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紅き天使の黙示録

第三章 -15- 安らぎの意味

 渓谷の街に滞在を許可されたラキエル達は、セイの館でしばらく過ごすこととなった。高熱にうなされていたシシリアは、太陽と月が二度落ちても目覚める様子を見せなかった。ラグナは情報を仕入れると言い、朝早くに街へと繰り出していき、月が高く上る頃に戻ってきていた。外出を禁じられているラキエルはすることもないので、シシリアの看病を続けていた。熱は次第に引いていったものの、シシリアは未だ目覚めずにいる。

 三度目の太陽が昇り始めた朝早く、ラキエルはシシリアの部屋を訪れた。

 木の扉を拳の裏で数回叩くも、返事はない。

「シシリア、入るぞ」

 断りを入れつつ扉を押し開けば、金の髪の乙女が寝台に横たわっていた。

 その空色の瞳は閉ざされたままだ。

 ラキエルは寝台に近づき、シシリアの額に手を当てた。熱はすっかり引いたようで、熱さは感じなかった。安堵した束の間、シシリアの熱を確かめたラキエルの手にひんやりとした感触が触れた。

「……ローティア?」

 シシリアがうわ言の様に呟く。ラキエルは手を引こうとしたが、シシリアは縋るようにラキエルの指先を捉えた。

 ゆっくりと空を閉じ込めたように青い瞳が開かれる。視線は天井を彷徨った後、動けずにいるラキエルを見つけた。

「ラキエル……ごめんなさい」

 ラキエルの手を捕まえていた柔らかな感触はするりと解かれた。

「ここは……?」

 見覚えのない部屋を見渡し、シシリアが問いかける。

「渓谷の街という場所らしい」

「そう……初めて聞く場所ね」

 シシリアも知らない街のようだ。隠れるように渓谷に囲まれているので無理もない。

 シシリアはゆっくりと背を起こそうとするが、寝起きの体に力が入らずよろける。見かねたラキエルが腕で支えて起こした。

「ありがとう」

「熱は引いたみたいだな。三日も眠っていた」

「そんなに……迷惑をかけてしまってごめんなさい」

 申し訳なさそうに俯くシシリアに、ラキエルはなんと答えるべきか少しだけ悩む。

 弟やミーナを亡くしたばかりで辛いのはシシリアの方なのだ。それでもラキエルを気遣うシシリアの様子に胸が痛んだ。

「シシリアは命の恩人だ。これくらい問題ない」

「ありがとう……」

 寝起きでぼんやりとしていた思考が次第にはっきりすると、シシリアは悲し気に眉根を寄せた。

「これから、どうすればいいのかな……」

 毛布を握りしめた手元に視線を落としたまま、シシリアは独り言ちに呟く。

 ラキエルやラグナと同じように追われる立場となってしまったシシリア。この国にいては危険だということくらいはわかっているだろうが、かといってドルミーレの村からほとんど出たことのないシシリアに行く当てもない。こみ上げる不安を隠しきれずこぼれた言葉に、ラキエルはまた胸の痛みを感じた。

「ここの領主が滞在を許可してくれている。今は心身を休めるんだ……」

「……ええ。そうね。でも、私がいるとここも安全じゃなくなるかもしれない」

 ローティアはゼルス王の使者を殺してしまった。使者が戻らなければ王はドルミーレの村を焼くかもしれない。故郷のことを想い、シシリアは苦し気に呟いた。

「ここは入り口も隠されてる。そう簡単には見つからない」

「でも、迷惑はかけられない。……ラキエル、私をゼルス王のもとに連れて行って」

 思いつめたシシリアの言葉に、ラキエルは驚いた。

 せっかくローティアやミーナが繋いでくれた命を、差し出すというのか。シシリアを差し出そうとした村のために、彼女は自ら犠牲になるというのか。短い間ではあるが、シシリアという人間がどれほど心優しく善良であるかはラキエルもわかっている。しかし、彼女の願いを聞き入れる気にはならなかった。

「それはできない。……ローティアの最後の願いくらいは、叶えてやってくれ」

 ローティアはシシリアに、自由に生きていてほしかったのだ。命を削り、死を迎える未来など望んでいなかった。

 ラキエルの言葉に、シシリアは悲し気に俯いた。胸の内ではわかっているのだ。生きなければいけないと。ローティアやミーナが繋いでくれた命を、無碍にしてはいけないと。それでも、誰かの重荷になるのは許せなかった。

「でも、私が行かなければドルミーレの村も無事じゃすまない。それに……この街の人や貴方たちをこれ以上巻き込むわけにはいかない」

 シシリアは善良だ。しかし、その優しさ故に自身を犠牲にしてしまう。ラキエルは彼女の言い分に既視感を覚えた。

 そう、天界で裁かれるはずだったラキエルも、自暴自棄になり天界の為、神の意志だというのならば命を差し出すことも仕方がないと思っていた。滅びの女神の呪いがすべてを終焉に導くというのならば、災厄が訪れる前に死を受け入れるべきだと。シシリアはかつてのラキエルと同じだ。

 それでも、ラキエルはシシリアが死んでいい人間だとは思えなかった。

 ラグナが自由を望んだように、ラキエルが生を望んだように、シシリアにも生きてほしい。なぜそう思うのか、ラキエル自身説明のつかない感情だった。

 恩人だから。善良だから。違う。それだけではない。彼女はラキエルの滅びの呪いを責めなかった。家族を失い辛い状況でありながら、ラキエルを憐れんだ。ラキエルにはそれが驚きであり、感じたことのない安らぎだった。

「そうだとしても、俺は君に生きてほしい……」

 これはローティアとミーナの願いではない。ラキエルの願いだった。

「どうして……?」

 黒髪の合間から真っ直ぐに見つめてくる深紅の瞳を、シシリアは戸惑いながら見つめ返した。ラキエルはうまく理由を説明できず、口を閉ざし視線を外した。

 シシリアは思い悩むようにまつ毛を伏せる。

 沈黙が流れたのは一瞬で、突然扉が勢いよく開かれた。

「シシリア目覚めたかー?」

 溌溂とした声で問いかけてきた突然の訪問者のラグナを振り返り、ラキエルは深く息を吐いた。

「病人の部屋に入るときは静かにしろ」

 呆れ半分シシリアの追求から逃れられた安心半分の複雑な心境で、ラキエルは静かに言う。

「固いこと言うなよ。シシリア、調子は?」

 半身を起こしているシシリアを見つけたラグナは、勢いよく扉を閉めるとずかずかと部屋に入り込み、シシリアを挟んでラキエルとは反対の窓側に移動した。

「お陰様で、もう大丈夫」

「そうか。じゃ、今後のことを決めようぜ」

「今後?」

「そ、今後。ゼルス王のところに行くってのは無しな。連れてったが最後オレたちごと処刑されそうだ」

 やれやれとでもいうように、ラグナは大げさにため息をつき頭を振る。

「でも、これ以上迷惑は……」

「迷惑なんざどうでもいいの。神の恩寵を授かった者同士、仲良くしようぜ」

 シシリアの言葉を遮りそう言うと、ラグナは片目を瞑り白い歯を見せて笑った。

「な、ラキ!」

 軽快に喋るラグナに、肩をすくめつつラキエルも頷いた。

「……ああ。何も気に病むことはない」

「まーラキは滅びの女神の恩寵だから、一緒にいたくねーって気持ちはわからんでもないけどな」

 自分で言って納得するように、何度も頷いて見せる。ラキエルは非難の視線をラグナに向けた。

「でも神の恩寵は同じように恩寵を受けた奴に干渉しないから大丈夫。安心しな、オレが保証する」

 滅びの女神の呪いが月の女神の恩寵を持つラグナを滅ぼせないように、大地母神の恩寵を授かったシシリアに害をなすことはない。

 明朗とした声で言い切り、ラグナは無邪気に笑う。

「そんなわけで大事なのはこれからだ」

 戸惑いを隠しきれないシシリアを余所に、ラグナは寝台の横にあった丸椅子に腰を下ろした。

 手にしていた丸めた羊皮紙を開くと、寝台の上に広げだす。

「行先についてだが、オレ達に当てはない。だが、ゼルスの手の届かないところに行った方がよさそうだな。渓谷の街で情報を集めてみたが、ゼルス王に対抗する勢力の国で比較的安全なのが南の方らしい。ひとまずはそこを目的地と考えてる」

 指で地図をなぞり南を示す。

「でだ、旅の目的についても話しておく。オレたちはアルヴェリアという天使を探してる」

「そうなのか?」

 初めて聞いたような顔でラキエルが問い返すと、ラグナは心外だとでも言いたげに眉根を寄せた。

「落ちてくる時に言っただろうが。アルヴェリアってのはオレ達と同じ神の恩寵を授かった天使だ。故あって堕天して地上のどこかにいる。そいつを見つけ出して、仲間に引き入れる」

「……アルヴェリアは話が通じるのか?」

「さーてね。話してみないとわかんねー」

 あっけらかんと言ってのける。

 事情を呑み込み切れていないシシリアは、ラグナの話を聞きながら小首を傾げた。

「仲間に引き入れられたとして……その後はどうするの?」

「神々の恩寵連盟でも作るかな」

「なんだそれ」

 何か計画があるかと思いきや、思い付きで話していそうなラグナにラキエルは呆れた。

「オレ達は誰にも利用されねぇし、権力にも従わねぇ。自由に生きるんだ」

 ラグナの持つ恩寵の力は未知数だが、ラキエルやシシリアが自由に生きるためには障害が多い。力がなければ、夢を語ることも自由に生きることも難しい。

「アルヴェリアは恩寵持ちの中じゃ飛びぬけて力が強い。仲間にできれば百人力だ。だから、仲間に引き入れる」

「目的はわかったが、当てはあるのか?」

 地上界は広い。大陸を横断するだけでも膨大な時間が必要だ。当てもなく人探しをするのは、砂漠の砂をかき分けることにも等しい。

「最近地上じゃ天変地異が起きてるらしいぜ。人知を超えてそんな真似ができるの、アルヴェリア以外に思いつかねぇ。そういった情報を辿っていけば、見つけられるはずだ」

「天変地異……?」

 心当たりでもあったのか、シシリアが口をはさむ。

「何か知ってるか?」

「……そのアルヴェリアが関与しているかはわからないけど、ドルミーレの村に立ち寄っていた商人から聞いたことがあるの。南の砂漠で地震や地割れが起きて、かと思えば何日も続く豪雨で小さな街が水に沈んでしまったって」

 地震などあまり経験したことのないシシリアにとって、にわかに信じがたい話ではあった。噂に尾びれがついて大げさに話しているのかもしれないと、聞いたときは思ったものだ。しかし、ラグナのいう天変地異を故意に起こせる者がいるのだとすれば、ありえない話ではないのかもしれない。

「へぇ、興味深いな」

「聞いたのはずいぶん前のことだから、もうそこにはいないかもしれないけれど……」

「いや、何かしら手がかりがあるかもしれない」

 手にした地図を睨みつけながらラグナは考え込む。

「まずは南の国で情報を集めるか」

 地図の南側を指さし、ラグナは同意を得るようにラキエルとシシリアを交互に見やる。ラキエルは異論もないので頷いた。

「南の森と山脈を越えた先にヴァーナという砂礫の国があるらしいわ。燃えるような砂の大地だと聞いたことがある」

 ラグナの指し示す地図を見つめながら、シシリアが告げる。

「善は急げだ。支度を整えたら出発するぞ。シシリア、行けるか?」

「ええ……でも……」

 熱が下がったとはいえ、まだ本調子ではないのだろう。シシリアは歯切れ悪く返事をする。ラキエルは今すぐにでも支度をはじめろと言わんばかりのラグナの肩をたたいた。

「病み上がりだ。調子が戻るまで待て」

「そんな事はわかってるんだけどな……」

 ラグナは小さくため息をつくと、窓の外に視線を向けた。

「嫌な予感がする」

 小さな声が告げた不吉な言葉に、ラキエルは眉根を寄せた。

 ゼルス王に追われているのは重々承知している。だが、隠された人里だ。辿ってきた洞窟の複雑さを鑑みても、そう簡単に見つかるとは思えない。それにこの街に追手が来たとしても、ラキエル達には翼がある。

「ゼルス王の追手が来たとしても、飛んで逃げることもできる」

 例え千人の兵が来ようとも、地に足を付けなければいけない人間を巻くなど容易いはずだ。

「それは最終手段な。できるだけ、人に紛れて移動するんだ」

「ああ、わかってる」

 悪目立ちするのは得策ではない。追手が増えかねない事態は避けるべきだ。

「明日だ。明日の夜に出発する。異論無いな?」

 ラキエルとシシリアを交互に見やり問いかける。ラキエルが応えるより早く、意を決したようにシシリアが頷いた。

「ええ。行けるわ」

「決まりな! 身支度整えとけよ」

 椅子から立ち上がったラグナは踵を返しひらりと手を振りながら部屋を出て行った。

 嵐のように訪れたかと思えば、一方的に喋り決めてどこかへ行ってしまう。

「……騒々しい奴だな」

 振り回されるのも今に始まったわけではない。いちいち驚くのも馬鹿馬鹿しく思え、ラキエルは小さく息を吐くにとどめた。

「二人は仲が良いのね」

 ラグナを見送って手を振っていたシシリアが唐突に呟いた。

「確認しなくても、ちゃんと意思が伝わってるみたい」

「ラグナは何でも勝手に決めるし、反論しても無駄だからな……」

 呆れたように言うと、シシリアは少しだけ笑顔を見せた。

「ふふ、そうみたいね」

 正直ラグナに口で勝てる気はしない。どうせ勝手に決めて引っ張っていかれるのだ。しかし、それを不快と感じないのは何故だろうか。

 ラキエルはラキエルなりに自分で決断し歩んできたつもりだ。それがラグナと出会ってからはどうだろう。彼の口車に乗せられ堕天の道を歩み、見知らぬ地上を旅するなど予測できただろうか。ラグナに力でねじ伏せられたわけでもない。ただ、彼の望む道を選ぶよう誘導されている。そんな気がした。

「ねぇ、ラキエル。貴方達のことを教えて」

 シシリアは何かを思ったのか、唐突に訪ねてくる。

「俺達のこと? 天使のことか?」

「ええ。翼ある人なんて物語の世界の存在だと思ってた。どんな場所で、どんな暮らしをしていたのか知りたいの」

 塔を出てからシシリアは曇った顔をしていた。ローティアやミーナのことが頭から離れないのだろう。そんな彼女が穏やかに問いかけてきたのを見て、ラキエルは心の中で安堵する。悲しみが消えるには時間がかかるかもしれないが、気を紛らわせることくらいはラキエルにもできそうだった。

 それからしばらく、シシリアの疑問に答える形でラキエルは語った。

 天使の世界。天使は天界にある神の樹に実る卵から孵化する。人間のように女の腹から生まれて来るわけではない。翼は物理的なものではなく、魔力の断片であり、普段は背の中にしまうことができる。食べることはできるが、基本的に食事の必要は無い。天使は人の世界とは違う空間で生きている。神のもと人の世界を見守り、自然の均衡を保つのが役目であること。法力と呼ばれる力を持ち、様々な法術や魔術を扱えること。人と違うであろう部分をつまんでラキエルは話した。シシリアは興味深そうに相槌を打ちながら聞き入った。時折シシリアが疑問を投げかければ、ラキエルはわかる範囲で答えた。

「この世界とは随分違うのね」

「そうだな。俺も地上にきて随分驚いた。住まう場所、生活、人との関わり……何もかもが違う」

 成行きのまま地上へ降りてきたが、ラキエルにとってはすべてが新鮮で新たな発見と気付きの毎日だった。閉鎖され陰鬱に過ごしていた天界での日常を思えば、今は身軽だと感じる。すべてが開放的で、自由だった。そこまで思い至り、ラキエルはラグナの言う自由の尊さに初めて気づく。ラキエルもラグナも神々の恩寵によって立場と待遇こそ違えど、自由などなかった。ただ毎日息苦しく、生きにくさばかりを感じていた。しがらみ全て捨て去ることは容易ではなかったが、ラキエルにとって今こそ生きている実感がある。まるで檻から放たれかのような開放感があるのだ。

「知らないなりに不自由はあるが、地上は悪い所じゃないな」

 同じ生き物同士で争いあったりと不可解な部分はあるものの、ラキエルが見てきた人間は前を向いて生きている者ばかりだった。

 シシリアをゼルス王に差し出そうとしたドルミーレの村人も、生きるために仕方がなかったのかもしれない。手段こそ褒められたものではないが、自身の保身と家族のためを思えばやむを得なかったのかもしれない。

「ラキエルにはそう見えるのね」

「……悪い。その、シシリアにとっては良い場所ではなかったな」

「ううん、いいの。私も……ローティアとミーナも、三人で暮らしていた日々は確かに幸せだった」

 陽だまりの中、テラスでお茶を楽しむ三人の姿が思い浮かび、ラキエルの胸は痛んだ。仲の良い家族だった。血の繋がりがなくとも、三人は確かに家族であり、姉弟であり、掛け替えのない友人だった。

「きっと神々の恩寵は人にも天使にも重い枷となるのね。それさえなければ、もっとずっと楽に生きられたのかもしれない」

 ラキエルも、ラグナも、シシリアも。恩寵に翻弄されなければ、それぞれ自由に生きられた。

「シシリア……」

 恩寵の存在を知り、大切なものを失い、絶望だけが広がる未来。彼女の今の状況は投獄されたラキエルと似ているのかもしれない。希望が見つけられず、無慈悲な現実に打ちのめされ、過去を振り返ることだけが唯一の救い。

 今のシシリアにかける言葉を見つけられず、ラキエルは視線を落とした。

 ほんの数秒、沈黙が部屋に満ちる。

 シシリアは俯くラキエルの前髪に隠された額を見つめた。そこにある痣のような紋を思い浮かべる。シシリアの肩にもあるそれは、災厄をもたすものだったのかもしれない。ここ数日の悲劇を思い返せば、嘆きたくもなる。

 しかし恩寵は本当に呪いだけを与えるのだろうか。違和感を覚え、シシリアは考えた。

 シシリアにとって恩寵は悪いことばかりではなかった。多くの人を救えた。命を繋げられた。それは無駄なことではなかったはずだ。

「……大地母神の恩寵のおかげで、私はラキエルとラグナを助けられた。そして、二人に助けてもらった。きっとそれは、悪いことじゃない」

 シシリアの穏やかな声が紡いだ言葉は、ラキエルを驚かせるに十分だった。弾かれたようにシシリアに視線を戻したラキエルにそっと微笑みかけて、シシリアは続ける。

「お互い良いことは少なかったかもしれない。でも、私たちは助け合って今生きている……それは悪いことじゃないと思うの」

 シシリアなりに過去を振り返っての言葉だった。大地母神の恩寵とシシリアの選び取った生き様。ローティアとミーナを失った現実は辛く悲しく取り返しのつかない悲劇だった。けれど、シシリアは一つだけ気づいた。恩寵がもたらしたのは本当に悲しみだけだっただろうかと。救った人々の笑顔と感謝の涙。それは嘘偽りのない事実だった。善人も悪人もいた。それでも皆、シシリアの力で病や怪我が治ったときに子供の様に喜び感謝した。その無垢な気持ちは本物だった。

「ラキエル……あなたが思い出させてくれた。私、悲しいことばかりじゃなかった」

「そうか」

「ローティアやミーナが私を助けてくれたように、私は……今度は貴方達二人を助けたい」

 穏やかに優しく目を細めて、シシリアは言った。

「それが私の……生きる糧になる気がするの」

 絶望に生きるよりは、誰かの役に立ちたい。幼い頃から変わらぬシシリアの信条だった。

「シシリア……一緒にきてくれるのか?」

 絶望に生きるのは辛い。これは言い訳をしているだけなのかもしれない。シシリア自身疑問をすべて消せるわけではないが、それでも前を向いて生きなければいけない。悲しみを乗り越えてきたであろうラキエルやラグナを見て、そう感じたのだ。そして、ローティアとミーナが託してくれた命の尊さを思い出す。そう、投げ出していいものではない。たとえそれが、茨の道だとしても。生きることこそが、ローティアとミーナへの餞なのだ。

「ええ。恩寵が引き合わせてくれたご縁ですもの。私は、ローティアとミーナが繋いでくれた命を生きる……それが二人へのせめてもの弔いになるなら」

「ああ……。これからは、自由に生きるんだ」

 それはラキエルが己へと宛てた言葉であり、シシリアへ向けた言葉だった。

 シシリアは静かに頷いた。そして右手をそっとラキエルへと向けて差し出した。

「これからよろしくね、ラキエル」

 差し出された手とシシリアを交互に見やり、ラキエルはどうすべきか迷いながら言葉を吐き出す。

「よろしく、シシリア」

 差し出した手を握り返してこないラキエルにシシリアは察する。

「ふふ、こういう時人間は握手するものなの」

「握手?」

「そう、こんな風に」

 手持無沙汰に立っているラキエルの右手を緩やかに引っ張り、包み込むようにして握る。

 シシリアの手は柔らかく温かかった。強く握れば砕け散ってしまいそうな儚さがある。それでも、その手は優しさと慈愛に満ちていて、心地よく感じた。まるで安らぎのような温かさ。天界で暇を見つけては気を紛らわせるため剣ばかり握っていたラキエルの無骨な手とは違うか細い手だけれど、心強く思えた。

「挨拶とか約束とか、そんなときに人間は握手するの」

「そうなのか」

 ラキエルは戸惑いながらも、シシリアの華奢な手を握り返す。シシリアは嬉しそうに笑顔を見せた。塔を出てから、初めて見せた笑顔だった。

◆◇◆◇◆

 渓谷の街を足早に駆け抜ける衛兵が、セイの元へ凶報を届けたのは陽が高く上り切った正午だった。

「セイ様、見張りの者がゼルス王の軍を見つけたそうです。数にして三千ほどの兵かと……滝の入り口から半日ほどの東の森で野営していたそうで……」

「……見つかるのも時間の問題だな」

 書類に目を通していたセイは、卓上から視線を上げ、部屋に入ってきた衛兵に答えた。

「慌てず、手筈通りに民に逃げる準備をするよう伝えよ。戦える者を集め、滝の入り口の防備を固める。指揮は私がとる」

 迷いのない口調で言い切り、セイは立ち上がった。

「西の見張りはそのまま、東と北の見張りと衛兵は集結させよ。民に荷物は置いていくよう指示するのだ」

 衛兵はセイの言葉に大きく返事をすると、入ってきた時と同じように足早に館を出て行った。セイの部屋の護衛をしていた衛兵もセイへ敬礼をして後に続く。ばたばたと喧騒が去ると、開け放たれたままの扉に背を預けていた人物が、軽快な口笛を吹いた。

「準備良いじゃん」

 頭の後ろで腕を組んでいたラグナがセイに声をかける。セイは突然の訪問者に動じる様子もなく、壁に飾られていた剣を手に取り、鞘を抜いた。

「ゼルスは難民の行方を追っていた。遅かれ早かれ、ここが見つけられるのは想定済みだ」

「オレらの後を付けられた可能性があるかもな」

「そうだとしても、関係ない。ゼルスはいずれ討つつもりだ」

 抜き身の刃を確かめ、セイは剣を鞘に納める。

「女も目が覚めたのであろう。お前たちも民とともにここを出るがいい」

「あんた、戦うつもりなのか? 噂聞く限り、西の国は随分な強国らしいじゃん」

 数日渓谷の街で情報を集めた限り、勝機があるとは言い難い。ゼルスの軍は一万と聞く。対する渓谷の街で訓練された兵は三千、戦える若者を集めたとしても五千がいいところだ。倍の戦力差があるのだ、正面から受けて勝てるとは思えない。渓谷の街は防備に強い造りというわけでもなく、逃げ道となるのは南に抜ける隠し通路のみ。

 セイは小さく息を吐くと、ラグナへと向き直った。

「ゼルスは多くの国と民を苦しめてきた。誰かが止めねばいけない。それに……私にはやらねばいけない理由がある」

 思いつめたようなセイの様子にラグナはへぇと相槌を打つ。

「父親の仇か……?」

 街で情報を収集しているときに、そんな話を聞いた。領主であるセイの父が長らく戻らないと。死んだのではと噂されていたものの、誰も真実を知らないようであった。恐らく、混乱を与えないよう、セイが真実を伏せているのではないか。そんな気がした。

「聞いたのか。……父はこの街で準備を整えてきた。私はその意思を継ぐまでだ」

 己の右手を見つめながら、セイは呟くように言う。漆黒の瞳は決意に満ちて、静かに燃える炎のようだった。

「ご立派だねぇ。悪いけど、オレらは逃げさせてもらうわ」

 ラグナとしては混乱に乗じて出発したほうが都合がいい。ラキエルがこの事態を知ったら止めかねないが、知られる前に出ていけばいい話だ。

 セイに恩こそ感じるものの、戦に加わるのは別の話だ。ラグナ一人ならば気まぐれに力を貸しても良かったかもしれない。しかし、今は厄介な事情を持った連れが二人もいる。

 シシリアは戦で傷つき倒れる者がいれば放っては置けない性分だ。力こそ使わずとも、何かしら力になりたいと言い出すのは目に見えている。

 そしてラキエル。実はこれが一番厄介な事情だった。ラキエルの周囲で死んだ者は恐らく輪廻転生の輪から外れ、天国にも地獄にも行くことはない。ラキエルの持つ呪いが、すべての命を吸い取るのだ。それを確信したのは、ローティアの塔で村人が死んだ時だった。死した者の魂が骸を離れたかと思うと、ラキエルの額の紋へと吸い寄せられたのだ。まるで死を招き入れるかのような光景に、ラグナですら言葉を失った。

 滅びの女神の呪いは恩寵を与えた者を滅ぼすだけではなかったのだ。ラキエルは何も言わないが、恐らく彼の力は増大している。

 ラキエルを戦場に置くことは、人々の魂を彼に食わせるのと同義だ。

 そうと気づいてしまったからこそ、ラキエルを戦場から遠ざける必要があった。この事実を知った時、ラキエルは罪の呵責に耐えられるのだろうか。今度こそ自ら死を選びかねない。

 薄情と罵られようとも、今はこの地を離れるのが最善だと判断した。

「……構わん。ゼルスの追手に気を付けろ。ゼルスはしつこい男だ」

 ラグナの言葉に気を悪くした感じもなく、セイは気遣うような言葉まで言う。憎まれ口のひとつふたつ覚悟していたラグナは、予想と違うことに内心呆れながらも感謝した。

「どいつもこいつもお人好しで……」

 世界中こんな善人だけであれば争いも起こらないのかもしれない。

「セイ、あんたには感謝してる。……生きろよ」

 セイは死なない。そんな気がした。彼からは恩寵の力とは似て異なる何かを感じるのだ。それが何であるのか、ラグナにもわかりかねたが、戦力差を前にしても動じないところを見るに、秘めている力があるのかもしれない。

 ラキエルと酷似している青年は口元を綻ばた。

「互いにな。すべてが終わったら……ラキエルの素性を知りたいものだ」

 生き別れの兄弟のようによく似ている二人。まるで鏡に映したかのような姿。生まれた世界も違うであろうに、不思議に思うのも無理はない。一つの可能性を考えたが、あまりに馬鹿げていると否定した。あり得るはずがない、あってはならない。そんな残酷が許されるはずがない。

「……オレも知りてーよ」

 セイとラキエルの因果を探るためには、隠された過去を暴かねばならない。そのために必要な鍵を見つけに行くのだ。

「じゃあな」

 後ろ手に手を振りながら、ラグナは部屋を出て行った。

 すぐにこの場所が戦場になるわけではないだろうが、戦火は確実に迫ってきている。今は、ラキエルとシシリアを連れ出すことが先決だった。