静かな夜が更け、ラキエルは火の番をしながら眠るラグナとシシリアを一瞥した。
パチパチと火の粉を散らして赤々と燃える炎が照らすのは、少し離れたところで休んでいるシシリアとラグナだった。
シシリアはラキエルが貸し与えた白い法衣の外套を頭まで被り、漆黒の大地に横たわっている。眠れているのかは定かではない。時折すすり泣きに似た声が零れていたので、あまり眠れてはいないだろう。ラグナは自身の漆黒の外套を被り、木を背に座りながら目を閉じている。
静かな夜明けが訪れた。儚げな黎明が東より顔を覗かせ、漆黒の森を照らしていく。枝葉の合間より光が差し込み、ラグナは眩しそう眉を潜めた。
「朝か……」
少しばかり冷える朝露を纏った清々しい空気を吸って吐き出し、ラグナは腕を伸ばした後に金色の瞳を開いた。
三角耳の風変わりな帽子をとるとぼさぼさとした顎のラインまで伸びた鳶色の髪をかき回す。
ラグナは辺りを見回し、シシリアに声をかけた。
「シシリア、起きろ」
シシリアは身じろぎ一つせずに沈黙したままだ。
眠る女性に近づくのはラグナも戸惑うのか、少しばかり迷った様子で声をかけ続けたが、シシリアが起きだす気配はない。
ふと不安になり、ラキエルは立ち上がりシシリアの傍らまで歩み寄ると、シシリアの肩を軽く揺さぶった。
「シシリア? 朝だ……そろそろ起きないと」
やはり動き出す気配のないシシリアに、嫌な予感がしたラキエルは一言断って毛布代わりにしていた白い外套をめくる。どこか顔色の悪いシシリアは苦し気に呼吸を繰り返していた。寒いのかラキエルが引きはがした外套に身を埋めようと身じろぎする。朝陽が瞼の裏を刺激したのか、ゆっくりと蒼穹の瞳が開かれるも、視線は定まらないまま再び閉ざされる。
只ならぬ様子にラキエルはシシリアの額に手を当てる。自身の首元ににも手を宛がい、自身とシシリアの温度を確かめれば、シシリアの額は焚火に温められたラキエルの肌よりも遥かに熱を帯びていた。
いつもよりも荒い呼吸を繰り返すシシリアにラキエルは戸惑いを隠せず、ラグナに向かって手招きをする。
「ラグナ……シシリアに熱が」
ラグナは慌てている様子のラキエルに面倒くさそうな視線を向けたものの、黙ってシシリアの傍らまで来る。ラキエルと同じようにシシリアの額に手を当て、その異常なほどの高熱を感じ取ったラグナは眉宇を潜めた。
「まずいな……」
追っ手も迫っている中、シシリアが高熱により動けないのは状況が悪い。
しかし、のんびりとシシリアの容態が回復するのを待つわけにもいかない。また休むにしても鬱蒼とした森の一角では治るものも治らない。
いくつかの選択肢を取捨選択しながらラグナが導き出した答えは、とりあえずこの場から離れることであった。
「ラキはシシリアを頼む。休める場所まで運ぶぞ」
「追っ手はどうする?」
「最悪飛んで逃げればいい。ひとまず、人間の医者か……いや、安静に休める場所まで行くぞ」
そう言うとラグナは立ち上がり、呪文を唱え、焚火の炎を鎮火させる。辺りの枯葉を焚火の跡を覆い隠すようにかけると、木に立てかけていた杖を手に取る。出立の準備ができたところで、ラキエルも木に立てかけていた太陽神の長剣を背に背負い、シシリアを外套ごと抱き上げた。
シシリアは苦し気な声を微かに零したものの、意識が混濁としているのかその瞳は開かれない。ローティアやミーナを失った悲しみや故郷を追われたショックが重なり、心と身体に負担をかけたのだろうか。冷えた空気の中、シシリアの体温だけがやけに熱かった。
紅潮した頬、僅かに汗ばむ額に、苦し気な息遣い。不安になるほどその身体は軽かった。
「速足で行くぞ。まずは森を抜ける」
「方角はわかるのか?」
「ああ、陽の昇った方に行けば、抜けられるはずだ」
ラグナと視線を交わし、ラキエルは頷くとシシリアを抱えなおし一歩を踏み出した。
◆◇◆◇◆
陽が高く昇る頃、ラキエルとラグナは漆黒の森の先に明るく広がる草原の光景を視界に捉えた。
青々とした若葉がこすれ合う音に交じり、高い鳥の囀りが響き渡る。そして、微かだがせせらぎの音を聞いたラキエルは、近くに川が流れていると気付く。
「ラグナ……シシリアに水を汲んできてくれ」
「ああ、少し休憩するか」
可能な限り歩幅を広くし歩き通しで進んだ為か、幸い追っ手の影はない。
それでも馬を使って移動してくる可能性もあり、油断は許さない状況だ。
ラキエルはせせらぎの音のする方へ方向を変え歩き出す。ラグナはラキエルより一足先に川のあるであろう森の先へと駆け出した。手には昨夜ラグナが創り出した革の水筒。
軽快に走り抜けていくラグナを見送りながら、ラキエルは腕の中で動かないシシリアの様子を伺った。
高い熱に苦しむシシリアは、瞳を固く閉ざし、眉根を寄せたまま時折うなされているようであった。その身体は不自然に熱い。額に浮かぶ汗をそっと拭ってやりながら、ラキエルはシシリアを抱えなおした。
陽が高く昇り、辺りの温度は暖かさを感じるほどに上がっている。しかし、シシリアは小刻みに震えていた。このままではシシリアの体力が持たないだろう。
どこかゆっくりと休める場所があればいいのだが、見渡す限り人里は見えない。
森の先に見えるのは広がる青々とした草原、時折雑木林がところどころ窺える。歩みを早め、森から抜け出してみれば北の方角に川が見えた。幅のある川が流れてきている先には険しい渓谷があるようだ。
豊かな自然をのんびりと眺めている暇もなく、ラキエルは川辺に辿り着いたラグナの元へと向かった。
「この辺りに人里はないか、探してくる。シシリアを見ていてくれ」
水筒を川に沈め水を溜めていたラグナは、ラキエルの言葉に反応し振り返った。
「探すって、飛ぶ気か?」
「ああ。シシリアは限界だ。できるだけ早く、休める場所へ連れていきたい」
このまま闇雲に歩き回り町や村を探すよりは、翼で飛びながら探す方がいいだろう。ラキエルやラグナには天使の追っ手が放たれている可能性があり、空を飛べばその翼の魔力により見つかりやすくなる危険がある。それでも今は一刻を争うのだ。苦しむシシリアを横目に、これ以上悠長なことはしていられない。
「それはわかるが……あまり遠くには行くなよ」
「ああ。半時以内に戻る」
そう告げると、ラキエルはシシリアをラグナ付近の大きな岩の陰に入る場所にそっと横たえる。
置いていくことに一抹の不安を感じるものの、ラキエルは一歩後退すると背の翼を具現化させた。
人の気配はない。大地を蹴って飛びあがると、ラキエルは翼を大きく羽ばたかせて空へと舞い上がっていった。
残されたラグナは水筒を引き上げると、服の裾で水気を拭いとる。シシリアの傍に歩み寄り、片腕をシシリアの背に回し上半身を起こすと、水筒の口を唇に近づけた。
「シシリア、水飲めるか?」
シシリアは苦し気な表情のままうっすらと瞳を開く。熱のために潤んだ蒼穹の瞳が水筒を見つけると、小さく頷いて見せた。
水筒を傾ければ、弱々しく伸びたシシリアの腕が水筒の口を調整し、水を喉に流し込んでいく。
水を飲み終えると、シシリアはラグナを見上げて唇を開いた。
「ごめんなさい……こんなお荷物になるなんて……」
申し訳なさそうに告げるシシリアの背に自身の外套を脱いで敷き、再び横たえるとラグナは首を横に振った。
「気にするな」
「……自分のことも癒せないの……私」
シシリアはもどかしそうに己の手を見つめる。
たくさんの命を救ってきたシシリアが癒せなかったのは、悪魔と契約をしたローティアと自分自身だった。風邪や怪我を負ったときに、自身で癒そうとしたシシリアは力が発動しないことを知った。今ならば、それは己の命を削る力であったため、シシリア自身を癒せないのだと納得できる。
「神の恩寵は万能じゃない」
諭すようにラグナが言えば、シシリアは素直に頷いて見せた。
「そうね……ラグナはどんな恩寵を授かったの?」
「オレは……」
言いかけて、ラグナは口を閉ざした。
不思議に思ったシシリアの見つめた先、ラグナは笑みを浮かべていたものの、瞳はどこか悲しげに見えた。
「ラグナ?」
「秘密」
口元に人差し指を当てて不敵に笑うと、ラグナはシシリアに休むよう促す。
シシリアはそれ以上追求することはせずに、静かに瞳を閉ざした。
ラグナは川辺に戻り帽子を取ると冷えた川に沈める。水が染み込んだところで、伸縮性のある帽子を絞り、水気を切るとシシリアの元へと戻り額に帽子を当ててやった。
気休め程度だが、シシリアは冷たい感触に安堵したように口元を綻ばせた。
水の流れる清らかな音が風に交じりよく晴れ渡った雲のない空に吸い込まれていく。
静かな時間だった。
ラグナはラキエルの飛び立った先を見つめた。その姿は遥か彼方に消えており、肉眼では捉えることはできない。
ラグナはぐったりとした様子のシシリアに視線を戻した。
ラキエルやラグナと同じように神の恩寵を頂いた娘は、昏睡したように眠っているようだ。命を削り続けたことによりその命の灯は小さく今にも消えてしまいそう。
授かった能力を使ったが為に、運命に翻弄されることとなった哀れな娘だと思った。
ラキエルも力を使ったわけではないものの、その恩寵の為に命の危機を迎え、苦しみを背負い生きていかなくてはいけない。二人は異なるようでよく似ているとラグナは思った。ラキエルがシシリアを気に掛けるのも、自分の姿を重ねているのかもしれない。
そんな二人を、ラグナは運命の楔より解き放ってやりたいとさえ思った。神々の恩寵が招く災いから遠ざけ、心から笑って生きていけるような、そんな場所へ行ければいいと。
「夢物語だよな……」
独りごちに呟いて、ラグナはため息を吐いた。
己に降りかかる呪いですら持て余しているというのに、ラキエルやシシリアを救えるのだろうか。
そもそも、ラグナはラキエルやシシリアを利用するつもりでいた。目的を果たすための駒として。それが、どうしたことだろう。一緒に行動をするうちに情が移り、どうにかできる方法はないかなどと考えている己がいる。偽善にも似た感情の芽生えに、ラグナは自分自身を心の中で笑った。まるでお人よしだ。ディエルのお節介が移ったのだろうか。
ぼんやりと考え事をしていれば、ラグナの背後から人の忍び寄る気配がした。ラグナは構えなかった。その気配はラキエルのものだ。
「案外早かったな」
先に声をかけて振り返ったところで、ラグナは十字の杖を掴むと素早く立ち上がり構えた。
ラキエルが戻ってきたとばかり思って油断したラグナの視線の先には、見知らぬ青年がいた。内心驚きながら、ラグナは青年を観察する。
老人のように真っ白な髪をしているが、ラキエルと同じ程度の歳だろうか。黒曜石のようなやや切れ長の黒い瞳に警戒の色を浮かべ、ラグナやシシリアを交互に見やっている。右手は腰の長剣の柄を握り、いつでも臨戦態勢に入れる状態だ。帯剣しているのものの、騎士や兵士といった出で立ちではなく、かといって村人というにも当てはまらない。上等な生地の服を纏う、どこか高貴な雰囲気を纏った青年だった。
しかし、ラグナが驚いたのは、そのような青年が突如現れたことではなかった。
顔や背格好、気配に至るまで、青年はラキエルによく似ていたのだ。白髪を黒く塗りつぶしてみたならば、ラグナでさえ判別がつかないほどに。ぞっとするほどにラキエルと酷似した青年は、険しい表情でラグナを見据えていた。
「そこで何をしている」
抑揚のない声で青年が問いかける。
ラグナはラキエルの冗談かとも思い浮かべるが、ラキエルにそんな器用さがあるはずない。
「あんたは、誰だ?」
ラグナはシシリアを背に庇うようにして前に出ると、杖を構えて青年に問いかける。
「名を問うなら先に名乗るが道理だろう」
名乗るべきか一瞬迷うものの、天使ではないだろうと判断し、ラグナは素直に名を告げた。
「ラグナだ。あんたは?」
素直に名乗ったラグナに対し、青年は一呼吸の間を挟み答えた。
「……セイ。ここで何をしていた? 見たところ、旅人というわけでもなさそうだが」
旅をしているには何の支度もないラグナやシシリアに疑問を持ったのだろう。
セイと名乗った青年は瞳を細めて警戒の色を強める。
ラグナは取り繕っても無駄だと考え、セイが敵かどうかを考える。追っ手ならば、シシリアを見つけた時点で気付くはずだ。二人を全く知る様子のないセイが、敵対する可能性は低い。
「見ての通り、連れが熱を出して動けなくなったんだ。もう一人の連れが人里を探しているところだ」
セイは苦し気に昏睡しているシシリアを一瞥した。そして考え込むような仕草を見せると、剣の柄から手を離す。訳ありということは見て理解したのだろう。
「このような場所では熱も下がらん。事情は後で聞こう。ついてこい」
セイがそう言ったところで、高い空から羽音がした。
悪いタイミングで戻ってきたラキエルに心の中で舌打ちしつつ、ラグナは雲一つない空を仰いだ。
案の定、ラキエルと思わしき影が空からラグナとセイを伺っていた。見知らぬ青年に警戒しているのか、ラグナに何かを問いかけるような視線を向けている。
ラグナはどうするべきか悩んでいると、羽音に気付いたセイが空を見上げた。
ラキエルの赤い瞳に映るのは、白髪の青年の姿。
セイの漆黒の瞳に映り込んだのは、自分の姿と酷似した天使のような生き物の姿だった。
二人は無言のまま唖然とした様子で見つめ合う。
それもそうだろう。ラグナから見ても、二人は鏡に映したかのように似ているのだ。髪の色や瞳の色が異なるだけで、顔の造形や体格まで同じと言っても過言ではない。そのような存在が偶然出会った。二人の驚きと戸惑いは声に出さずとも知れた。
先に平静を取り戻したのはセイだった。
「……お前が、ラグナの連れか?」
セイは驚きを隠せないものの比較的落ち着いた様子で問う。ラキエルは翼を羽ばたかせて、ゆっくりと舞い降りた。
「そうだ」
一定の距離を保ち、ラキエルはシシリアとセイの間に立ちはだかるようにして地に足を付ける。
ラキエルから視線を外さなずにセイは更に問いかけた。
「お前は魔物か?」
「違う」
即答するも、ラキエルは自分の存在をどう説明すべきか悩む。天使であっても堕天した身である。素性を語るには時間が必要だ。しかし、今はシシリアを一刻も早く休める場所へ連れて行かねばならない。
どうすべきか悩むラキエルに、横から助け船が入った。
「セイ、信じられねぇかもしれないが、そいつは天使だ。故あって、追われている」
「天使だと?」
「ああ。ラキ、翼はしまえ」
ラグナに指摘され、ラキエルは無言のまま具現化させた魔力を解放し翼を背にしまいこむ。
その様子を見つめていたセイは、頭を抱えるようにして唸ると、意を決したように口を開いた。
「……ラグナ、一つ聞く。お前たちを追っているのはゼルス王の手の者か?」
ゼルス王。西の国を治める悪逆非道の王にして、シシリアを欲している存在。ドルミーレの村人を恐怖に陥れ、シシリアを差し出すよう仕向けた存在の名が出てきたことに、ラグナは訝しむ。
ゼルス王側の人間ならば、そのような聞き方はしないだろう。
一つの可能性を思い浮かべ、ラグナは答えた。
「そうだ」
「何故追われている?」
「それを話すと長くなる。今はシシリアを休ませてやりたい」
「……ならば、ついてくるがいい。悪いようにはしない」
そう言ってセイは踵を返し歩き出す。
ラキエルはシシリアを抱き上げると、ラグナにだけ聞こえるような声色で疑問を投げかけた。
「信じてもいいのか?」
「……さあな。ただ、敵ではなさそうだ」
心音や表情を注意深く見ていたラグナは、嘘を吐いてはいないだろうという結論をだす。
何よりも、今はシシリアを優先しなくてはいけない。足踏みをしていて、シシリアが手遅れになってしまうのは良くない。
「行くぞ」
不安げな表情をしたラキエルに白い歯を見せて笑いかけると、ラグナはセイの後に続いて歩きだす。ラキエルは奇妙なほど自分と酷似した青年に戸惑いを隠せず、晴れない気持ちのままラグナを追って一歩を踏み出した。
空はラキエルの憂鬱など知りもせずに清々しいほど晴れ渡っていた。
「お前に親戚なんていたのか?」
冗談めいた口調で、ラグナが問いかけてくる。ラキエルは小さくため息を吐いて見せた。
「いるわけないだろう。天使は、双子は生まれても、兄弟は生まれない」
天使は神の樹から生まれる。神の樹に天使の卵が実り、それが孵化すると生まれてくるのだ。稀に一つの卵に二つの魂が宿り、双子として生まれてくることもある。しかし、そういった特殊な例を除いて、天使に親や兄弟は存在しないのだ。
ラキエルも神の樹から生まれ落ちたが、双子の兄弟など聞いていない。
しかし、他人の空似というには、あまりにもセイはラキエルに似ていた。
前を行く白髪の青年に視線を向けながら、ラキエルは考えた。しかし答えなど出るはずもなく、思考は行き止まりにぶち当たる。
今はシシリアの大事を考え、セイに頼るほか道はなさそうだった。
「人里はあったのか?」
「いや……それらしいものはなかった。この先は渓谷だ」
セイの歩き進む道の先を見つめ、ラキエルは答えた。
「渓谷か……その先は?」
「見ていない」
「そうか」
頭をかき回しながら、ラグナは相槌を打つ。
ラグナも、セイがどこへ向かおうとしているのか見当がつかないのだろう。成り行きに身を任せるのは不安もあるが、今は信じるしかなさそうだ。
その後、セイはラグナ達が後ろをついてきていることを確認することもなく、注意深く辺りを警戒した様子で進んだ。
川沿いの道を辿り、半時ほど進んだところで辺りの景色は一変し、険しい岩肌が目立つようになった。
川は横幅を広げた先に、高い崖から激しく流れ落ちる滝が見えた。滝つぼを回り込むようにして進んだセイは、滝の前で立ち止まりラキエル達を振り返った。
「ここをくぐる」
飲み込まれれば浮かび上がることすら困難に思われる滝を指し、セイはこともなげに言い放つ。
「人が通れるようには見えないが」
「見かけだけだ。行くぞ」
セイは恐れる様子もなく、滝の打ち付ける岩壁に向かって歩き出す。激しい流れがセイを叩きのめしたかのように見えたが、それは錯覚だったのか。セイの姿は滝の流れの先に消えていった。岩壁にぶつかると思い込んでいたラキエルは、信じられない光景に驚く。しかし、間を置かず覚悟を決めたラグナがセイの後を追って滝に突っ込んでいった。やはり、ラグナの姿も打ち付ける滝と岩壁にぶつかることもなく、滝の先へと消えていく。
仕掛けがわからず戸惑いは消えないものの、ラキエルも意を決して一歩を踏み出した。
今は足踏みをしている場合ではない。
腕の中の確かな重みを確かめながら、ラキエルはシシリアに滝の水しぶきが当たらないよう覆いかぶさるようにして滝の中へと歩みを進めた。
水の叩きつける痛みを覚悟したが、一瞬だけラキエルの頭を濡らした滝はすぐさま途切れた。岩にぶつかると思い込んでいた先は暗い空間が広がっており、ひんやりとした空気に満ちていた。
「ここは……」
「滝の裏側は洞窟につながってたようだな」
先に入り込んでいたラグナが、落ち着いた様子で辺りを見回している。
洞窟は暗いが、視界が利かないほどではなかった。それは壁に松明のようなものが灯されているからだと気付くのに時間はかからなかった。
セイは壁に並ぶ松明を一本手に取ると、ラキエル達を振り返った。
「ついてこい。はぐれれば、その先は迷宮だ」
そう言って、暗く光のない洞窟の先を進んでいく。
ラキエルとラグナは互いに視線を交わすと頷き、静かにセイの後を追った。
洞窟の中は静かで、三人の足音だけが響いていた。灯りは先を歩くセイの持つ松明のみ。
湿った岩壁は冷たく、身震いするほどの寒さを感じた。滝の水が天井から伝い、雫となって静けさに満ちた洞窟に高い音を響かせる。
自然にできた鍾乳洞なのだろうか。
いびつな道は幾重にも枝分かれしていた。そのひとつひとつを迷いなく選び、セイは洞窟の奥へと進んでいく。やがて分岐がなくなり、一本の道を長く進んだ。その先に、岩壁を見つけたラキエルは、不思議そうにラグナを見やった。
「行き止まりか?」
「だな」
セイは岩壁に辿り着くと、ラキエル達を振り返った。
「お前、これを被れ」
ラキエルに己の纏っていたフード付きの外套を差し出す。
ラキエルはシシリアをラグナに託すと、素直に外套を受け取り羽織る。フードを目深に被ると、セイはそれでいいといったように頷き、岩壁に向き直った。
木の扉を叩くような感じで、セイは数度岩壁を拳で叩いた。
洞穴に沈黙が下りたのは一瞬のことで、どっしりと構えた岩壁が動き出した。横に転がるようにして岩が移動していく。人が一人通れるほどの隙間ができると、セイは臆することなく松明を掲げて進んだ。
その先に人の気配を感じたラキエルは警戒に身をこわばらせた。
「おかえりなさいませ、セイ様」
中年の男の低い声が、セイを出迎えた。
「ああ。問題なかったか?」
「はい、侵入者も特におりませんでした」
「そうか」
当然のように迎え入れる声に応えたセイは、やはり当たり前のように洞窟の奥へと進んでいく。
置いていかれてはいけないと思い、ラキエルもそのあとに続いて動く岩の横をすり抜ける。シシリアを抱きかかえたラグナも続き、全員が岩の向こう側に入り込んだ先に、武装した男が二人、驚いた様子でラキエル達を見ていた。
「セイ様、こちらの方々は?」
「理由は聞いていないが、ゼルスの手のものに追われているようだ。女が熱を出している、屋敷に受け入れる準備をと伝えてくれ」
「承知」
武装した男は恭しくセイに礼をすると、光が見える洞窟の先へと駆けていった。
残されたもう一人は、ラキエルの背後の巨大な岩と地面との隙間に太い木の棒を挟み、てこの原理を以って動かし始めた。ゆっくりと巨大な岩が洞穴の隙間を埋めるようにして閉じていく。
「ここは一体……」
まるで隠れ潜んでいるかの様子に、ラキエルは疑問を持つ。
しかし考える暇も与えず、セイが二人を呼んだ。
「来い。ここから先は安全だ」
セイは迷いない足取りで洞窟の先を進んでいく。
先ほど男が消えていった先からは光が差し込み、出口を知らしめる。湿った空気が遠のき、冷え切った空気に温かさが混じってくるとラキエルは安堵した。
暗い洞窟は天界の牢獄を連想させ、好きになれそうになかった。
セイの後ろについていけば、洞窟は途切れ、眩いばかりの陽の光が瞳を刺激する。暗がりから明るい場所へ出たことにより眩んだ瞳を一度閉ざし、ゆっくりと開く。視線の先には、人の集落がが広がっていた。
断崖絶壁の渓谷に囲まれた街だった。ドルミーレの村で見たような四角い箱のような、煉瓦を積み上げて建てた家々が所狭しと並んでいる。老若男女問わず多くの人々が通りを行き交い、セイの存在に気付いた若者が親しみを込めてセイを呼び、帰還を喜ぶような挨拶を繰り返した。
「セイ様! おかえりなさいませ」
「ご無事で何よりです」
「セイ様、外はいかがでしたの?」
多くの声にセイは短く返事をすると、急いでいるのだと言い、人々の合間をかき分けて進んでいく。その後姿を見失わないように、ラキエルは小走りについていく。ラグナはシシリアを抱きかかえなおしてそれに続く。
街の通りは活気にあふれ、すれ違う人々は皆明るかった。人種が違うのか、肌や髪の色、目の色が異なる人々が入り混じっているようだ。それでも分け隔てなく接しているようで、冷たい空気を感じることはなかった。
最初に立ち寄った村やドルミーレの陰鬱とした雰囲気を思い出しながら、この違いは何だろうかと考える。
セイは若いながらも人々に慕われているのだろう。
白髪の青年を見つけた人々は、明るい笑顔で帰還を喜び出迎えていた。
真っ直ぐに石で舗装された街の大通りをしばらく進むと、四角い箱の家が途切れた先に大きな屋敷が建っていた。青い三角屋根に白く塗られた壁が特徴的な屋敷であった。屋敷の門には武装した男が二人立っており、セイを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。
「おお! 坊ちゃまおかえりなさいませ!」
「ああ、変わりないか?」
「はい! お母様がそりゃあ心配されてましたよ。早く無事な姿を見せてくだされ」
筋骨たくましい男は、白い歯を見せて笑いながらセイを温かく迎え入れると、後ろからついてきたラキエルとラグナに視線を向けた。
「して、こちらの方々は?」
「ゼルス王に追われている者らしい。女が熱を出している」
「そりゃあ大変で! テトが大慌てで帰ってきたのはそういうことでしたか」
「ああ。ひとまず客室に運ぶ」
冷静に状況を伝えると、門番は扉を開き、セイたちを招き入れた。
ようやく休める場所へたどり着けたことに、ラキエルもラグナも安堵する。シシリアは相変わらずぐったりとしたまま、その肌は燃えているかのように熱を持っていた。
屋敷へ一歩踏み入れば、軽い足音を立てて女性が一人、小走りにセイへ駆け寄ってくる。
「セイ、おかえりなさい。病人がいると聞いたわ」
浅葱色のドレスを纏う熟年の女性が問いかければ、セイは静かに頷き、背後のシシリアに視線を向けた。
「母上、戻りました。この者達の連れが高熱で意識がないらしい」
「まぁ、大変! すぐに客室へ。お医者様はお呼びしているわ」
セイの母だという女性はドレスの裾を翻して屋敷の奥へ招くように廊下を進む。ラキエルとラグナは互いに視線を交わすと、それに続いて歩き出した。
よく磨かれた木の廊下の先にある部屋へと案内されれば、女性はシシリアを寝台へ寝かすように言う。素直に従い、意識のないまま眠り続けているシシリアを寝台に横たえると、ラキエルとラグナは心の中で安堵した。
「酷い熱ね」
シシリアの容態を確かめながら、女性は寝台横の棚に置かれた桶の水に手ぬぐいを沈め、取り出すと軽く絞りシシリアの額に当ててやる。
「昨日までは何ともなかった……今朝突然熱が出たてたんだ」
「そう……とにかく移ると良くないわ。セイ、この方々にお茶でも出して差し上げなさい」
「わかりました。聞きたいこともあるだろう? ここは母上に任せて問題ない」
そういってセイは部屋をいち早く出ていった。
ラグナはこくりと頷くとその後を追う。ラキエルは昏々と眠るシシリアに心配そうな視線を向けた。部屋を出ていかないラキエルに気付いた女性は、柔らかく微笑んだ。
「心配ないわ。貴方も行きなさい」
「……ああ。よろしく頼む」
女性に深々と頭を下げてから、ラキエルは部屋を離れた。
廊下で待っていたセイとラグナに追いつけば、セイは元来た廊下を戻り、屋敷の入り口近くの扉を押し開きラキエル達を招き入れた。
「好きに座ってくれていい」
促されるまま通された広い部屋の中、長いテーブルと椅子が並ぶ場所へ近づき、木の椅子を引いて座ったのはラグナだった。
「で、色々と聞きたいことがあるんだけど」
ラキエルが部屋へ入ったところで、セイは部屋の扉を閉じて振り返った。
「だろうな。その前に一つ確認したい」
「どうぞ」
「お前達は何故ゼルス王に追われた?」
腕を組み、鋭い眼差しで問いかけてくる。
ラグナは鳶色の髪を掻きながら面倒くさそうにため息を吐いた。
「話せば長くなるし、俺たちの秘密を明かすことにもなる。他言無用、守れるか?」
「ああ」
セイは静かに頷くと、ラグナの向かいの椅子を引いて座った。ラキエルはラグナの後ろの壁に背を預けフードを下ろす。ラグナは声を抑えて話し出した。
「シシリアはドルミーレの村の者だ。命の巫女と呼ばれていたそうだ」
「命の巫女……噂は聞いたことがある。どんな病も怪我もたちどころに癒す奇跡の力を持つ聖女がいると」
「ああ。それなら話が早い。シシリアはその力を欲したゼルスに城に上がるよう命が下った。それを聞かないでいたら、村人が王の力を恐れて差し出そうとしたわけだ。そんで一悶着あって逃げてきたところだ」
大まかな事実を述べれば、セイは不思議そうにラキエルとラグナを見やった。
「その話にお前たちは関係ないのか?」
「無関係ってわけじゃない。巻き込まれたって言った方が正しいか……」
「なるほど。天使だといったな、それは翼をもつ種族ということか?」
初めて見る天使に戸惑いがあるのだろう。セイは観察するようにラキエルを見た。姿かたちは人と変わらない。その瞳の色はあまり見ない類のものだが、種族固有のものなのだろうか。
「まぁ、その認識で間違ってない。住んでる場所も人間とは違う場所だから、驚くのも無理はない」
「そうか……。この世界はまだまだ未知のものが多いな……」
頭を抱えるようにしてセイはため息を吐くと、漆黒の瞳でラグナを見やった。
「そちらも聞きたいことが多いだろう。まず、ここはどこで、私は誰かというところか?」
「そうだな、それを聞かせてもらいたい」
人里から離れ、隠れるようにして暮らしている街。その中で人望を持つセイは、いったい何者なのか。何故、ゼルス王に属さないものを匿うのか。浮かぶ疑問について、セイは隠す様子もなく語りだした。
「ここはゼルス王に追われた者たちの最期の居場所。渓谷の街だ。私は領主の息子セイ・セーレスティリア」
その言葉を聞いて、ラグナは瞳を細めた。
「なるほど、それでゼルスに追われたものや敵対してるものを匿ってくれるってわけか」
「そうだ。ここはゼルスに対抗する勢力の砦でもある」
「だから武装した兵がいたのか」
門番が武装していたのも頷ける。
セイは顔の前で手を組むと、静かに告げた。
「今は小さな灯に過ぎないのかもしれない。だが、希望の灯を絶やしてはいけない……闇のようなこの国に必要なのは、闇を照らす月だ」
権力を笠に悪逆非道の行いを働く狂王に裁きを下さねばならない。セイの力強い漆黒の瞳は無言にそう語っていた。
「ドルミーレから来たといったな。昨夜、ドルミーレの村の方角から爆発音が聞こえた。それで調査を兼ねて私が森へ様子を見に来ていたが……あれとお前たちは関係があるのか?」
ローティアが最後の力を振り絞って塔ごと自爆した瞬間を思い出し、ラキエルは視線を落とした。シシリアの嘆きが今でも浮かぶ。そのショックで熱を出したのかもしれない。
「ああ。シシリアの弟が塔と一緒に自爆したんだ……シシリアを逃がすために」
「気の毒な話だな……。だが、なぜ逃げる必要があった? 大人しくゼルスの命に従い病を癒していれば良かったのでは?」
疑問の声に対し、ラグナは軽く首を横に振った。
「無理だ。シシリアは今までたくさんの人を癒したが、もう限界だ。これ以上その力を使えば、シシリアは死ぬ」
限りある命お限界点。シシリアは人を癒す能力を失ったも同然だ。次に誰かを癒すとき、それはシシリアの命と引き換えになるだろう。
「なぜ?」
「人を癒せば癒すほど、シシリアの命は削れていった。力は無限じゃなかったってことさ」
「そういうことか……」
納得したように、セイは頷く。
「では、別の質問だ。ラキエルと言ったな。なぜお前は私の姿をしている?」
黒曜石のように深い漆黒の瞳が、まっすぐにラキエルを見据える。
ラキエルは深紅の瞳をセイから逸らさずに答えた。
「知らない。生憎人間の兄弟などいない」
「偶然だというのか……?」
血のつながりもなく、これまで関りも一切ない異邦の者とこうまで姿が似るものだろうか。
奇妙な薄気味悪さを感じながら、ラキエルはセイを観察した。
顔立ちや背格好はラキエルを鏡に映したかのよう。しかし、その色彩は反転させたかのように異なる。雪のように混じり気のない白髪は、かつて天界に君臨した白き天使に似ていなくもない。
「アルヴェリア……?」
知れず口からこぼれた名前に、ラキエルは困惑した。
アルヴェリアの姿はラグナが魔術により見せてくれたので知っている。ラキエルやセイとは似ても似つかない。それに、天使を知らないセイがアルヴェリアを知っているはずない。
「誰だ、それは?」
セイに問われラキエルは視線を外して首を横に振った。
「忘れてくれ。気のせいだ」
引っかかる物言いに、セイは何か言いたげに口を開いたが、小さなため息を吐いて形の良い唇は閉ざされる。
部屋に沈黙が下りたのは僅かな時間のことで、頭を切り替えたセイはラグナに視線を戻した。
「お前たちの目的地は?」
「んー、強いて言えば安全な場所か」
ローティアの最後の願いは、シシリアを誰も知らない地へ届けてくれというものだった。その願いくらいは叶えてやりたいとラキエルは思う。
「ゼルスの統治する国にそれはないだろうな。ここも、安全とは言い難い」
「だろうな」
ゼルスと敵対する勢力である以上、いつ襲撃があるかも定かではない。また、ドルミーレの村に近いため、シシリアを知る者がいる可能性もある。
セイは少しばかり考えてから、ラキエル達に告げた。
「シシリアといったな。彼女の熱が下がるまでは滞在を許可しよう」
「恩に着る。見返りっても大したことはできないが、手伝えることがあれば遠慮なく使ってくれ、ラキを」
殊勝なことを言うものだと感心したつかの間、指をさされたラキエルはラグナを恨めしそうに見下ろした。
「ありがたい申し出だが、それには及ばない。ラキといったな、お前は屋敷から出ないでもらいたい。……混乱を招く」
天使という得体のしれない種族であること、そしてセイに似すぎていること。その二つの要因を考えれば、仕方がないだろう。
ラキエルは静かに頷いた。
「わかった。これは返せばいいか?」
借りていたフードのある外套を差し出せば、セイは首を横に振った。
「いや、持っていてくれ。ここから出るときにも必要だろう」
「オレは屋敷から出てもいいのか?」
天使という素性を知られていないラグナが問いかけると、セイは頷いた。
「お前は構わない……他に、聞きたいことは?」
ラキエルは少しだけ考えてから、首を横に振った。それを横目に確認したラグナが言い返す。
「いや、特にはないな」
ラグナの返事を聞いたセイは、相槌を打つと、静かに椅子を引いて立ち上がった。
「一階の部屋は好きに使ってくれて構わない。客室については、後程案内させよう。私は雑務があるのでこれで失礼する」
そう言って、セイは入ってきた扉から出ていく。
木製の扉が軋んだ音を立てて閉じると、ラキエルは小さく息を吐いて組んでいた腕をほどいた。
「とりあえず、シシリアが元気になるまでは厄介になる感じか」
腕を伸ばして大きな欠伸をしながら、ラグナが言う。
「その後のことは、シシリアと相談だな」
国の情勢や事情については、ラキエルやラグナよりも、シシリアの方がわかっているはずだ。亡命するにしても、どこへ向かうべきか相談する必要があるだろう。
「そうだな……」
「それにしても反勢力ね……悪いことが起きなきゃいいが」
セイの消えていった扉の方を見つめながらラグナがぼやく。
そんなラグナの後ろ頭を見つめ、ラキエルは先ほどセイの言った言葉を思い出していた。
先ほどの闇を照らす月という言葉を聞いて思い浮かべたのは、ラグナとサリエルだった。月に由来ある二人ではあるが、闇を払う希望の灯のような存在にも似ている。絶望の淵にいたラキエルを救い出してくれた者。感謝をしてもしきれないけれど。
「なんだよ、何か言いたいことでもあんのか?」
振り返ったラグナがラキエルの視線に気づきガラの悪い聞き方をしてくるも、ラキエルは視線を外してかぶりを振った。
「別に」
ラグナは不満そうに口をへの字に曲げたが、それ以上追求してくることはなかった。