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紅き天使の黙示録

第三章 -17- 秘めた記憶1

 その日は空が重く、分厚い雲に覆われていた。

 西の国の南部の領土を預かる伯爵ファンとその妻エルデは、今にも一雨来そうな空を仰いだ。雨は恵みだ。乾いた土を潤し作物を育む。しかし、二人はどこか胸騒ぎを感じていた。

 この国の王ゼルスが東の国に一方的に攻め入って滅ぼしたのは記憶に新しい。女子供にも容赦ない虐殺が起こり、討ち取られた兵や将は外壁に首を晒されたそうだ。王族は皆殺しにされ、幼い王子に至るまで無残に切り刻まれた。西の国の民ですら恐怖を感じるような戦だったという。

 絶対的な王ゼルスは周辺諸国に戦を仕掛け、虐殺と略奪を繰り返していた。西の国は兵力を増強し続けていたが内政は疎かで、重税を課され民は飢え苦しんでいた。保守的な宰相が国を豊かにすることに尽力するよう進言したが、その宰相は翌日見せしめのように断頭台の露と消えた。王城でゼルスに逆らうものはいなくなり、国は恐怖に苛まれ荒れていった。国から逃げ出す民も少なくなかったが、ゼルス王の兵に見つかり問答無用で処刑されるのは日常茶飯事であった。

 そんな中、ファンは領土の民を少しでも守ろうと心血注いでいた。南の国に近いため交易が盛んで、土地が肥えていたのもありゼルスの重税を辛うじて凌いでいる。国外に逃れようとして処刑される民が相次ぐ中、ファンの領土だけは秩序を保っていた。その噂を聞きつけた王都の民が逃げるように流れつくのもこの場所だった。ファンは難民を保護し続けていた。ゼルスに目を付けれられるのも時間の問題だったが、助けを必要とするものを見捨てることができなかった。

そんなある日、小高い丘の上で領土を見下ろしていた夫妻のもとに衛兵が駆けてきた。若い兵はファンに一礼すると、小声で夫妻にだけ聞こえるよう声を出した。

「ファン様、街の巡回中に二人組の流民と街の者が揉めていたので、騒ぎを収め流民を保護したのですが、少々気がかりなことがありまして……」

 ゼルス王の間者だろうか。ファンはあごひげを撫で付け、眉間にしわを寄せた。

「気がかりとは?」

「はい、身なりが上等で貴族のようだったのですが……その、隠れているかのような振る舞いをしていて……怪しんだ街の者が手を出し乱闘騒ぎになっていたようです。……女の方がラフィーナと呼ばれていたそうです」

 ラフィーナ。聞いたことのある名前だった。東の国の美姫の名だ。もともと東の国へ攻め入った理由が、姫君と金鉱の略奪であった。神々に愛されるほどに美しい姫だと噂されていたがため、ゼルス王に狙われたのだろう。しかし国が滅ぼされたときにゼルス王に逆らい殺されたと聞いていた。

「ラフィーナ姫だと……?」

 同名の偶然か。にわかに信じがたい。

「ふむ……、それが本当ならゼルス王に追われている可能性があるな。して二人は今どこに?」

「はい、城門横の兵舎で保護しております」

「わかった。わたしが一度話そう」

 もしも本当にラフィーナ姫だとすればいささか危うい。ゼルス王に追われているであろう存在に、どうするべきか悩む。民を守るためにはゼルス王に差し出すのが正しいのかもしれないが、助けを求めて流れてきたかもしれない相手を無下にすることに抵抗があった。

「エルデ、君は東の国の出身だったね。確かめるため一緒に来てほしい」

 隣で静かに佇んでいた妻に声をかければ、エルデは優しく微笑んだ。

「はい、仰せのままに」

 兵が案内するように先行すると、ファンとエルデは歩き出した。

 空の暗雲は一層濃くなり、低い唸り声のような音を響かせ始める。嵐が近い。不穏な空模様に一抹の不安を感じながら、ファンは先を急いだ。

◆◇◆◇◆

 兵舎の前は街の者による人だかりができていた。衛兵が街の者に戻るよう声をかけている。しかし街の者は兵舎の中を覗こうと、兵と押し問答を繰り広げていた。どうやらラフィーナ姫が生きているという噂が広まり、噂の美姫を一目見ようと押し寄せてきたようだ。

 ファンは皆に聞こえるよう、ひと際大きな声を出した。

「皆の者、落ち着きなさい」

 ファンの声に騒いでいた民と兵が口を閉ざし振り返った。

「ファン様」

「騒ぎを大きくしてはならない。皆、持ち場に戻りなさい」

 穏やかに、しかし反論を許さない強い声で告げる。街の人々は互いの顔を見て、気まずそうな表情を浮かべた。兵舎の中が気になるのか視線を扉に向けるが、ファンを慕う彼らはやがて諦めたようにその場を離れ始めた。

 人が捌けると扉を守っていた兵がファンに一礼し、重い扉を開く。ファンは頷いて扉をくぐった。エルデもそれに続き、玄関口を抜け奥の小部屋へ案内される。小部屋の扉を開くとそこには、見知らぬ二人の男女がいた。

 女は目深にフードを被り男の後ろに隠れるようにして俯いている。部屋の入り口側に腰かけていた白い髪の男は、部屋を訪れたファンを一瞥した。

 ファンの知らない、恐ろしく顔の整った美しい男だった。頭の高い位置で一つに結わいた長く白い髪。彫刻に掘ったかのように均整の取れた目鼻立ち。身に纏う外套や着衣は兵の言った通り上等なもののようで、男の白い装束は聖職者を連想させる。見たことも聞いたこともないような深紅の瞳が特徴的で目を引く、流民や難民というにはいささか疑問の残る出で立ちの男だった。

 ファンは背後の兵に下がるように指示する。兵は恭しく礼をして扉を閉ざした。部屋の中へ踏み入ると、男と机を挟んで逆の椅子へと腰を下ろした。エルデもそれに続き、ファンの隣に腰を下ろす。

「私はこの街の領主ファンだ。騒ぎがあり、そなたらを保護したと聞いた」

 ファンが声をかければ、男は鼻を鳴らして口元を歪めた。

「この街では女に無作法を働くのが礼儀なのか?」

 感情の籠らない低く穏やかな声だった。しかし、男は不機嫌そうな表情を浮かべている。

「街の者が先に手を出したと聞いた。不快な思いをさせてすまない。この街は難民が多く押し寄せている……ゼルス王に怯えるあまり、見慣れぬものを怪しんでしまったのだ。許してやってほしい」

 ファンが謝罪すると、男の後ろにいた女が男の袖を引く。男はつまらなそうにファンから視線外した。

「まぁ、いい」

 男は話は終わりだとばかりに立ち上がった。ファンはそれを遮るように手を前に出す。

「失礼、お二人はなぜここに……?」

「当てのない旅だ。たまたま立ち寄ったに過ぎない」

 旅人というには身軽すぎる二人を訝しみ、ファンは口元に手を当てる。思案するファンの横で静かに見守っていたエルデが、おずおずと口を開いた。

「もし……貴女様はデルフィーネの第一皇女ラフィーナ様では?」

 男の後ろで俯いていた女が驚いたように顔を上げた。男は女とエルデの間に立ちふさがると、威嚇するようにエルデを見下ろす。しかし、隠れていた女が男の腰の横から顔を覗かせた。

「……わたくしを知っているの?」

 落ち着いた女の声が、警戒の色を滲ませながらも問いかける。エルデは少しでも安心させようとにこりと微笑んだ。

「はい。私はデルフィーネ辺境の出身なのです。王都に行ったときに、まだ幼いラフィーナ様をお見かけしたこともあります」

 女はエルデとファンをフードの奥から見つめる。ファンは西方の国の民に多い褐色の髪の壮年の男だった。隣のエルデは西方では珍しい、白い肌に黒髪の小柄な女性である。二人を静かに見据え、女は再び口を開いた。

「そう……デルフィーネの……」

 どこか憂いを含む声で、女が呟く。

 デルフィーネが滅ぼされたのは一年前ほど前だっただろうか。デルフィーネ王家はもちろん王都の民さえも皆殺しの知らせに、隣国に嫁いでいたエルデは衝撃を受けたのを覚えている。デルフィーネ辺境の貴族であったエルデの実家は無事だったものの、ゼルス王を恐れ南の国へと亡命したのも記憶に新しい。

 女は悲し気にまつ毛を伏せると、ゆっくりとした動作でフードを下ろした。

 隠れていた女の顔は、噂に違わぬ美しさであった。腰まで届く漆黒の巻き毛は黒曜石のように艶やか。髪と同じく漆黒の双眸は長い睫毛に縁どられ、紅など引かなくとも唇は薔薇のように赤かった。愁いを帯びたような表情を浮かべ、額に痣のような紋の存在が印象的な、二十歳を少し超えたくらいの女だった。

「……やはり、ラフィーナ様……! よくぞご無事で」

 美しさはもちろんだが、エルデはラフィーナの額を見て確信した。デルフィーネの民ならば皆知っている。ラフィーナが神々の恩寵を受けて生まれた子であると。その証である痣のような紋は、白い額に存在を誇示していた。

「ゼルスの国で、デルフィーネの民に会えるとは思っていなかった……そなたのように生き延びた者もおるのだな」

「王都の外にいた者は散り散りになり北と南に逃れた者が多いのです。私は十年前にこちらへ嫁いできていたので、難を逃れました」

 以前西の国と東の国は友好的で国交も盛んであり、敵対などはしていなかった。しかし王が変わってからすべてが一変した。熾烈な王位争いを血で汚しのし上がったゼルスは、周辺の諸国に牙を向いて回った。兵を集い、重い税を臣民に課し、略奪を繰り返すようになったのだ。東の国デルフィーネは他の諸国と連携しゼルスと戦おうと準備していたが、体制が整う前に攻め込まれ、一方的に滅ぼされてしまったのだ。まるで見せしめにするかのように王都の民は残虐に殺された。

 一人残らず首を刎ねられたデルフィーネの王族は、西の国の王都に首を晒されていた。

 それから世界は混迷を極めた。ゼルスの勢いは衰えを知らず、北の国や海の向こうの国にも戦火を広げている。

 ラフィーナはエルデの言葉にほんの少しだけ口元を綻ばせた。

「そうか……」

 デルフィーネの生き残りがいることは、ラフィーナにとって喜びを禁じ得ないことだった。しかしすぐにラフィーナの表情は曇り、静かにファンに向き直った。

「ファンと申したな。そなたはわたくしを捕らえに来たのか?」

 同郷のエルデに絆されることなく、ラフィーナは感情の籠らない声色で問いかけた。

 ファンがエルデを横目に見れば、エルデは悲し気な表情を浮かべている。ファンは顎髭を撫で、深く思案した。ラフィーナの生存をゼルスが知れば、必ずや捕らえに来るだろう。匿うような真似をすれば、ファンやエルデはもちろん、領民も無事では済まない。捕らえ差し出すことが賢明だった。しかし、ファンはそれを由とは思えないでいた。

 前王の時代、この国は特別豊かではなかったが、穏やかな国であった。交易を盛んに行う、拓かれて自由な国だったのだ。エルデが嫁いできたのも、その時代の交易相手である貴族の娘という縁だった。ファンはこの国が好きであった。

 しかしゼルス王の統治に代わってからというもの、この国に憂いを隠せないでいる。略奪と重税に苦しむ民は飢え、病が蔓延り、生きる希望が失われていく日々。そう、まるで絶望の国だ。かの王をこのままのさばらせて良いものか。

 しばらくの沈黙を挟み、ファンは両手を机の前で組んだ。そして静かに告げた。

「そのつもりはない」

 ファンの答えを聞いて、ラフィーナではなく隣の白い男が反応した。

「ほう、殊勝なことだ」

 ゼルス王に背き見逃すつもりか。深紅の瞳を細め、男は口元に笑みを浮かべた。

「捕らえることはしない。この街は自由の街、好きにしてもらって構わない。ただし、できるだけ目立たぬよう、行動されると良いだろう」

 ラフィーナはフードを目深にかぶってはいたが、その高貴さは隠しきれるものではない。そして男も良い意味で酷く目立つ。隠密の旅だということは当人も理解しているだろうが、遠目に見ても人目を惹く姿をしているのだ。穏便に過ごしたいなら、目立たないようにするしかない。

「当てのない旅だと申されたな。どちらへ向かう予定で?」

 これだけ目立つ二人組だ。様々な意味で旅は危険を伴うだろう。

「……当てはない。すべてアルヴェリアの思うがまま歩むだけだ」

 ラフィーナはアルヴェリアと呼んだ隣の男を垣間見て答える。

 その白い頬が青ざめているように見え、エルデは疑問を持った。美しく毅然としているラフィーナであるが、顔色が悪い。それが旅の疲れによるものなのか判別つきかねるが、無理をしているような気がした。

「ラフィーナ様……少しお疲れのようでは?」

 ラフィーナの様子を気遣い、エルデが問いかける。

「大事ない」

 ラフィーナは静かに首を横に振った。

「次は南の国を目指す……準備をするため数日この街に滞在したい」

「……滞在は構わない。だが南の国へは森と山脈を越えねばいけない。さらにその先は灼熱の砂漠が待ち受けている。二人だけで越えるおつもりか?」

「そのつもりだ」

 さして問題ないと言いたげに、アルヴェリアが答えた。

「話とは以上か?」

 アルヴェリアはこれで終いだと言いたげに問う。

 ファンは少し考え込んだ。横のエルデが妙に落ち着きなくそわそわしているのに気づき、提案するように口を開いた。

「ああ、最後に一つ。宿は決まっているのか?」

「これから探す予定だ」

 短く答えるとアルヴェリアは立ち上がった。エルデは小さく声を出す。エルデの言いたいことを察したファンは、引き留めるように手を挙げた。

「お二人が迷惑でなければ、我が城で休んでいかれるがいい」

「生憎だが人の世話にはならん。ラフィーナ、行くぞ」

 そう言ってアルヴェリアは机の横をすり抜け、部屋の扉へと歩き出す。ラフィーナはエルデとファンに視線を合わせ、小さく礼をした。フードを目深に被り直し、立ち上がってアルヴェリアの後を追おうとしたところで、不意によろけた。

「ラフィーナ様!」

 倒れるかと思い悲鳴を上げたエルデの声に、前を行くアルヴェリアが振り返った。ラフィーナは机に片手を付き、辛うじて転倒は免れる。しかしフードから覗く白い頬は青ざめているように見えた。エルデが立ち上がり、アルヴェリアが駆けつけるよりも早くラフィーナの元まで移動する。力なくうずくまるラフィーナの肩を支え、エルデは様子を伺った。

 顔色が悪いのは気のせいではないようで、ラフィーナは口元を手で抑えた。眩暈がしているのかラフィーナの黒曜石の瞳は虚ろで、視点が定まらず虚空を見つめる。ただ事ではないと気づいたアルヴェリアはラフィーナの前まで戻ると、石の床に膝を付きその手を取った。

「どうした?」

 アルヴェリアが問いかけるも、ラフィーナはしばらく黙ったまま首を緩く振った。

「……少し……目眩がしただけ」

 そう言って立ち上がろうとラフィーナは膝に力を込める。しかし、ラフィーナの意思に反して身体はいうことを聞かず、その場から動くことができなかった。

「ラフィーナ様、やはりお疲れなのでは……。どうか無理をなさらず、城へ来てください」

 心配そうにエルデが声をかけた。身体から力が抜けていくのか、ラフィーナは均衡を保てず、エルデの腕の中に倒れ込む。抱きとめた故郷の姫君の身体は重みを感じさせず軽いのに、肌は燃えるように熱かった。エルデはファンを振り返ると、医者を呼ぶよう懇願した。弾かれたようにファンが部屋を出ていく。その様子を、アルヴェリアは困惑したように見おろしていた。

◆◇◆◇◆

 ファンの城に運ばれたラフィーナが目を覚ましたのは、夕刻に近い頃だった。

 窓から覗ける外は叩きつけるような豪雨に見舞われている。暗雲の隙間から紫電の光が閃き、獣の低い唸り声のような音を轟かせていた。部屋は暗く、寝台の横にある棚に置かれた燭台の小さな灯りだけが石の壁を照らしている。ゆらゆら揺れる炎をぼんやりと見つめていたラフィーナは、人の気配を感じ体を起こした。

「目覚めたか」

 寝台の横の椅子に腰かけていたらしいアルヴェリアが、視線を手元の本に落としたままラフィーナに声をかけた。

「ええ……。ここは?」

 見慣れない場所に戸惑っているラフィーナを一瞥し、アルヴェリアは本を閉じた。

「この街の領主の城だそうだ。具合はどうだ?」

 アルヴェリアに問われ、ラフィーナは内心ぎくりとする。長い旅路を歩んできたとはいえ、無理な強行軍ではなかった。休憩はそれなりに頻度を多くとっていたし、今まで野宿をしたこともなかった。アルヴェリアなりに気遣ってくれていたに違いない。それでも旅慣れないラフィーナにとっては、いささか辛い道のりだった。しかし弱音を吐くことはできなかった。お荷物とみなされたら、置いて行かれるのではないか。そんな不安から、多少の無理には目を瞑っていたのだ。

 正直な話、まだ身体は熱を帯びているし、倦怠感も抜けない。それでもラフィーナは頭を振って答えた。

「……もう大丈夫」

 燭台の炎がゆらゆらと揺れ、アルヴェリアの紅い瞳を照らす。心を見透かしていそうな神秘の瞳は、真っ直ぐにラフィーナを見据えていた。

 嘘を吐いている後ろめたさから、ラフィーナは視線を外す。アルヴェリアの重荷にはなりたくなかった。ただでさえ曰く付きの女神の恩寵を持った、亡国の姫というだけで十分すぎるほどに迷惑をかけている。そこに加え、体調も管理できないとなれば見放されても仕方ない。アルヴェリアに捨てられたら、どうやって生きていけばいいのかもわからなかった。生きる希望を他人に委ねるのはどうかと思うが、ラフィーナにとって今、得体のしれない天使だけが味方であり、唯一の友だった。その存在に見捨てられてしまう恐怖から様々な不安が浮かび、ラフィーナは睫毛を伏せる。

 やや間をおいて、アルヴェリアが声を発した。

「嘘だな」

 弾かれたように視線を上げたラフィーナの額に、冷たい指先が触れる。熱を確かめるような動作にラフィーナは戸惑い、身を強張らせた。

「まだ熱いな……しばらく休め」

 穏やかな声色で、アルヴェリアが言う。

 ラフィーナはその言葉に甘えたい気持ちと、気丈に振舞うべきだという気持ちが同時に浮かんだ。優しくされるのは初めてではない。デルフィーネの城の者は親切で優しかった。父も母も溢れんばかりに愛してくれていた。友も召使も、皆ラフィーナに良くしてくれた。滅びの女神の恩寵を受けた忌み子でありながら、誰もそれを否定しなかった。そのすべてを失い、最後の拠り所となった天使の心は分からないままだった。

 言葉の通りに甘えたら、呆れられるのではないか。そんな不安から、ラフィーナは旅中で足が痛んでも、何も言わずにいた。革靴の中でまめがつぶれても、痛みに悲鳴を上げたくても、ただひたすらに歯を食いしばり耐えてきた。

 しかし、ラフィーナが何も言わなくともアルヴェリアはすべて見透かしているようだった。足のまめがつぶれた時は何も言わずとも気づき丁寧に手当てを施してくれた。癒しの術という魔法を披露しても見せてくれた。革靴が足に馴染んでいないと見抜けば、靴屋へと連れていかれ歩きやすいものを選び買い換えた。

 アルヴェリアは声や表情こそ変わらないものの、ラフィーナに対しては優しかった。それが何故なのかラフィーナには分からなかった。分からないからこそ、不安でもあった。

「……どうして、そなたはわたくしに良くしてくれる?」

 今まで問いたくても聞けなかった言葉を、ラフィーナはこぼしていた。

「そなた一人ならば身軽であろう。足止めを食らうこともない……」

 理由を聞いてはいけない気がした。聞いたが最後、天使はラフィーナを見捨てるのではないだろうか。そう、すべてただの気まぐれだ。

 熱で浮かされる頭では正常な思考もできず、ラフィーナは押しつぶされそうな不安を言葉にしていた。

 ラフィーナの言葉を静かに聞いていたアルヴェリアは、実にくだらないとでも言いたげにため息を吐いた。

「何かと思えば、そういうことか。言っただろう、そなたは私と同じ神の恩寵を頂く者。言わば同士だ」

「……わたくしが滅びの女神の恩寵を授かっているから?」

「そうだ」

 感情の籠らない声色で返すアルヴェリアに、ラフィーナは一瞬悲し気に瞳を伏せた。しかし、アルヴェリアの真意を確かめたくて、再び紅い瞳を見つめ問いかける。

「それは同情なの?」

 滅びの女神の呪い子への哀れみから、アルヴェリアは優しいのだろうか。心のどこかで期待したい気持ちがあったのかもしれない。だが、ラフィーナは甘い考えを捨て去るように己に都合の悪い問いを返した。

 悲し気なラフィーナの声を聞いて、アルヴェリアは笑みを浮かべた。

「違う……そなただけが、私を理解できるからだ」

 猫なで声かと思うほど穏やかにアルヴェリアは言う。

 神の呪いを受けた者だけが知る孤独と悲しみを分かち合えるのは、同じく恩寵を受けた者だけ。アルヴェリアの言わんとすることに気づいたラフィーナは、微かな喜びを感じていた。アルヴェリアは孤高の天使だ。神から授かったのだという巨大な力は彼を『普通』から遠ざけ孤独にした。誰もが羨むような力と容姿を持ちながらも、彼は一人きりだった。そんなアルヴェリアに唯一認められたのだという喜びが、ラフィーナの心を満たす。

 今まで、ラフィーナにとって滅びの女神の恩寵は呪いにも等しかった。祖国を滅ぼし、血のつながった家族を奪い、すべて破滅へと導いた呪い。恩寵とは名ばかりの、悲劇だけを引き起こす災厄の象徴をどれほど憎んだことか。しかし、初めて恩寵を授かったことを誇らしく思った。恩寵の呪いは消えないが、ラフィーナだけがアルヴェリアの孤独を知ることができる。祖国を滅ぼした呪いでありながらも、ラフィーナは恩寵を疎ましいとは感じなくなっていた。後ろめたさを感じながらも、誇らしいとさえ思っている己に気づき、ラフィーナは自嘲した。

「今は休め。幸い領主がしばらく滞在をしても問題ないと言っていた」

 横になるよう促され、ラフィーナは柔らかなシーツに身を沈める。身体が、頬が熱を帯びているのは体調のせいなのだろうか。言葉にこそしなかったが、ラフィーナにだけ優しいアルヴェリアの存在に救われている。ラフィーナは心の中で白い天使に感謝した。

 この穏やかな時間が続けばいい。そう願わずにはいられなかった。