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紅き天使の黙示録

第二章 -11- 代償

 流砂に沈むような感覚。もがけばもがくほど意識が混濁し、視界から光が消える。知らず伸ばした手は空を切り、シシリアは光の中で意識を手放していた。

 長いこと意識を失っていたように思えたが、シシリアが眠っていたのはわずかな時間だった。

 肩や背に誰かのぬくもりを感じる。どこかを歩いて上っているようで、一歩を踏み出すたびに軽い振動があった。

 目覚めなければとシシリアは身体に力を入れようとしたが、意志に反してぴくりとも動かなかった。日をまたぐごとに目覚めが辛くなっている。特にこの三日ほどは、目覚めを呼び掛けて身体が動くようになるまで酷く時間を要した。その理由を、シシリアは気付き始めていた。

 人を癒す度に、シシリアの身体から力が抜けていく。はじめは気のせいと思っていた。しかし、最後にラキエルとラグナを癒した後、シシリアはしばらく動けなかったのだ。動けるようになるまで、しばらくの時間がかかる。意識は戻っていても、身体が動かないのでは仕方がない。

 シシリアは五感のうち機能している触感と聴覚に意識を傾けた。

「シシリア様……大丈夫ですかぁ?」

 幼さを残すミーナの声が聞こえ、シシリアはほっと安心した。

 どうやら無事一緒にいるらしい。

「……もう限界だ。姉さんは、これ以上力を使っちゃいけない」

 答える声は、ローティアのものだった。声はすぐ近くで聞こえた。恐らく、シシリアを抱きかかえて運んでいるのだろう。いつの間にかシシリアの背を追い抜かしていたローティアは、シシリアの知らぬうちに少年から青年へと成長を遂げていたらしい。シシリアを抱きかかえる力に弱々しさはなく、しっかりとした足取りで歩みを進めていた。

「そんな」

「もう村には戻らない。ゼルス王のもとにも行かせない」

 覚悟を決めたような硬い声を境に、沈黙が落ちる。しかしそれは一瞬のことで、明るいミーナの声がローティアの背中を押すように響いた。

「……ローティア様がそうお決めになったなら、ミーナはついていくだけです」

「ごめん。君を巻き込むつもりはなかった」

 健気なミーナの言葉に、ローティアは悲しげに声を絞り出す。

「なに言ってるんですかー。わたくしはローティア様とシシリア様に御恩があります。お二人がいなかったら、わたくしはここにいませんから。どうぞ気にしないでください!」

「ミーナ……すまない」

「ローティア様、そんな悲しいお顔をしないでくださいませ! シシリア様がお目覚めになられたら心配されますよー」

 勇気づけるように、ミーナは明るい声色でローティアを鼓舞する。

 いつものミーナ。いつもより思いつめたようなローティア。二人の声を聞きながら、シシリアは別の気配を探したが、今ここには三人しかいないようだった。

「夜が明けたら、森を抜けて南の国へ行こうと思う。準備は以前から進めていた……ここに必要なものはそろえてある」

「さすがはローティア様!」

「もう、あの屋敷には戻れない。それでも、いいのかい?」

「お二人の居られる場所が、わたくしの居場所です」

「……すまない」

 ミーナを巻き込むことへの罪悪感か、ローティアの声は小さく消え入りそうだった。

「ローティア様! 違いますよー」

 何やら可笑しそうに笑い声をあげて、ミーナははっきりとした声で言う。

「こういう時は、『ありがとう』ですよ!」

 きっと笑顔で言ったのであろうミーナの言葉に、ローティアも少しだけ気が晴れたのだろう。肩の力が抜けるような感触と一緒に、シシリアの耳にローティアの控えめな笑い声が届く。

「そうだね、まったく君にはかなわない。ありがとう、ミーナ」

「どういたしまして! ……あ、ローティア様! 夜明けにここを出るなら、わたくし村の様子を見てきます。ここが知られていないとも限りませんし、今頃大騒ぎかもしれません」

 ミーナの提案にローティアは少し悩むように押し黙る。

「大丈夫です、こっそり見てくるだけですから。見つかったらすぐ逃げてきます」

「……わかった。でも、気を付けるんだよ」

「はい! わたくしがいなくなったら坊ちゃまもお嬢様もお食事に困りますから!」

 料理の腕のことを指しているのだろう。シシリアは内心ぎくりとしながらも、ミーナの言葉を聞いて安心する。ミーナはこれからも一緒にいてくれるのだ。

「そうだね、ミーナがいなければ僕たちは野垂れ死んでしまうね」

「勿論、そんなことにはなりませんから! ご安心を」

「ああ。頼んだよ、ミーナ」

「はい! お任せあれ」

 一際元気な声を上げたミーナはそのまま来た道を引き返していく。軽い足音が次第に遠ざかるのを聞きながら、シシリアは次第に身体の感覚が戻ってくるのを感じ取った。動けるようになるまでもう少し。

 そこで、肩を支える腕に力が入ったかと思うと、木製の扉を押し開くような軋んだ音がシシリアの耳に届く。

 階段を上った先で、どこかの部屋に入ったのだと推測した。しばらく進んだところで、ローティアは足を止めた。不意に浮遊感を感じたかと思うと、シシリアの背に柔らかな感触が広がった。突然のことに驚き、シシリアは小さくうめき声を上げた。

「うぅ……」

 身体が動く。そう確信し、シシリアは目を開けた。

「姉さん? 目が覚めた?」

 光に慣れてぼやけた視界が鮮明になってくれば、視界にローティアの心配そうな顔が映り込む。

「ローティア……。ここは、どこなの?」

「村から少し離れた場所にある塔の中だよ」

 シシリアが目覚めたことに安心したのか、ローティアの幼さの残る顔に安堵の色が浮かぶ。シシリアの肩を支えていた腕を離すと、ローティアは一歩後退した。シシリアは寝台の上に横たわっていた。ぎこちない身体を起こすと、シシリアは弟の海のように碧い瞳を見上げた。

「そう……ほかの人は?」

「ミーナは村を見に行った」

「そうね。ラキエル達は?」

 ここにいない二人の旅人を思い浮かべて、シシリアは問いかける。ローティアは微かに眉を顰めるも、静かに首を横に振った。

「ここにはいない」

「ローティア、話して。どうしてこんなことに?」

 話すことを戸惑っているのか、ローティアは視線を外す。それでも、シシリアはローティアをまっすぐに見つめ、答えを待った。

 僅かな沈黙を挟み、ローティアは静かに話し出した。

「……王都からゼルスの使者がきた。王城へ上がり、王を癒せと。次に断れば、家を取り潰すと……あいつら、ミーナを人質に取ろうとした」

 その言葉に、シシリアは驚きを禁じえなかった。言葉を吐き出すことも忘れ、冷たい部屋の空気をひゅっと吸い込んだ。

 恐れていたことが現実となってしまった。巻き込んではいけないと思っていたのに、シシリアが曖昧に現実から目を背け返事を濁しているうちに、ローティアだけではなくミーナをも巻き込んでいたのだ。

 己の行動がこんな結末をもたらすなど考えもしなかった。

 ただ、シシリアは自身のもつ異端の力を人の役に立てたかっただけだ。傷や病が癒え、怪我人や病人その家族が笑顔でいてくれることがただ嬉しかった。

 それだけだったのだ。

「……ミーナは屋敷に火がついたって、王の使者はどうなったの?」

 シシリアが恐る恐るローティアを見上げた先で、青年は悲しげな瞳を閉ざす。

 そして、無機質につぶやいた。

「――殺した」

「そんな!」

 ローティアの言葉に、シシリアは大きく瞳を見開き口元に手を当てた。

 優しいローティア。口数が多い方ではないけれど、いつもシシリアやミーナを気遣ってくれた。幼い頃、父と母が他界してしまい、悲しく眠れぬ日は朝まで本を読んでくれた。ミーナが食器を過って割ってしまった時は、破片で手を切らないようにと片付けを手伝い、割れた皿をそっと買い足していた。

 そんな優しい弟が、何をした?

 信じられなくて、シシリアはただ耳を疑った。

 見つめる先のローティアはゆっくり目を開き、南海の瞳でまっすぐにシシリアを見下ろす。真摯な視線に嘘があるとは思えなかった。

「僕が、魔術で使者ごと屋敷を燃やした」

 それが嘘ではないと語るように、ローティアは右腕をシシリアの目線の高さまで上げる。手のひらを差し出すように開くと、ローティアの手のひらに赤い色と熱が噴出した。それは燃え盛る炎だった。手品のように自然な動きで現れたそれを、シシリアは驚愕の表情で見つめた。

「僕も授かったんだ。人にはない力を」

 シシリアと同じように。そう言ってローティアは柔らかく微笑んだ。

 繊細な面立ちに無邪気な笑顔を浮かべるローティア。シシリアは首を横に振った。

「違う……それは……私のものとは違う」

 ローティアの炎から感じ取れた気配は、シシリアの知るものとはかけ離れていた。

 言葉にするなら、それは邪気。

 ラキエルがシシリアの力を神の恩寵と呼んだのであれば、ローティアの力は悪魔の力。

 直感ともいえるものが、ローティアの力に警鐘を鳴らす。シシリアの瞳には確かに映ったのだ。炎が燃え上がった瞬間、ローティアの背後に見慣れぬ醜悪な魔物の姿が。

 山羊の角のようなものを頭部から生やし、顔と上半身は人の姿に似ている。しかし指先の爪は長く鋭く、下半身は濃い体毛に覆われ、獣の四肢を連想させた。尾は太く、てらてらと光る鱗がびっしりと敷き詰められ、尾の先には鋭い棘が数本生えている。それは異形の怪物だった。ほんの一瞬だけ現れた魔物は、白目のない深淵のように暗い瞳でシシリアを見つめ、鋭くとがった犬歯が覗く口元を歪ませて笑った。

 あまりのおぞましさにシシリアは動けず、瞳を数度瞬く。

 一度閉ざして再び開けた視界には、見慣れた弟の姿だけが残っていた。

「それは……魔導の力ね」

 恐怖に捕らわれながらも、シシリアは弟に問いかけた。

 ローティアは悲しそうに微笑んだ。

「そう。僕は悪魔と取引を交わした。力を得る代償に、魂を差し出す契約を。……僕には、力が必要だったんだ」

 悪魔との取引。それは禁忌とされている。

 この世界は、悪魔と取引をした者を神を冒涜する背信者として裁いてきた。悪魔を現世に呼び出すことは勿論、契約を交わすことは最大の禁忌である。

 悪魔は人に災厄をもたらす。疫病や争い、天変地異などを招き、多くの人に不幸をもたらすといわれていた。戦や病が蔓延るこの世界で、悪魔は人を誘惑してきた。取引をすれば災厄を免れることができる、強大な権力に立ち向かえる力を与える、愛しい者を虜にできるなど、様々な言い伝えがある。その甘い言葉に乗せられた者は悪魔と取引をして魔導に落ち、二度と人には戻れぬという。

 悪魔との取引には必ず代償が必要とされている。生贄だったり、召喚者の命であったり、供物であったり。強い力を求めれば求めるほどに、その代償は大きなものへとなっていく。

 ローティアが魔導を手に入れた代償は、死した時に輪廻転生から外れ悪魔に魂を差し出すことであった。それは、二度と生まれ変われない事を意味し、悪魔の気まぐれによって永劫地獄に閉ざされることだってある。死してずっと、苦しみが続くのだ。数ある取引の中で、最も重いものでもあった。

「……私の……為なのね?」

 全てを悟ったシシリアは、絞り出すようにローティアに声をかけた。

 シシリアがゼルスに対抗する力などあるはずもない。強大な権力と兵から逃げ切るために、力が必要だったのだ。

 弟やミーナと離れたくないと望みながら、シシリアは噂が広がるのも気付かずに、求められるまま人々を癒し続けた。その結果、ゼルスの耳にシシリアの存在が知られ、ついには迎えが来てしまった。

 ローティアはこうなることを予見していたのだ。

 ずっと、ローティアはシシリアに力を使うことに対して忠告してきた。シシリアのやることにはあまり諫言しないローティアが、口をすっぱくして力を人前で使わないようにと言ってきたのだ。

 その言葉を聞かなかったのは、シシリアだ。

 この最悪の状況を招いたのは、シシリアなのだ。

 己の愚かさがローティアを魔導に落とし、ミーナを巻き込み、不要な死者を出した。

「私が……この力を軽々しく使ったから……こんなことに」

 シシリアの瞳に、後悔の涙が浮かぶ。目から溢れた雫は白い頬を滑り、知らず握りしめた寝台のシーツの上に落ちて消えた。

「僕は後悔してないよ、姉さん」

 同じ目線まで腰をかがめたローティアは、そっと繊細な指先を伸ばしてシシリアの涙を拭った。

 ローティアの手は、優しい温もりを失ってはいなかった。

 シシリアはもう一つ、透明な涙を流した。

「逃げよう、姉さん。この国から、すべてを捨てて」

 優しく穏やかなローティアの声が、シシリアの胸に刺さる。

 ローティアは自分のために何もかも捨てようというのか。夢も家も友もすべて。

 そうさせてしまうのが、シシリアの存在なのか。

 平和で穏やかな日々は終わりを告げ、追われる日常が始まってしまう。駄目だ。そんなことさせたくはない。

「……いいえ。逃げないわ。私は、ゼルス王のもとへ行く」

 ローティアもミーナも巻き込むわけにはいかない。

 シシリアは決意したように、ローティアの瞳を覗き込んだ。

「私がゼルス王のところへいけば、ローティアとミーナはまた日常に戻れる。戻してもらう。だから……」

「それはできないよ。僕はゼルス王の使者を殺してしまったし、悪魔と取引をした僕の居場所はもう村にはない」

 シシリアはまたも己の浅はかさを悔やむ。そう、すべてが遅いのだ。取り返しがつかなくなった今、選ぶべき道はローティアの言う道だけなのかもしれない。

「姉さんがゼルス王のもとへ行くなら、僕も一緒に行くよ」

 頑ななローティアの言葉が、シシリアの意志を砕く。

「それはだめ! ……だめ……」

 悲しげにシシリアは俯いた。もう、何が良いのかわからなかった。何がローティアとミーナにとって最良の道なのだろうか。

「大丈夫。もう準備は整っているんだ。南の国に、小さいけれど家も用意してある。この国と敵対関係にあるから、ゼルスの手も易々とは届かない」

 あくまでも優しい声でそう言い、ローティアは励ますようにシシリアの額に己の額をこつんと合わせた。

「……ローティア、ごめんなさい」

 こんな時も、何もできない無力な自分に嫌気がさす。

 シシリアはローティアに守られてばかりだ。家族として、姉として、守ってあげたい気持ちがありながら、肝心な時に役に立てない。なんと歯痒いことか。

「大丈夫、僕がいる。……ミーナだって。一人にはさせないよ」

 幼い頃にシシリアがローティアにかけた言葉を、ローティアは何度も繰り返す。

 絶えず優しい弟の言葉に、シシリアはまたひとしずく涙をこぼした。

◆◇◆◇◆

 焦げるような異臭が風によって届き、ラキエルの焦燥感を煽っていく。

 シシリア達が姿を消してしまってから、ラキエルはすぐさま屋敷へと駆け出していた。

 屋敷にいた人間は、ラグナを残してあの場所にいた。ならば、あの場所にいなかったラグナは、屋敷に取り残されているのだろうか。逃げ足だけは誰の追随も許さないラグナのことだ、炎に包まれているとは考えにくい。

 ローティアを含めシシリア達の後を追うべきとも考えたが、ラキエルには三人の行方を探る術が乏しい。魔力の残り香だけで見つけ出せるとは思えなかった。ならば、先にラグナと合流すべきだ。そう結論を出したラキエルは、屋敷の前にたどり着いたところで唖然と立ち尽くした。

 屋敷は業火に焼かれて見るも無残な姿に成り果て、原形を留めていなかった。焼け爛れた木の柱は屋敷を支えることもできず、二階ごと崩れ去っている。優しい光を招いていた窓は粉々に砕け、硝子の欠片はあちらこちらに飛散していた。豪奢な調度品や漆喰の壁はもはや見る影もなく、本当にここに屋敷があったのかと疑ってしまうような有様だった。

 木や煉瓦が焼ける匂いに交じって、肉が焦げたような異臭がする。

 ラキエルが異臭の強い玄関口に視線を向ければ、そこには黒く焼け焦げた何かが転がっていた。

 夕焼けも沈みかけ、宵の顔が空のかなたから覗く逢魔が時。視界は暗く、黒く異臭の放つそれを視認するのは難しい。目を凝らそうとしたところで、黒い影が光に照らしだされた。月が顔を覗かせたのだろうかと空を見上げれば、屋敷から離れた門の柵の上に、光の玉が浮かんでいた。そして光のすぐそばには、黒衣に身を包んだラグナが十字の杖を片手に悠然と立っていた。

「それ、王宮の使者だってよ」

 光で照らされた黒いものを指して、ラグナは平然と告げる。

 ラキエルが再び黒いものを見返してみれば、それは確かに人の形に見えなくもなかった。異臭の理由がわかり、ラキエルは憐れみを込めて祈りの印を切った。

「ラグナ……無事だったんだな」

「まーね。お前は? シシリアと一緒じゃねぇの?」

 光の玉を手を振り払って消すと、ラグナはラキエルの傍に飛び降りた。

 見たところラグナは怪我などはしていないようだ。ラキエルは先ほどの経緯をどう説明すべきか悩んでから、順を追って話し始めた。教会の帰りにミーナと出会ったこと。屋敷が燃えたという知らせを受けた後、突然ローティアが現れたこと。ローティアが魔術と思わしき力を使って転移していったこと。すべて話し終えると、ラグナは考え込むように小さく唸った。

「状況は分かった。この火事もローティアの仕業で間違いない。屋敷を中心に、魔力を封じる結界を張っておいたが、屋敷に火が回る直前に強い力で結界を破壊された」

「ラグナの結界を破ったのか……」

「ああ」

 それはつまり、並大抵の力ではないということだろう。

 同じように神の恩寵を授かった者か、上位の悪魔と契約をした者か。

 シシリアが結界を破壊したとは考えにくい。ならば、転移の魔術を使役したローティアの可能性が高かった。

「さて、と。どうするよ?」

 焼けた屋敷とラキエルを交互に見つめ、ラグナは問いかけた。

「どうするもない。シシリア達を追う。仮にローティアが悪魔と取引をしたのなら、見過ごせない」

「それは天使としての意見か?」

 引っかかるような問いかけに、ラキエルは不愉快そうにラグナを見やった。

 ラキエルはもう、天の秩序を従順に守る天使ではない。悪魔と対立関係にある天使だが、天を裏切った今のラキエルに、神の僕として悪魔を裁く道理はないのだ。

 しかし、天を裏切ったとしても、ラキエルは翼を黒く染め神を冒涜する存在になり下がったつもりもなかった。

 人を貶め弄ぶ存在である悪魔は好ましいものではない。そして、シシリア。彼女は恩人なのだ。シシリアが危険に晒されるかもしれないこの状況を、黙って見過ごす気にはなれなかった。

「いや。俺個人の考えだ。シシリアを見捨てることはできない」

 ラグナはやれやれと小さくつぶやくと、頭を振って口元に笑みを浮かべた。

「とんだお人よしだな。自分だって安全だとは限らねーのに」

「なんとでも言え。……ただ、このまま逃げるのは目覚めが悪い」

「それもそうだな」

 ラグナは頷くと、ラキエルを杖で小突いた。

「お客様がお見えだぜ」

 ラグナがラキエルの駆けてきた道の先を顎で示す。ラキエルは振り返るとそこに、屋敷の惨状に驚愕している数人の村人を見つけた。

 村人の中には、先ほどラキエルと話した老齢の神父もいた。

 屋敷の門前にいち早くたどり着いた神父は、ラキエルとラグナをちらりと横目に見たものの、玄関口の黒い焼死体を見つけると絶望したように頭を抱えた。

「なんということだ……。これは……この紋章はゼルス王直属の兵ではないか!」

 焼死体の携えていたであろう、奇跡的に焼けなかった鉄の剣の柄に刻まれた紋章を見つけた神父は、崩れ落ちるように膝をついた。

「一体何があったというのだ」

 震える声で呟くと、神父はラキエルを見上げた。

「そなた、シシリアの客人であろう? シシリアは……どこだ?」

 ラキエルは真実を告げるべきか悩み、ラグナを盗み見る。ラグナは口元に人差し指を当てた。

「わからない。途中で別れたんだ」

「なんということだ……。例え事故だとしても、王の使者が死んだとなればただでは済まぬ……」

 神父の言葉に、追いついてきた数人の村人の男たちがざわめく。

「このままではドルミーレは終わりじゃ……ゼルス王に知れれば焼き討ちに遭うぞ!」

 王が所望するシシリアを差し出さず、使者を葬り去ったドルミーレが王の怒りに触れないわけがない。

 神父の言わんとすることを理解した村の男たちが、恐怖を絞り出すような声で不安を言葉にする。

「そんな……俺たちは何もしてない」

「なんでこんなことに……」

「今からでもシシリアを差し出せばまだ間に合うのでは?」

「そうだ……きっとこんなことをしでかしたのは弟のローティアに違いない! あいつ最近、村の奴らと距離を置いてた」

「ローティアが……?」

「ローティアはシシリアが王城へ行くこと、快く思ってなかったらしいからな」

「……ああ、ローティアが森に出かけるのを見たってやつが何人もいる……森の奥には昔焚刑に処された魔女の塔があったはず……」

「ローティアがシシリアと自分可愛さに悪魔と取引したに違いない。でなきゃ王の使者がこんなあっけなくやられるはずがない」

 村人たちの言葉に、ラキエルは耳を疑った。

 保身に走ろうとする村人に、正気があるとは思えなかった。ラキエルはドルミーレの村のことを深く知っているわけではない。しかし、シシリアが村に献身的に尽くしている姿を見た。神の恩寵を私利私欲に使うのではなく、人の為だけに使っていたこと。その恩を多大に受けているはずの神父や村人の口から、シシリアを擁護する声は聞こえなかった。

「あんたたちは……シシリアに世話になってきたんだろう? シシリアを守る方法は考えないのか?」

 抑えきれない激情に突き動かされ、ラキエルは神父を見下ろし問いかけていた。

 彼らは己が身可愛さにシシリアを差し出すことしか頭にないのか。

 彼女から受けた恩を仇で返すような真似をして平気でいられるのか。

 少なくとも、神に仕える神父くらいは、シシリアを思いやることができるのではないか。

 しかし神父は淡々とした声で、ラキエルの微かな希望を打ち砕いた。

「ゼルス王の命は絶対じゃ。背けばドルミーレに未来はない。それは、シシリアとて望まないだろう……そもそもシシリアがいたから、ドルミーレのような辺境の村に王が目を向けてしまったのだ」

 神父の言葉を聞いて、ラキエルは鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 笑顔で、人の役に立てることが嬉しいと話していたシシリア。見返りなど求めずに、博愛の精神で人々を救っていた彼女に、感謝こそしても逆恨みなどあるはずがない。そう思っていた。そのすべてを否定するような言葉に、ラキエルは絶句するしかなかった。

「シシリアを……探すのだ。多少手荒をしても構わぬ。なんとしても探し出し、王に献上せよ」

 神父は背後の村人にそう言い放つと、ラキエルとラグナをを指さした。

「この者たちはシシリア逃亡に加担した可能性がある。捕らえるのだ!」

「なっ!?」

 ラキエルの背後で村人の動く気配があった。

 一人がラキエルを背中から羽交い絞めにしようと腕を絡めてくる。鋭く反応したラキエルは、すぐさま身を翻して男の腕を払い胸倉を掴むと、流れるような動作で足払いを仕掛けた。反撃を予期していなかった男は均衡を崩しよろめいたところで、ラキエルは男の腕を片手でつかみ上げるとそのまま背負うようにして投げ捨てた。重みを感じさせる音と共に、男が受け身も取れずに地面に叩きつけられる。

 神父が短い悲鳴を上げて後退した。

 村人もラキエルが反抗してくるとは予期していなかったのか、動揺したように後ずさる。

「とんだ茶番だな。ラキ、クズどもは放っておいて行くぞ」

 小ばかにしたように鼻で笑ったラグナは、ざわめく村人の横をすり抜けて森の方へと足を踏み出す。

「ああ……そうだな」

 ラキエルが一歩を踏み出せば、村人は恐れおののき、ラキエルに道をあけた。

「ま、待て! こんなことをして、ただでは済まされないぞ!」

 神父が吠えるように声を荒げれば、ラグナは編み上げブーツのかかとを鳴らして立ち止まると、不敵な笑みを浮かべて振り返った。

 その瞳は月の光を受けて煌々と金色の輝きを放っていた。

「へぇ? それで?」

 含みのあるような声音で問いかければ、神父は肩を震わせて押し黙った。

 月の光に照らし出された黒衣の青年は、ラキエルに比べ小柄ではあるものの、言いようのない妖しさがあった。触れれば毒に侵されるような危険を、その場にいた勘の鋭い者は感じ取る。人には見られない獣のような吊り上がった金色の瞳が悪魔めいたものを連想させた。

 村人達は蛇に睨まれたカエルの様に動くこともできず、ラキエルとラグナが森方へ消えるまで立ち尽くしていた。

 空高く顔を覗かせた月が流れてきた雲に隠れ、辺りに静けさと闇が満ちると、村人の一人がぽつりと呟いた。

「悪魔だ……あれはきっと災いを呼ぶ悪魔の化身だ」

 再び月の光が大地に降り注ぐ頃には、ラキエルとラグナの姿は森の闇の中へと消えていた。

◆◇◆◇◆

 ミーナは軽い足取りで森を駆け抜けていた。

 ローティアが身を隠す場所として選んだ森の奥の塔から村まで、ゆっくり歩いて半時ほどの距離がある。

 人の手が入らない森の小道は、枯葉や枯れ木が大地を覆うほどに積み重なり、何度も足を取られそうになった。木々は空を覆いつくすかのように枝葉を広げ、月の光もほとんど届かない。暗闇の森であったが、ミーナは迷わず村へ向かっていた。

 この森は、幼いミーナやヴェルディス姉弟の遊び場でもあった。三人は冒険ごっこを称して、森の中を探検したものだ。大人たちは迷子になって危険だから近づかないようにと何度も注意したが、好奇心溢れる子供にそんなものがわかるはずもない。大人たちは魔女の住まう不吉な森として、近寄る者はいなかった。しかし、幼いころから森で遊んでいた子供たちにとっては、庭のような感覚で歩き回れる、隠れ家のような秘密の森でもあった。

 もう少しで森を抜け、村が見えてくる。

 そこで、ミーナは微かな足音を敏感に聞き取り、足を止めた。少しでも陽光の恩恵を受けようと背高く伸びた草むらで身をかがめる。

 足音の聞こえた先に視線を向ければ、明るい光が近づいてくるのが見えた。

 ランタンだろうか。

 ミーナが近づく光に疑問を持つ間に、光は枝葉をかいくぐり、塔へと続く道を照らす。その光の先に、人影があることに気付き、ミーナは息を潜めた。

 男と思われる声がふたつ。ミーナは声に耳を傾けた。

「この先にシシリア達がいるのか?」

 先に聞き取れたのは、屋敷で保護したラキエルの声だった。

「ああ、間違いないだろう。この先に塔みたいなものが見える。そこから、魔力のにおいがする」

 応えた声は、屋敷にいたはずのラグナのものだ。ミーナは無事だったのかと胸を撫で下ろす。ローティアが屋敷と王の使者に炎を放った後、行方知れずになっていたので、心配していたのだ。

 ミーナは出ていくべきか迷ったが、まずは様子を窺うことにした。

「ローティアは何をする気なんだ?」

「さて、ね。大方、この村に留まればシシリアは王に連れていかれる。そうなる前に、国外へ逃げ出そうって算段なんじゃねぇの? さっきの神父といい、この村にはろくな奴がいないみたいだしな」

「そうか……」

「シシリアとローティアに追いついて、ラキはどうするわけ?」

 ラグナの問いかけに、ラキエルは一瞬押し黙る。

 ミーナは答えを待った。その答え次第では、ここを通すわけにはいかない。

 ミーナは音をたてぬように細心の注意を払い、懐に隠していた護身用の短剣に手を伸ばした。

「――手助けをしたい。彼女命のは恩人だ。それに、シシリアにこれ以上、力を使わせては駄目だ」

「どうしてそう思う?」

「これ以上人を癒せば、シシリアは死ぬ」

 その言葉に、ミーナは悲鳴を上げかけた。口元に手を当てて、それを留める。

「気付いてたか。シシリアに与えられた大地母神の恩寵は命さ。シシリアに治癒能力があるわけじゃない。自身に与えられた命を分け与えることで、人の怪我や病を治してたんだ」

「だけど、もう命の残りは僅かだ」

「そう。これ以上、シシリアに命を削らせることは、死へと繋がる。ローティアは気付いたんだろう」

 ミーナは先ほどのローティアとの会話を思い出す。

「……もう限界だ。姉さんは、これ以上力を使っちゃいけない」

 そう、ローティアもラキエルやラグナと同じことを言っていた。もしもこれが事実ならば、決してゼルス王の元へ行かせるわけにはいかない。

 ローティアの考え通りに、誰もシシリアを知らない場所へ行かなければ。

 ラキエルとラグナはローティアの助けになってくれるかもしれない。このまま塔へ行かせても問題はないだろう。そう判断して、ミーナは村の方へ視線を向けた。

 今は村の様子をローティアに伝えなければならない。ラキエルとラグナを塔まで案内するべきかとも悩んだ。けれど二人は森に踏み入れるのは初めてだろうに、迷わずしっかりとした足取りで塔への道を歩いている。このまま放っておいても塔へたどり着く気がした。

 そう判断し、ミーナはそっとその場を離れた。

 村人がシシリアを探し回っていないとは考えにくい。今はドルミーレの村人の意向を探る方が大事だ。

 村のかがり火が見えてきたところで、ミーナは様子を窺うべく、手近にあった背の高い木を登り始めた。

 太い枝を選んで掴み、葉の天涯を抜けるところまで登ったミーナは、栗色の髪を夜風に揺らした。

 村はまだ静かに見えた。

(なんでしょう……嵐の前の静けさみたい)

 ふと、ミーナはローティアとシシリアと出会った幼少の記憶を呼び覚ます。

 それはまだ、ローティアがヴェルディス家に迎えられて間もない頃のことだった。

 ローティアという跡取り息子を得たヴェルディス家の主は、二人の子供を連れ世話係を求め大きな町の市場に来ていた。ローティアは初めて訪れる街に好奇心をくすぐられ、様々な出店を見て回るうちに父とシシリアとはぐれていた。

 そこで、戦争孤児であり奴隷として売られていたミーナと出会ったのだ。子供が商品として売られているのが物珍しかったのかもしれない。幼いローティアはミーナに何度も話しかけてきた。

「ねぇ、なんで檻の中にいるの?」

「僕の言葉わかる?」

「君の髪の色、東の国の人だね。絵本で見たよ」

「僕、お姉ちゃんと父さまとはぐれちゃった……」

「僕、また一人ぼっちになるのかな……」

 ローティアの言葉に、ミーナは反応しないでいた。

 しかし、次第に心細くなってきたのであろう。涙ぐむローティアの姿に同情の心が生まれた。ローティアの瞳はミーナが見た誰よりもきれいな青緑色だった。溢れる涙はまるで海の雫のようにきらきらと輝いている。ミーナは知らず檻の合間から手を伸ばし、ローティアの涙を拭っていた。

 ローティアは驚いて大きな瞳をぱちくりと瞬いていた。

 それがなんだか可愛らしかったのをよく覚えている。ミーナはローティアに微笑みかけていた。

「ローティア!」

 大通りの先から綺麗な金髪の女の子――シシリアがローティアの名前を呼んだ。

 大きな町を駆けずり回って探していたのであろう。荒い息を整える暇もないままシシリアはローティアに抱きついた。

「もう! 心配したんだから!」

「ごめんねお姉ちゃん」

 シシリアは弟を見つけ出したことに安堵し、胸を撫で下ろす。そしてローティアの傍にいたミーナに気付いた。

 やはり檻の中に歳の近い少女が入れられていることに疑問を持ったのだろう。シシリアはローティアと似て異なる空色の瞳で、ミーナを見つめた。

「貴方がローティアを慰めてくれたのね。ありがとう」

 花が咲くような明るい笑顔を浮かべて、シシリアは優雅にお辞儀をした。

 ミーナは戸惑いを隠せなかった。皆、ミーナに憐れみや好奇の視線を向ける。しかし、このように檻につながれたミーナに笑顔を向けて礼をする存在は初めてだった。

 ローティアもシシリアも、ミーナを一人の人として見てくれていた。それが少しだけ、嬉しかった。

「お父様ー! ローティア見つけたわ!」

 シシリアが父を呼ぶ。

 ミーナは家族がいるローティアとシシリアを少しだけ羨んだ。

 ミーナは戦争で家族を失った。しばらくは流民にまぎれていたのだが、町で一人はぐれてしまった時に、運悪く人買いの一座に捕まり、檻へと繋がれた。幼いミーナにも、檻の中にいる理由は分かっていた。このまま奴隷として売られて、家畜のように働かされて死ぬのだろう。檻の外で幸せそうに笑う姉弟を眩しそうに見つめたミーナは、全てを諦めたように小さく息を吐いた。

 そんなミーナを、ローティアはまっすぐに見つめていた。

 しばらくして、二人の父親であろう、品の良い中年の男がシシリアに手を引かれてやってきた。

 ミーナをずっと見つめていたローティアは、父の存在に気付くと背筋を伸ばして向き直る。そして、その場にいた誰もが驚くような言葉を発したのだ。

「父さま、今日は欲しいもの何でも買ってくださるのですよね。――僕、友達が欲しいです」

 はっきりとした口調でそう告げると、ローティアはミーナに視線を向けた。

 ミーナ突然の言葉に、唖然とするほかなかった。

 シシリアは弟の提案に、明るい笑顔を浮かべて父を小突いた。

「お父様! 私からもお願いするわ!」

 幼い姉弟にねだられた父親は困ったような顔をしていた。

 諭すような口調でなんとか諦めさせようとしていた父親は、子供たちのきらきらとした視線に勝てず、押し切られていた。

 ミーナは街角での出会いが人生を変えるとは予期しておらず、その成り行きを驚きと不安と微かな期待を持って見守っていたように思う。

 かくしてヴェルディス家に奴隷としてではなくお手伝いとして、住み込みで働く自由を得たミーナは、ひとつ心に決めていた。

 この姉弟の為に生き、二人の幸せが永遠となるよう見守り続けようと。

 成長していくローティアに仄かな恋心が芽生えたことも、ミーナはそっと心の奥にしまって鍵をかけた。

 ローティアの心が、自分にはないことに気付いていたからだ。

 彼が心を寄せるのは、血のつながった実の姉であることも知っていた。

 祝福されざる恋だとしても、ミーナは二人の幸せだけを願った。

(わたくしが、お二人をお守りしなきゃ!)

 ミーナの気持ちに呼応するかのように、追い風が吹き抜けた。

 今は思い出に耽っている場合ではない。頭を振ってミーナは村へと視線を向ける。

「あれは――?」

 村の広場のかがり火がやけに多い気がした。目を凝らしてみれば、かがり火は次々と数を増やしていくではないか。村人が松明に火をつけて集っている。

「シシリアを探せ! 邪魔をする奴は手荒にしても構わん!」

 強い風に交じって、ドルミーレの村長の野太い声が響いた。

 松明の火が一斉に持ち上がり、村の男たちが団結するように声を上げた。松明は村の四方八方へと進み行く。特に森へと向かう火の数がとりわけ多かった。

 危険を察知したミーナは急いで木を降りると、塔へと向かって走り出した。

 塔が見つかるまでそう時間はかからないだろう。一刻も早く、ローティアに伝えなければ。

 不安に押しつぶされそうになる気持ちを奮い立てて、ミーナは暗い森の中に消えていった。