揺れて流れて、どこまでも。
互いの手をそっと掴み合って、二人は一緒に歩き続けた。後ろを振り返る事はせずに、ただ、真っ直ぐ前だけを見据えて、少しずつ、自分達の道を築いていく。戻る場所の無い二人は、世界の終わりまで歩き続ける。
時折、果て無き荒野に心が砕け、足を止める事もあった。
過去を振り返り、罪悪感に押し潰されそうになった事もあった。
戻る事の出来ないぎりぎりの緊迫感が、心を深く沈め、眠れぬ夜のあまりの静けさに怯える日もあった。
黎明の訪れない暗い世界に取り残されたような気がして、恐怖に身を震わせる事もあった。
だけど、お互いの手の温もりが前へ進む力と希望を与えてくれた。時と共に日は巡り、明けない夜は無い。寂しさを感じながらも、一人ではないと言う支えが互いの傷を癒してくれた。
流れて逃げて、どこまでも行けるのだと、そう信じていた。
彼はただ、自由になりたかっただけだった。
重すぎる責任と期待と嫉妬から、逃げたかっただけ。だけど一人きり、逃げた先でどうしようもない孤独感に襲われた。手を伸ばしても、それに触れる温もりは何処にもない。何故だか悲しくて、自由を手に入れたはずなのに満たされない。
心が乾いてひび割れる。
自由を知れば知るほど冷えていく何か。
ああ、自分は寂しかったのだと、自由を手に入れて初めて気付いた。
けれど寂しさを埋めるものを彼は知らない。
空虚な心を持ったまま、彼は流れていた。様々なものを見た。様々な人を見た。幸せそうに笑う者、絶望に嘆く者、力強く生きる者、世捨て人となり孤独に生きる者。たくさんの人を見た。皆同じようで、だけど深く見れば決して同じではなかった。
幸せな者は皆、同じく幸せそうに笑う誰かが傍にいた。友人だったり家族だったり、恋人だったり。家族も友もいない彼には、理解できない世界だった。彼は自分以外の人間と親しくなる人に疑問を持ち、同時にそれを目にするたびに、言い様のない不快感を感じた。何故、人と関わり幸せになるのか、理解できなかった。以前、彼を取り巻く他人は、彼にとって良き存在ではなかった。
彼は有能すぎた。歪み一つ無い、完璧なまでの知と力。神の寵愛すら欲しいままにした、美しい天使。自分でも自覚できるほどに、抜きん出た存在であった。それ故に受けることとなった嫉み、恨み、そして敬遠。それらの負の感情は、彼を傷つけるものでしかなかった。
彼はあまりにも完璧で、失敗も挫折も許されはしなかった。
じりじりと背後より迫る重圧感。羨望の眼差しに答えようとするあまりに、積もり続ける責任感。神の寵愛が失われるかもしれない恐怖。それらは彼にとって重過ぎるものだった。けれど救いを求める事すら許されない。完璧な姿を保ち続けたために、誰一人、彼の苦悩に気付かなかった。彼にとっての他人は、害こそあっても、良き存在となる事は無かった。だから、自分以外の存在など必要ないと、そう思っていた。
しかし、不可解だと思うのに、幸せそうな人々を羨んだ。
彼は自分に無いものを知り、初めて自分以外の人が羨ましいと、そう思ったのだ。
そして彼は、偶然訪れた国で彼女と巡り会った。
彼女は滅びかけた国に一人佇む、悲しい女だった。
全てを失い孤独に沈んでいた彼女は、死を選択していた。希望を失い、失意に震えながらも頑なに虚勢を張る彼女の姿は、彼の目に痛々しく映った。けれどそれが誰かに似ていた気がして、放って置く事ができなかった。
ほとんど無意識のうちに、彼女に手を差し伸べていた。
今でも、何故彼女を助けようと思ったのかなんて解らない。
初めて出会う人間をどうして救ったかなんて、きっとこの先もずっと解らないだろう。
だけどその時は、誰でもいいから温もりに触れたいと、そう思った。
彼女は戸惑いながら、だけど最後には彼の手を取った。
触れた彼女の白く小さな手は、寒さに震えて冷たかった。冷たかったはずなのに、暖かいと感じた。それは手の温度ではなくて、もっと違う何か。だけどそれは、彼には理解しがたいもので、結局今も解らない。
彼に解る事は、その手の心地よさ。自分ではない他人の手がとても暖かくて、空虚だった身体の裏側が、ほんのりと満たされているような気がした。
この手があれば、どこまでも行ける気がした。
互いの孤独を埋めあいながら、二人は歩き続ける。
何のしがらみの無い場所を探して。
流れ行く二人は、夜闇の影に消えていった。
◆◇◆◇◆
目が覚めたのは、空が夕暮れ色に染まっている頃だった。
――赤い赤い。
世界が炎に包まれている。何もかもが、鮮やかな真紅に飲み込まれる。全てを焼き付くし、悲しみ嘆く人の全身から溢れる涙が大地をより赤く染める。苛烈ながら美しい色彩に、青く清らかな大地は滅ぼされる。
それは不安定な未来。
いつか訪れる、世界が終わるその瞬間。
当然のように巡る毎日に終止符を打つのは、予言されし滅びの天使。全ての天使が知る、最悪の未来予想を、人は誰一人知らない。
時に安らかな、時に悪夢めいた夢をみながら、明日が来る事を信じて疑わない。
知らない事は幸せであり、悲しいほどに愚かだ。
そして知る者は、微かな希望に縋りながら、心の奥深くで絶望するのだ。
果たしてどちらが憐れなのだろうか。
そう、問うた人は一体誰だっただろう。
記憶の片隅に残る言葉をぼんやりと思い浮かべて、ラキエルは赤い空を仰いだ。
ラキエルは緑の青々とした芝生の上に仰向けに倒れていた。草の香りが鼻腔をくすぐり、独特な土の匂いが遠い意識を現実に呼ぶ。小さく唸り声を上げて、軋む身体を起こした。途端、背に電撃が駆け抜けるような痛みを感じたが、それはすぐに治まる。代わりに血の巡る鼓動がやけに大きく聞こえ、背の感覚は痺れて消えた。
ぼんやりする視界を拳で擦って、長い前髪の間から辺りを窺う。
そこは、草原だった。
乾いた風にざわざわと撫でられて揺れる、瑞々しい草花。空は遠く深く、闇に解けるような暗い紺碧から緩いグラデーションを隔てた赤い空を、白く輝く小さな星の瞬きが彩る。その中で、美しい琥珀色の月が優しく光を零していた。
ラキエルは視線を一回りさせてから、大切な事を思い出し、慌てて声を上げた。
「ラグナっ」
一緒に落ちてきたはずの青年がいない。
もう一度目線を配らせて、黒衣の青年を探すが、彼はどこにも見当たらない。
焦りを感じて、ラキエルは勢い良く立ち上がった。
目覚めたばかりで急に頭を上げたせいか、軽い眩暈を感じた。しかし、そんなものなど気にせず、もう一度声を荒げて名を呼んだ。
返事は無い。
風に弄ばれて踊る草の音だけがラキエルの耳に入る。
ざわざわと、ラキエルの不安と呼応しているように。
ラキエルはじっとしていられず、方向もわからぬまま歩き出した。
ラキエルの倒れていた場所は風通しの良い草原だが、少し歩いた場所にはすらりと伸びた背の高い木々が乱立している。青々とした葉を細い枝の先までつけた樹木は、空を隠さぬ程度に枝を広げ、大地を優しく覆っていた。どうやらラキエルは小さな林にぽっかりと空いた草原にいたらしい。恐らくラグナも近くにいるだろう。
もしかしたら彼のことだから、ラキエルを驚かそうとして隠れているのかもしれない。少しの間だが、彼が愉快犯だという事は十分すぎるほど実証されている。落ちる途中で風に流されたとか、置いていかれたなどと悲観的な事を考えるより、ラグナの悪戯だと考える方が正しい気がした。むしろ悪戯である可能性の方が高い。
そこまで考え付くと、ラキエルは冷静さを取り戻した。
今ここで慌てふためいては、彼の思う壺ではないか。物陰から取り乱している自分を見て、にやにやと馬鹿な笑顔を浮かべ口元を押さえているかもしれない。もしもそうなら、一発殴らなければ気がすまない。
落ち着きを取り戻すと、ラキエルはもう一度辺りを見回した。
齢を重ねた樹木とラキエルの膝まで伸びた草の合間に、きらりとした色を見つける。それが金属類の反射光であると判断し、ラグナの身につけていた帽子に白銀の十字架が輝いていた事を思い出す。無言のまま近づくと、予想違わず探し人がいた。彼は生い茂った草に隠されているかのように横たわっていた。
固く、瞳を閉じたまま。
顔をあわせた途端皮肉の一つ二つを予想して構えていたラキエルは、ラグナの状態に驚く。彼は木の根の間に身体を埋めるようにして昏睡していた。時折大きく息を吸い込んでは吐き出し、寝苦しそうに眉を顰めている。
「ラグナ?」
驚かせないよう、音を立てずに彼の前にしゃがみ込む。
何度か軽く肩を叩いてみると、皺の寄っていた眉間がぴくりと反応する。
それでもなかなか目を覚まさないラグナに痺れを切らし、少し激しく肩を揺さぶってみた。するとラグナの吐息に苦しげな声が混じる。ラキエルは驚いて肩を離し、一歩後ずさる。逃げる途中で負った傷に障ってしまったのだろうか。軽はずみな行動を後悔しながら、ラキエルは恐る恐るもう一度ラグナの名を呼んだ。
返るのは沈黙のみ。
さすがに心配になり、ラキエルは自分なりに精一杯の優しい声で一言二言言葉を投げる。
それでも反応を示さないラグナに、どうして良いか分からず、そわそわと視線をめぐらせる。辺りは草原。人の気配は無い。助けなど、空から降ってくるわけでもない。
どうすれば良いだろう。
冷静になれと己を叱咤しながら、それでも良い案が思い浮かばず、もう一度ラグナを呼んだ。
やや血の気を失ったラグナの唇が、微かに歪んだ気がした。
意識を取り戻したのだろうかと、恐る恐る顔を寄せる。戸惑いを体現するかのように挙動不審気味に動く。その姿が滑稽だという事に気付かずに、ラキエルは心底困ったように眉根を寄せた。
そこでようやく、奇妙な静寂が途切れた。
吊り上った琥珀色の瞳が開いたと同時に。
「無理! あんた本当ばっか!」
突然大声を上げたかと思うと、ラグナはラキエルの顔を見ながら笑い出した。それはそれは、盛大なほどに。二人の近くの木に巣を構えていた小鳥達が、突然の大声に吃驚して、慌てて空へと飛び立った。
「何だよ、そのへっぴり腰!」
固く瞳を閉じて昏睡していたかのように見えたラグナは、ラキエルの一挙一動をしかと見ていたらしい。ラキエルの心配は杞憂に留まらず、最悪な事に裏目に出たようだ。
腹を抱えて笑いながら「きもい」だの「変な顔」だのを遠慮なく口走るラグナの様子を見て、ラキエルは拳を固めた。先ほどラグナの身を案じた自分が馬鹿みたいだ。緊張のため強張っていた身体から力が抜けていくのを感じながら、ラキエルは溜息を零した。
そして急に込み上げてきた恥ずかしさと怒りを、未だ笑い続けているラグナの頭部にぶち当てる。
「ってぇ」
乾いた音が冷えた空に響き、風の音にかき消される。
一瞬の静寂を挟んで、馬鹿笑いをしていたラグナが今度は抗議の声を上げた。
「何すんだよ」
「ああ、悪い。頭の上に死神がいたんでな、払ってやったんだ」
「ばーか、んなもんいてたまるか。あー……知ってるか? 見えないものが見える奴って、ここがいかれてるらしいぜ?」
ラグナは己の頭部を人差し指でつんつんと軽く突くようにして示す。
「普通にいかれた奴に言われてもな」
「んだよ、可愛くねー奴」
「可愛くなくて結構だ」
男が可愛いなどといわれてもうすら寒いだけだ。ましてや、ラキエルは自分がお世辞にも可愛いといえない性分なのは自分自身よく分かっている。今更そんな事で怒るほど、単純ではない。
これ以上相手になってやるものか。
半ば意固地になって、ラキエルはラグナに背を向けた。
「おーい、ラキちゃん? 何処行くんだよ」
「どこか。ずっとこの場所にいるわけにもいかない」
「どこかって、当てはあるのか? 闇雲に歩き回りたいってなら、止めねぇけど」
どこか含みのある言葉を聞いて、ラキエルは進もうと揺らいだ体の動きを止めた。
彼には当てがあるのだろうか。
まさか。あるはずがない。地上へ降りたのは、ラグナとて初めての事だろう。見知らぬ大地、空は遠く、辺りは暗い雑木林。行く場所など、どこにあるのだろうか。
頼りたくはないと、心の中で反抗する気持ちがあるものの、頼るものが何一つ無いこの場所ではそうも言っていられない。ぎこちない動きで、ラグナを横目に振り返る。瞳の端で捕らえたラグナの表情は、にんまりと笑みを浮かべていた。
「そうそう、素直なのが一番だぜ」
「どこか、行く場所が?」
「あるある。あんた、さっさと気絶しちまったから何も見て無いかもしれねぇけど、落ちてくる途中で小さい街を見たんだ」
あっちのほうだったか。と、ラグナは曖昧な記憶を手繰り寄せるように、どっちつかずの方角をゆらゆらと指す。はっきりしない彼の様子に、急ぐ気持ちばかりがはやる。どうするのだと、視線で答えを求めるラキエルに気付き、ラグナは腕を差し出した。
「道案内してやるから、連れて行け」
「自分で歩け」
「やだ。ずっと牢屋で寝てたてめぇと違って、こっちは疲れてんだよ。おぶれ」
いたって真剣な顔でふてぶてしい言葉を言い放つラグナに、ラキエルは脱力するのを抑え切れなかった。あからさまに呆れたという態度を見せ付けられても、ラグナは引き下がる事無く催促の言葉を投げてくる。このままでは埒が明かないと思ったラキエルは、しぶしぶラグナの手を引っ張り、とりあえず立ち上がるための力を貸す。
思ったよりも軽やかな動きで、ラグナはすんなりと立ち上がった。
「歩くのが嫌なら、飛べばいいだろう」
「ここは人の世界だぜ? 翼の生えた人間なんて、絵空物語と同じで非現実的なわけ。勿論魔術なんてもってのほか。いいか? 少しでも普通じゃない事をしてみろ、この世界では命に関わりかねない。それを肝に銘じておけよ」
お前の存在が普通じゃないとか、何かをやらかす可能性があるのはどう考えてもラグナだとか、突っ込みの言葉が脳裏に浮かんだが、ラキエルは苦言を飲み込んで冷静に返す。
「……詳しいな」
「そりゃ、仮にも女神の恩寵を頂いてる天使様だぜ? 月の光の届く範囲なら、世界中どこだって見える」
琥珀色の瞳を細め、ラグナは口元を歪めた。
サリエルとは対照的な、輝きを持つ月の瞳。それはラキエルの考える範囲を遥かに超えて、人智では計り知れない能力を秘めているらしい。月の光が届くのは、世界が闇夜に覆われた後。暗闇の世界を、人が迷わぬようにと優しく照らす琥珀色の光。
ラグナはその瞳で、人の世界を見てきたのだろうか。たくさんのものを、たくさんの人を、見てきたのだろうか。ラキエルの知らないものを、彼は多く知っている。それが少しだけ羨ましいように思えた。
「ま、そういう訳だから。連れてけ」
「どういう訳だ。それとは関係ないだろ」
「細かい事は気にすんな。女々しいぞ」
「どうしてそうなるんだ」
「オレの理論的に? 深く考えんな。あんたにオレの気高くも美しい理想と崇高なる考えが理解できるとは思えないしな」
瞳を閉じて、嫌味ったらしく鼻で笑うラグナ。
理解したくも無い。
思わず言い返しそうになった言葉を理性で抑え、ラキエルは盛大に溜息を零した。
ここで言い合っていても、時間だけが無駄になるだけだ。不毛すぎる口論を止めるためには、多少の妥協は仕方が無い。一応、恩師でもあるわけなのだから、少しくらいの我侭は大目に見よう。それでも、これっきりだぞ、と目で訴える事は忘れない。
諦めも半分に、ラキエルはしぶしぶ頷いた。
「……今回だけだからな」
「横抱きにしてくれてもよくてよ」
ラグナに背を向けて屈もうとしたラキエルに、ラグナがにやにやと笑いながら言う。
「馬鹿が」
何が楽しくて男を横抱きにするのか。
呆れ果てているラキエルを、なぜか楽しそうにラグナは見ていた。
◆◇◆◇◆
ラキエル達が、ラグナの言う街らしきものに辿り着いたのは、陽が完全に没した宵の刻だった。民家と思わしき木造の質素な建物から、香ばしい香りが漂う。恐らく、食事の時間帯なのだろう。ラキエルには食べると言う概念が無いため、人間が食事をとる事は知識程度にしかない。一体人間は何を食べるのか、少しの興味を覚えるが、それよりも先にすべき事があった。
家々の窓から零れた光に照らされた砂利道を、少しずつ進んでいく。
ラグナが街と形容したこの場所は、あまりにも人の気配が少なかった。
小さな箱のような家に、少なからず人は生活している。けれどその数はあまりにも少なく、両手足の指で事足りる程度だ。暗く薄汚れた街の通りに活気は無く、静まり返っていた。確かに遅い時刻ではあるが、あまりにも閑寂とした空間に、ラキエルはいささか疑問を持つ。
しかし、今はそのような事を考えてはいられない。
背にかかる重み。繰り返される呼吸は薄く、やかましいとすら思っていた声が聞こえない。静かになったラグナに、ラキエルは疑問を感じなかった。
初めは、寝てしまったのだろうかと思った。
仕方が無い。ラグナはラキエルとは違い、きっと一睡もしていなかった。牢屋で十分すぎる休養を取ったラキエルに比べ、ラグナの消耗が激しいのは当然だ。だから、道案内を終えたラグナが、意識を手放しても問題は無い。
問題なのは、眠ってしまったラグナの、脇腹辺りから伝う液体。どろりとした嫌な感触。暫くは気付かなかった。黒衣に身を包み、視界も暗かったため、彼のそれに気付けなかった。いちいち大袈裟なラグナは、些細な怪我でも大騒ぎをしそうであるのに、彼は一言も言わなかった。
ただ、連れて行けと。それだけが、窮地のサイン。
黒衣に染み込み切れなかった血が服を伝い、ラキエルの指先に絡みついたのは、ラグナが静かになってしばらく経ってからだった。ようやく街の光を見つけ、歩調も早まってきた頃、不快感のあるそれの存在と理由を知った。しかし、手当てするにも、どこかで落ち着かなくてはいけない。街に入れば、宿くらいはあるだろうと踏んでいたラキエルは、寂れたこの空間に焦りを感じた。
どこへ行けばいいのだろう。
閉ざされた扉ばかりが目に付き、ラキエルの焦燥感を増長させる。
いよいよ狭い街の出口まで辿り着いたところで、ラキエルは足を止めた。
排他的に全てを拒絶するかのような扉ばかりの家々から少し外れた場所に、仄かな光を零す門があった。緩く開かれた木製の薄汚れた扉。そこにかけられた看板には、少しばかり砕けた文字で「宿」と簡素に綴られていた。仄かに香る酒気が酒場を兼ねた宿だという事を表す。けれど酒場や宿というものを正確に理解していないラキエルは、どうするべきか戸惑う。
宿の意味が分からないわけではない。知識として、それがどんなものであるかは知っている。けれど、そこでどうすれば良いのか。どんなに知識を絞っても、応用までは浮かばない。
しかし、じっとしているわけにもいかない。
応急手当などは神殿の課外科目として、気休め程度のものだが少しは噛んだ。だが、ラグナの脇腹の傷は、ラキエルの手に負えるものではなかった。矢傷ではない。もしも矢であったなら、まだ良かったのかもしれない。しかし、肉を抉り貫通したそれは人差し指が入りそうな風穴をぶち明けていた。どくり、と心臓を巡るたびに滴る赤。失われていく指先の力。ぐったりと意識を手放した彼の顔色は、お世辞にも良いとは言えない。
恐らくは魔術による攻撃を受けたのだろう。
大怪我を負っていたにもかかわらず、命を顧みないラグナに対し、沸き起こる感情は怒りなのか、ラキエルには分からなかった。
ただ、何も告げなかったラグナへの苛立ちばかりが積もる。
きつく噛み締めた唇で、すべての雑言を留めた。口を開けば、自分が何を言い出すかわからなかった。焦燥感に駆られるあまりに、ラグナへ八つ当たりじみた不満を叫ぶのか、それとも気付けなかった自身を責め悔いる言葉が漏れるか。確実なのは、発せられるものが労わりの言葉ではないという事だけだ。
けれど感情と行動は真逆で、ラキエルはラグナを背負ったまま未開の世界へと一歩踏み込んだ。
救いを求めるために。ラグナを助ける力をラキエルは持たない。サリエルならもしかしたら、彼を救えるだろう。空で別れた幼い女神を想うが、彼女はここにいない。
人に縋る己に抵抗が無いわけではない。けれどそんな安い矜持にしがみつき大事なものを失くしては、なんの意味も無いのだ。
知らない場所へ踏み込む微かな恐怖。
拒絶され続けてきたラキエルの思考に、差し伸べられる優しい手は無い。だが、もしかしたら、サリエルのように躊躇いも無く腕を差し出してくれる人が居るかもしれない。そんな思いが希望となって、ラキエルの足を宿へと進めた。
門より零れた光が眩しくて、ラキエルは瞳を細めた。
腕を伸ばし、古びた金具に錆びが目立つ、薄汚れた木の扉に触れる。そのまま軽く力をこめて扉を押すと、耳障りな軋んだ音を立てて門が開く。歓迎されているような気はしない開き方を無視して、ラキエルは店の中へと踏み入った。
むっとした酒の香りが一層強く漂う。
不愉快なそれに顔を顰めるも、ラキエルは人の姿を求めて視線を走らせた。
簡素な造りの、古びた机と椅子が乱雑に並べられた店内に人は少ない。染みの目立つ木製のカウンターの席で、中年の男が一人黙々と酒瓶を煽っている。カウンターの内側には、この宿の主人と思わしき恰幅の良い男が、やや驚いた顔でラキエルを見ていた。
反射的にラキエルは瞳が黒髪で隠れているかを確認する。天使の世界でさえ忌み嫌われたそれを、人前に晒す訳にはいかない。
そんなラキエルの心知らず、主人は人の良さそうな微笑を浮かべた。
「いらっしゃい。旅人さんたぁ珍しい。宿をお求めで?」
「ああ、連れが怪我をしてしまったんだ……。休める場所を提供して欲しい」
ずり落ちかけたラグナを背負いなおす。その行動に、ラキエルの背にもう一人、客人がいることに気付いた主人が、慌ててカウンターから出てきた。ラキエルの「怪我」という言葉に反応したらしい。
「怪我って、具合は大丈夫なのか?」
胸より突き出た腹を一歩進むごとに揺らし、主人がラキエルの傍に駆けつける。すぐにラグナの方へ回り込み、彼の血の気を失った顔色に、主人は青ざめた。恐る恐る毛むくじゃらの太い腕を伸ばし、血の染みているラグナの傷口付近に触れる。
「賊にでもやられたのか?」
ただ事ではないと気付いたらしい主人が、ラキエルに問いかける。ラキエルは真相を誤魔化す嘘を咄嗟に思いつけず、主人の予測を肯定して短く相槌を打った。多分、その方が現実味のある理由だろうから。
「残念だがこの村には医者がいないんだ……」
「何処にいけばいる?」
「医者はもっと都の方じゃないとお目にかかれんよ。馬を使っても三日は掛かる」
苦々しそうに、朱の零れ落ちるラグナの傷口を凝視する。
どうみても、三日もつ傷ではない。瞳の閉じられた蒼白な顔は苦痛に歪み、冷たくなっている手足からは考えられないほどの脂汗を額に滲ませている。ああ、どうすればいい?
呆然とするラキエルの耳に、主人は内緒話でもするように唇を寄せてきた。
何事だと警戒をするラキエルだったが、主人が何かを伝えようとしていると気付き、主人の背にあわせてやや腰を落とした。
「あんたは信仰深いかい?」
今の状況と信仰がどう関係しているのか理解しがたい。不思議に思いながらも、ラキエルは小さく頷いた。
「……ああ」
「この村を出て西に半日行ったところに、ドルミーレという小さな村がある。……もう一度聞くが、誓って、あんたは神を信じるか?」
やけに食い下がる問いに、またも同じ答えを返す。
主人はまっすぐにラキエルの瞳を見つめた。
先ほどまでの温厚さの消えた真摯な眼差しに、一瞬心臓が跳ね上がる。やましい感情などあるはずが無い。けれど今、ラキエルは一つの罪を犯した。その事への罪悪感が、ラキエルの心に影を落とす。神を敬う気持ちに嘘はないはずだった。しかし、主人の皺に囲われた瞳が、ディエルの神秘的なグレイの瞳を連想させて、微かな恐怖を感じる。濁りの無い真っ直ぐな視線が恐ろしい。ラキエルは罪を透かされているような錯覚を覚えた。
強い光の宿る瞳から目を逸らす事は簡単だ。
けれど、真剣な主人の意思に答えようと、ラキエルも曇りない瞳で主人を見返した。
「ラグナを助けたい。どうすればいい?」
堕ちた天使が以前のように、清い心を謳うなど許されない。
けれど、ラグナを救いたいという気持ちに邪な感情など何も無い。純粋に、助けて欲しいという願い。切り立った崖の端に立つような感覚。返る答えで落ちるか飛ぶか。祈るような心で、ラキエルは主人の言葉を待った。
「ああ、あんたは悪い奴じゃ無さそうだ。だから教える。ドルミーレには、命の巫女と呼ばれる娘がいる。彼女は手で触れるだけで、どんな難病でも癒せるそうだ」
「まさか……」
そんな話があるはず無い。
天使でさえ、傷を癒す術は容易に使えない。高い魔力と研ぎ澄まされた集中力、そして奇跡と呼ばれるものが揃って初めて扱えるものだ。しかもそれだけの能力を問われるのに、癒せるものは微々たるもので、転んですりむけた傷や、しおれた花を蘇らせる程度の力しかない。
天使でさえ扱いが難しいそれを、人が操るというのか。
にわかに信じられない話に、ラキエルは押し黙る。
しかし主人の真剣な表情を見る限り、嘘を言っているようには見えない。
「俺も自分の目で見たわけじゃないから、何とも言えん……。信じる信じないはあんたの決める事だ」
ふと、言いようの無い既視感。
二択の決断を迫られ、選べるのは一つだけ。潔く諦めるか、曖昧な希望に縋るか。
そう、これはラグナの手を取った時の感覚に似ている。
あの時は、ラグナが救ってくれた。ならば、今度はラキエルがラグナを助ける番ではないだろうか。選択肢は、一つだけだ。諦めるというのは、選ばないも同じなのだから。
「……ありがとうございます。西のドルミーレに行ってみることにします」
微かでも希望の灯火があるのならば、月明かりを頼りに進むだけだ。
ドルミーレの命の巫女。その言葉を頼りに、ラキエルは礼を述べて宿を後にした。
残された主人は、突然の訪問者を無言のまま見送った。
古びて戻りの悪い扉を閉じようと足を進めたとき、主人はふと違和感を覚えた。扉に、床に、赤い血が零れている。背負われていた青年の傷口は応急手当のようなものがされていた。大量の血液が布に染みてはいたが、滴るほどではなかった。
ならば、これは……。
背負った青年に勝るとも劣らない程青ざめた黒髪の青年は、暗い夜闇に消えていった。主人はそちらの方を呆然と見つめていた。