空。それを制する翼は、思うように動かない。飛ぶ事は出来ても、自由に舞う事は出来なかった。空は広すぎて、その底のない深さが、まるで檻のようだと思った。広すぎるが故に、何処にもいけない。終わりの無い空に、己の存在の希薄さを知り、微かな恐怖を覚え、身動きが取れなかった。そこに絡み付いてきた、恩寵という名の楔。ラグナを空に縛る枷。
神の恩寵は、奇跡の力を与えてくれる。
しかし、栄華の裏には廃退が付きまとうもの。
恩寵の影には嫉妬と羨望が常にあり続けた。望んでも無い力を与えられ、それ故に敬遠される。時に嫉妬は暴力に結びつき、簡単に傷つけられる。
――望んでもいないのに。
心の奥底に根付いた言葉を、ラグナは呟いた。
誰が悪いわけじゃない。
でも、神の恩寵は人にも天使にも余るものなのだ。誰も、それを御する者などいない。けれど与えられぬ者は、その事実に盲目だ。羨望は嫉妬へと変わるけれど、哀れみの感情には変わらない。哀れみの感情を持てるのは、同じように神の呪いを受けた者だけ。
「なぁ、ラキ。あんたとオレは違うようで、だけど立場は似たもんだよな?」
ラキエルは忌み嫌われるが故に一人だった。
ラグナは、月の女神に愛されたが故に、敬遠された。
それでもラグナはまだいい。少なくとも、サリエルだけはいつでも傍にいたのだろうから。
そして、ラキエルにはディエルがいた。本当に辛いときは、優しい老天使がいつも、ラキエルを見守ってくれていた。だから、神の恩寵を得た二人は、幸せな事に完全な孤独を知らない。
本当の孤独を知っているのは一人だけ。
眠りについた神々に、恩寵という名の呪いを与えられた孤高の天使。
「十二の神の恩寵を受けたアルヴェリアは、寂しかっただろうな……」
己に問いかけるように、小さくラグナが呟いた。
ラキエルはその声を聞き届けたが、アルヴェリアを名でしか知らないラキエルに答えは返せない。ラグナもラキエルの返事など期待していないのか、再び唇を動かした。
「――なぁ、アルヴェリアを探そうぜ」
ラグナの言葉を最後に、空から声が消えた。
◆◇◆◇◆
硬質な回廊に無機質な音を響かせて、ディエルは塔の最上階へと歩みを進める。長い螺旋階段を一段一段踏みしめるたびに、身体から気力が抜けていくようだった。落ち窪んだ瞳には、絶望の二文字が色濃く刻まれている。
静か過ぎる道が、暗く沈む心を更に落ち込ませ、同時に苛立ちを呼ぶ。
前へ進む事に恐れと怒りを感じながら、それでも振り返れない己を呪った。
戻る事などできない。もう、何処にも逃げ道などありはしないのだから。
長い螺旋階段の終着点まで来て、ディエルはようやく足を止めた。
目の前には、冷たく厚い、神秘的ですらある白い石の扉が一つ。それはディエルの訪問を待ち構えていたかのように、ゆっくりと開かれた。
アーチ型の門を潜り、部屋へと一歩を踏み出す。
長い螺旋階段の終わり、この天界で最も高い位置にあるここは、限られた者のみが立ち入る事の出来る、聖堂だった。本来ならば、ディエルといえどもおいそれと立ち入る事の出来る場所ではない。しかし、この日ばかりは、呼び出しと言う名目で足を向けなければいけなかった。出来ることならば、門前払いを望んでいた。けれどしかと人払いのされたそこは、耳に痛いほどの静寂を満たし、ディエルの微かな希望を砕く。
「第二階級智天使ディエル、参じ仕りました」
床へ方膝をつき、深々と頭を垂れて、ディエルは低く名乗りを上げた。
その声に、聖堂の奥で祈りを捧げていた天使は首だけ動かし、振り返った。長い黄金の髪が、滝のようにゆるやかにうねり、さらさらと揺れるその隙間より覗く瞳でディエルの姿を捉える。口元に優しい笑みを浮かべて、天使は祈りを止め、身体ごとディエルに向き直った。
「突然呼び出してすまない」
高くも低くも無い中性的な声が、静まり返った聖堂に音の花を咲かせる。
ディエルはいいえ、と小さく答えた。
頭を上げようとしないディエルに、天使は肩を竦めて、ディエルに面を上げるよう促す。けれどディエルは首を横に振り、天使の方を見ようともしない。それは、恐れ多いという理由からではない。頑なに、敬う振りをしながら彼を拒んでいる。
嫌われたものだと、天使は心の内で笑った。
「フィーオ殿。貴方に、良き知らせと悪き知らせをお持ちしました」
感情の篭らない機械的な声で、ディエルは言う。
フィーオの表情が曇るのが、空気に混じった僅かな気配から分かった。けれど、ディエルは見ざるを決め込んで、言葉を繋げた。
「悪き知らせは……、また天より二人の脱走者が出ました。貴方もご存知の、ラグナエルと、もう一人は――」
「ラキエル、でしょう?」
「……知っておられましたか」
「当然です。逃げる事も予想していましたよ。だから、先に手を打ったというのに、ラグナエル一人の介入のためにそれが裏目に出てしまった」
「先に、とはどういう事ですか?」
引っかかるフィーオの言葉に、ディエルは訝しむ。
無礼と取れるディエルの態度にも動じず、フィーオは悠然とした態度を崩さずに答えた。
「気付かなかったか? 私がラキエルを捕らえ、牢へと連れたのだ」
ディエルは弾かれたようにフィーオを仰ぎ見た。
信じられないと、ディエルの瞳は物言わずに訴える。フィーオはようやく自分を見てくれた老天使に、優しく微笑みかけた。
美の神々に愛され生まれてきたと言われても素直に受け入れてしまうほど、フィーオは完璧なまでに整った容貌を持っている。けれどその反面、彼の中に住むのは凍てついた心。神聖すぎるが故の冷酷さ。それを知るディエルは、フィーオの微笑みに良い感情を持てないでいる。
見上げた先で、彼の微笑みはぞっとするほど神々しく、同時に恐ろしくもあった。
「……貴方が、そのような事をする必要などないはず」
怒りと失意に震え、腹の底から引き絞るような低音で言葉を吐き出した。
声と態度から、ディエルが怒りを感じていると気付いているだろうに、フィーオは事も無げにただ微笑みの仮面を貼り付けている。それが更に、ディエルの行き場の無い怒りを増長させていると知りながら。
「私がやった方が効率が良いと判断した。二度も、アルヴェリアの時のような失態を犯すわけにはいかない。……貴方ではあの二人に情けをかけてしまうでしょう? かつて、アルヴェリアをみすみす逃がしてしまったように」
空気が氷りついた。
フィーオは切れ長の瞳を細め、跪くディエルを見下ろす。冷酷に、残酷に、罪を攻め立てる。お前の甘さが、混乱を招いたのだと。災厄の元凶を世に放ったのは、他の誰でもなくディエルだと、フィーオの涼しげな目元が訴える。
聞こえもしないはずの雑音がディエルの脳裏を駆け巡る。
悪魔を籠から出した愚か者よ、呪われるがいい。
永久に罪を背負い、贖罪に生きるがいい。
それがお前に残された唯一の償いなのだと。
二度も同じ過ちを繰り返すな。
空気が重い。全身から熱が引いていく。苦しい、とディエルは心の内で呟いた。
軽い眩暈に揺れそうになる身体を気力で留め、ディエルは再び視線を大理石の床へ落とした。
「……二人を連れ戻すおつもりで?」
息苦しさを搾り、ようやく声を出す。
フィーオの表情を窺う気にはなれなかった。恐らく、極上の笑顔で、冷ややかにディエルを見つめているのだろうから。
「先に貴方の言う良き知らせを先に聞かせていただきましょうか」
あくまで優しく穏やかなフィーオの声が、ディエルの拒否権を奪い去る。本当は、この天使には何も報告などしたくは無い。けれどフィーオに逆らうだけの勇気は、ディエルにはもう無い。
フィーオは間違ってなどいない。いつも正しい判断をしてきた。過ちばかりを犯してしまったのは、ディエルの方だ。甘さゆえに、肝心なところで失態を晒す。情けをかけるばかりで、罪を裁く事のできない愚かな天使、それがディエルだ。
フィーオは誰よりも強く在り、誰よりも冷酷で、そして慈悲深い。
天界を纏め上げるだけの器量を持つ彼に、ディエルが意見する資格など無い。
だから、今日も同じ。彼に命じられるまま、己の責務を果たす。
「月の女神が、ラグナエルを解放しました。二人を繋ぐ楔は、もうありませぬ」
「……そうですか。サリエル様のご様子は?」
「落ち着いております」
先ほどのサリエルとのやり取りを思い出し、微かな罪悪感が胸を過ぎる。けれどそれを面には出さずに、ディエルは淡々と言ってのけた。
サリエルが落ち着いているのは、ラグナエルのため。彼を解放するためだけに、あの少女は虚勢を張っている。その姿があまりにも憐れで、だけど慰めの言葉一つかけてやる事はできなかった。
「思ったよりも、脆い絆だったと言うわけですか。私はラグナエルがサリエル様を連れて逃げると思っていたのですが……。まあ、この結果は好都合ですね」
「女神はラグナエルを解放する代わりに、彼の咎を許されよ、と」
「それはお優しい」
くすりと忍び笑いの声が聞こえて、ディエルはきつく結んだ拳に力を込めた。
「サリエル様のお気持ちも分かる。けれど罪人は罪人。ラグナエルを許すわけにはいきません。勿論、ラキエルも」
「では、早々に追っ手を?」
聞かずとも、答えなど分かっている。
けれど一縷の望みを込めて、ディエルは虚しいと感じながら問う。
希望を抱けば抱いただけ、当たり前の結論により落ち込むだけ。それなのに、問わずにはいられない自分を、心の中で嘲笑う。しかし、ディエルの下り坂一方通行の思考は、以外にもフィーオの一言で止まる事となった。
「いいえ」
たった一言。
肯定するとばかり思っていたディエルは、予想と違うフィーオの判断に戸惑い、続ける言葉を失う。
「追っ手を差し向けるのは簡単です。……しかし、何も今すぐにでなくとも良いとは思いませんか?」
「……何をお考えで?」
「ふふ、そう怪しまないで下さい。ただ、二人に一度だけ機会を与えようと思うのです」
フィーオは微笑を消し、ゆっくりと瞳を閉じた。
耳を澄ませて、声ならぬ声を、天界で唯一己だけが聞く事の出来る神の言葉を聞き届けようとするように。静かに、神の声を代弁するように。
「償いの余地を与えましょう。……神が本当に我らを見捨てておられないのならば、きっと救いの手を差し伸べてくださるでしょう?」
それが誰に向けられた言葉なのか、ディエルには分からなかった。
ラキエル? ラグナエル? ディエル? それとも――。
再び頭を上げ、ディエルはかつての教え子を見つめた。瞳を閉じて静かに微笑むフィーオは、やはり美しく、残酷なまでの慈愛に満ちていた。
憐れな天使が、どこかで泣いている。夢と希望を胸に抱き、それが叶わぬと誰よりも深く知ってしまっているから、より濃い絶望の淵へと身を落とす。己の心を殺すことでしか自己を保てなかった悲しい魂が、傷つけられた痛みに嘆きの血を流す。救いを求め、与えられぬ優しい腕をまた、夢見て。
誰よりも神の近くに存在する彼は、夢と現実の狭間で揺れる。
(ああ、可哀相に)
どうしようもなく哀れで、存在そのものが悲しくて、心の内で涙を零した。
――天に坐す我らが父よ、願わくば彼らに安らぎを与え給え。