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無音の城

 遠い遠い時代、クレストという町の丘に白く荘厳なお城がありました。
 お城には二人の貴族の夫婦が住んでいました。
 クレストの町周辺の領地を治める城主は、他人にも自分にも厳しく、不正を嫌う潔癖者でした。酷く頑固な彼は、町の者からも恐れられている節がありました。
 しかし、その妻の婦人は、春のように美しく、穏やかで心優しい人でした。
 二人は長い間ずっと城で過ごしました。暖かい家庭、従順な使用人に囲まれ、とても幸せな日々が続きました。
 ある日、二人は天より小さな授かりものを頂きました。それは、伯爵夫人に良く似た、美しい男の子でした。
 二人は今までに無い幸せに包まれ、穏やかに暮らしました。

 しかし、その幸せは長くは続きませんでした。
 ある日を境に、伯爵夫人が不治の病にかかり、別れを惜しむ間もなくこの世を去りました。
 穏やかだったはずの城は、悲しみに包まれました。城主は悲しみに打ちひしがれ、最愛の人を失った事実に己を儚み、とうとう気が狂って城の一番高い塔から身を投げ、そのまま帰らぬ人となりました。
 城主が飛び降りた場所には、擦っても擦っても落ちない紅の跡が残りました。
 たった一人残された城主の子供は、悲しみに暮れ、お城から出ることはありませんでした。
 城は徐々に寂れ、一人、また一人と使用人も姿を消していきました。
 そしていつしかそのお城は誰もいなくなってしまいました。

 ――人はこのお城を、無音の城と呼びました。

 

 巨大な城の前で、一人の少年が立ち往生していた。
 十四、五歳位の、豊かな黒髪に澄んだ灰の瞳を持つまだあどけない表情をした少年だ。
 割かし整った顔立ちこそしているが、身に纏う服は文字通りボロ布とも言うべき物だった。その服装から少年が下町の子供である事を容易に判断できた。
 この町、クレストでは貧困の差が激しい。今、少年のいる上級階層地区に住む者は、成金か古い称号を持つ貴族がいるべき場所だ。下町の子供はこの場には似つかわしくなかった。
 少年はただオロオロと城門の前で行ったり来たりを繰り返すばかりで、城門に下げられたベルには触れようとはしなかった。

『どうしよう……こんな身なりじゃ、追い返されちゃうよ』

 少年カイは人生最大の分かれ道に立っていた。下町の孤児院育ちのカイに今までにないチャンスがやってきたのだ。
 つい昨日の事、この町一番の大富豪の住むこの城で、庭番を募集していたのだ。募集事項に、特に細かい事は書いていなかったが、面接を通した後採用されれば住み込みの仕事が出来るようになる。
 そろそろ孤児院を出なくてはいけない年頃のカイには願ってもいないチャンスだ。勢いと共に城まで来たは良いが、よくよく考え自分の姿を連想する。
 たとえ庭番といえどここは貴族の城なのだ。下町の薄汚れた子供を雇うとは思えなかった。何よりも、面接を受けた時に侮蔑に似た眼差しを向けられるのではないか。それが怖くて、カイは只城の前を行ったり来たりとうろつき回る。
 結果を出せずに歩き回り一時間は過ぎただろうか。昼時になりかけた時刻らしく、辺りから何ともいえない良い匂いが漂い始めた。カイは朝食を抜いてきてしまった事を後悔した。只でさえ食事は満足にもらえないのだ。今ごろ孤児院では昼食を巡り、壮絶な争いが繰り広げられているだろう。そして委員長が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている様が頭に浮かんだ。
 何かを訴えるように、カイの腹部から聞き間違えれば怪物のような音が鳴った。

『……腹減った……』

 がっくりとその場に座り込み、恨めしそうに城を睨みつける。ここでこうしていても何も始まらないのは目に見えて分かっているのだが、どうしようもない微妙な感覚にただ苛立ちを隠せなくなって来た。恐らく、空腹がそれに便乗したせいもあるだろう。
 ただ、訳がわからず頭をくしゃくしゃとかき回し、絶望的に俯く。
 しばらくそのままの体勢でぼんやりと地面を眺めていると、軽い足音が聞こえてきた。足音はカイのすぐ近くまでくると、一度止まりすこししてからカイの目の前まで来て止まった。

『何してるの?』

 まだ幼い声に話し掛けられ、カイはゆっくりと顔を上げた。
 視界に飛び込んできたのは眩しいほどの太陽の色と、あどけない少年の不思議そうにカイを見る表情だった。
 見るからに育ちの良さそうな上等な生地の服に身を包み、何処かからの帰りか、不釣合いなほどに大きい鞣革のシンプルな鞄を下げている。

『何って……何ていうかな』

 はっきりとは答えられない質問に口ごもる。
 少年はお城を横目で見ると、思いついたように笑顔を向けた。

『お兄ちゃん、お城の庭番でしょ?今日新しい人雇うって言ってたから
 もしかしてベル鳴らしても誰も来ない?
 ここの門番の人耳が遠いからね、直接城のドアたたいた方が良いよ』

『お前、この城の子供なのか?』

『ちょっと違うかな。僕はココの近くの子供。
 でもって今日は遊びに来ただけー』

 無邪気ともいえる黄色い声で少年は嬉しそうに言った。

『なんなら、一緒にお城行く?お仕事についてだったらじいちゃんに聞いた方が良いよ』

 これは最後のチャンスかもしれない。カイは少年に同行する事にした。
 もしかしたら、貴族の少年の紹介という事になってくれるかもしれない。
 少し不安はあるものの、少年に手を引かれカイは城門をくぐった。

 少々怯えていたカイを迎えたのは、端正な顔立ちをした三十代の執事風の男だった。男は少年を階段の向こうへ通すと、カイに向かい合った。

『ご用件を窺いましょう』

 いかにも厳粛そうな声色に躊躇いつつも、カイは小さく口を開いた。

『あの、昨夜庭番を募集しているっていう広告を見て、来たんです
 まだ募集していますか!?』

 執事風の男はしばらく無言でカイを嘗め回すように眺めた。
 緊張の為か汗ばんできた手のひらを隠すようにズボンの後ろで組むと、男の反応を待った。気まずい沈黙が、場に流れた。

『良いでしょう……着いて来てください』

『へっ!?』

 予想外の言葉に気の抜けたような声を出す。執事風の男はそれ以上何も言わず、二階への階段を音も立てずに上がりだした。
 遅れては大変と、カイもその跡に黙って続いた。信じられないくらい驚いているが、今はその感情をだしてはいけない気がした。ただ、心の中で大きくガッツポーズを取り、表情はすこし緩んでいた。
 これからの生活に希望を抱え、カイは階段を一歩一歩踏みしめて上がっていった。

 

 

 契約を済ませ、カイは孤児院に戻ると大急ぎで荷物を整えた。
 院長は素直にカイの仕事が決まった事に喜んでくれた。そして別れを惜しむように最後まで手を振り続けていた。
 幸せに包まれた気分は最高潮だった。カイはコレほどまでに喜びを覚えた事は無い。そのせいか、忠告をくれた少女の言葉を軽く笑い飛ばしてしまった。最後まで不安げな表情をしたカイと同い年の少女、アンは舞い上がるカイに一言だけ忠告をした。

 ――――あの城は狂気に満ちている、と

 前からそういうオカルトな事が好きな少女だったので、只の嫌味と思い流した。
 それが、全ての始まりだったのかもしれない。

 

 与えられた仕事は酷く簡単なものだった。ただ、少し広い庭の草刈と掃除、ついでに馬に餌をやる事。それだけだった。
 屋敷内での仕事は特に無く、夕方頃には暇を持て余す時もある。予想していたよりも遥かに楽な仕事にカイは違和感を拭えなかった。
 おかしいのはそれだけではなかった。この城の城主にまだ、一度も会った事が無いのだ。見る人といえば、カイを出迎えた執事風の男と、遊びにくる小さな少年。それと侍女が数人。それなりの広さをもつ城にしてはいささか人手不足のような気がする。
 それでも城に埃が舞うことも無く、蜘蛛の巣がはる事も無い。あの人数だけで毎日掃除しているのだろうか?ありえない。それはさすがに考え難かった。
 平和すぎる日常にぼんやりしながらも、カイはしっかりと仕事を続けていた。
 そんなある日の事だった。一人、城の裏の方の草をカットしていた時、不意に誰かに見られているような感覚に襲われた。カイが振り向くと、覗いてたはずの誰かはすぐに目を逸らしてしまい、気配ごとどこかに消える。
 始めは使用人の誰かが仕事をサボっていないか監視しているのかと思っていた。
 だが、毎日続くその現象にさすがにカイは気になって来た。  用があるのなら、コソコソしていないで出てきて欲しかった。

 日が立つのは早いもので、そろそろこの城に来てから一月が過ぎようとしていた。
 カイに割り当てられた部屋は高い使用人用の宿舎として使っている塔の最上階で、見晴らしだけは絶品だった。
 薄汚れてはいるものの、孤児院よりかはるかに広い部屋に柔らかなベッド、自室に設けられた洗面所。ただの庭係りに与えられる物にしては十分すぎるほどだった。
 薄っすらと差し込んできた光に、カイは目を覚ました。
 枕元にある時計を見ると、五時を少し過ぎたくらいの時刻だった。
 ぼんやりする頭で洗面所に行くと、冷たい水で顔を洗い仕度を整え花壇の水撒きのために外へと出て行った。
 外はまだ完全に明るくはなっておらず、息は白くなるほど冷え込んでいた。
 毎朝の習慣である水撒きと家畜に餌をやる事を済ませたカイは、花壇の前で一休みしていた。少しばかりいつもよりも早く終わったので、普段はあまり見ない花でも見ようと思ったのだ。
 花壇には見事な薔薇の蕾がいくつもあった。咲くのも時間の問題だろう。
 花を眺めるのもたまには良いな、と内心思いつつカイは立ち上がった。
 陽も上がり始め、次第に辺りは明るくなっていた。カイは朝食を取ろうと、城へ方向転換した。

『?』

 またあの奇妙な視線を感じた。今度は大分近くに。不思議に思いカイは辺りを見回した。そして、視界の端に映った物にすこし驚いた。

『お前は……?』

 城の窓から、カイと同い年くらいの少年が立っていた。  病弱なほどに白い肌、癖一つ無い真っ直ぐな髪は柔らかな光を放つ淡い金、整った目鼻立ちをした驚くほどに綺麗な少年だ。
 まだ寝起きなのか、着ているものは薄い生地の服とその上に引っ掛けただけのガウンだった。それでも生地の上等さから、少年がただの使用人でないことは明らかだった。
 少年は何もいわず、ただカイの事をその深緑のような色合いの瞳で見ていた。
 何だか観察されているような感覚にカイはいても立っても居られなくなり、とうとう自分から話し掛けた。

『なぁ、お前はもしかしてこの城の子供なのか?』

 少年は驚いたようにカイを見た。まるで話し掛けられた事が意外とでも言いた気に。

『君は、誰?』

 カイの質問には答えず、少年は逆にカイに問い掛けた。

『俺はカイ。ついこの間雇われた庭番だよ。聞いてない?』

『あぁ、そうか……僕はクリス。君の言う通り、この城の城主の息子だ
 使用人の事はあんまり聞かないから、知らなかったんだ
 でも随分と若いのが来たね、僕はてっきりまた変なのが来るかと思ってたよ』

 そう言ってクリスは嬉しそうに笑った。無邪気で世の純粋な物だけで作られたようなその笑顔に、カイもつられて口元を綻ばせた。

『へぇ、お前がこの城の主様か。
 使用人と執事の人しか見ないから、てっきりいないのかと思ってたよ』

『僕はあまり外には出ないから……
 それにお父様は今ちょっと出られないみたいでね。君がそう思うのも無理ないか
 これから朝食かい?』

 その言葉にカイは急に空腹感を思い出した。

『あぁ、忘れてた……』

『じゃあさ、僕と一緒に朝食をとらない?
 僕、同年代の人と接したことあんまりなくて。
 良かったら僕の話し相手にもなってほしいんだ』

 意外なクリスの一言に、カイは喜びを禁じえなかった。カイも同年代の友達といえば、孤児院で一緒に育ったアンぐらいで、男友達と呼べる者はなきに等しかった。
 これから仕事の上でも世話になる相手でもあるのだからうまくやっていければそれに越したことはない。

『うん、俺でよければいつでも呼んでよ。あんまり上品なことはできないけど』

 そう言ってカイは少し照れたように笑った。クリスも嬉しそうに『ありがとう』と告げて柔らかく微笑んだ。

 

 クリスに連れられ、いつもでは立ち入らない城の奥の部屋にカイは案内された。  使用人の使う食堂とは明らかに違う、高価な調度品や壁には名のある絵師の描いたであろう絵画。その一つ一つがまさしく貴族の世界をつくり上げている。
 場違いさに首を低くしながらも、カイは促された椅子に腰掛けた。
 テーブルには普段なら決して使わないナプキンと数えるのも面倒なナイフとフォーク、スプーンが統一された間隔で並べられていた。
 クリスのほうを見やると、彼はナプキンを膝に掛けていた。
 暫くしないうちに、ドアから数人の女官が料理を片手に入ってきた。
 女官は丁寧に音を立てずに料理を置いていき、最後に一礼をして部屋から去っていった。

『やっぱ上流階級ってすげぇな。何ていうか、雰囲気がすでに別世界って感じで?』

 急に緊張が途切れたせいか、カイはだらしなく背もたれにもたれ掛った。
 クリスは『そういうものかもね』と言って笑った。

『無理なんてしなくてもいいよ、僕が呼んだんだから』

『じゃあお言葉に甘えて……』

 カイは目の前に行儀よく置かれたパンを掴むと、勢いよく口に頬張った。一口で パンの三分の一くらいを一気に飲み込む。途中、つっかえたらしくミルクの並々入ったコップを掴むとそのまま口に流し込んだ。
 あまりに豪快な食べっぷりに、クリスは可笑しそうに笑った。

『あははは。そんなに急がなくても、食事は逃げたりしないよ』

『分かってるんだけどなぁ、昔の癖で急いじまうんだ』

『昔の癖?』

 クリスは上品にパンを千切り、スープにつけると、興味を惹かれたようにカイに聞き返した。
 カイはスープを皿ごと飲むと、袖で口元をぬぐった。

『そう、俺孤児院育ちだからさ。食事の時間はもう大混乱
 早い者勝ちでさ、急いで食べる習慣が出来てたんだよな。ココに来て一ヶ月経つけどまだその癖が抜けないんだ』

『へぇ、大変なんだね。僕は食事の時間いつも一人だったからそういうの何だか不思議だ』

『一人? 父ちゃんとかいるんじゃないのか?』

 ふと、先ほどクリスが父さんはいるようなことを言っていた気がする。疑問に思い、カイは一時的に食事の手を休めた。

『いや、父は忙しい人だから……食事は滅多に同席しないんだ
 母も僕が小さいときに亡くなってね。それからはいつも一人だった』

『あ……悪いこと聞いたな』

『気にしなくてもいいよ。もう慣れたし
 でも時にはこんな食事も良いのかもね』

『そうか?……まぁ、俺も一人よか誰かと一緒のほうが楽しいけどな
 ここじゃあ飯取られる心配もなさそうだし』

 苦い思い出を記憶に浮かべたのか、カイは少し引きつった顔でそう呟いた。
 クリスはまた楽しそうに小さく笑った。

『そういやクリス、この間から妙に視線を感じたんだけどあれお前?』

 失礼とは分かっているが、どうしても気になっていた事を、カイは率直に聞いた。クリスはスープを一口飲み、ナプキンで口元を拭った。

『視線? さぁ、僕は今日はじめて君に会ったから……
 誰かに見られてるの?』

『見られてるって言うか、監視されてるみたいでちょっと居心地が悪いんだ
 こっちが気付くと、視線の相手は消えちまうし』

『不思議なこともあるものだね。きっと執事か誰かが見張ってるだけかもしれないよ
 何だかんだであの人たち、細かい人だから』

 あの人たちとは使用人と執事のことだろう。それでも拭いきれない違和感はカイの心に重くのしかかった。
 てっきりクリスだと思っていたので、また振り出しに戻ったことに、顔には出さないが落胆の色を隠せなかった。

『もしかしてお化けかもって思ってる?』

『は?』

『古い城だからね、そういうのが居てもおかしくは無いかもね』

『……出るのか!?』

 食べ途中のパンを皿に落とし、青ざめた表情でカイはクリスを見た。
 そう、カイはこの手の怪談話が大の苦手だった。孤児院にいた頃も、アンが怪談話をするたびに逃げたものだ。

『もしかして怖い? 大丈夫。このお城に長くいるけどそんなの見た事も無いから安心して
 あ……でも古い物語があるんだ』

『古い物語? 何だよ、それ』

『この城に纏わる物語』

 そう言ってクリスはポツリポツリと話し始めた。

 この城には昔、二人の仲の良い夫婦が住んでいたんだ。
 夫婦は若くして子供に恵まれた。
 二人に似た、それはそれは天使のような子供だった。
 でもある日、伯爵夫人は病に倒れ、死んでしまうんだ。
 そして悲しみに暮れた伯爵は、気が狂ってしまうんだ。

『それ、知ってる。この町の古い物語だろ?で、最後は意味不明なまま終わる……』

 クリスの話をさえぎって、カイは横槍を入れた。
 この町では知らぬものなどいないと思える、有名な物語だ。
 だが、クレストには古城が数多くあり、そんな話などどこにでもあるようなものだ。

『そう……ここまでは誰でも知ってる。でもこの物語には抜けた部分があるんだ』

 伯爵は悲しみのあまり城から出なくなるんだ。
 その様子を心配した息子は、父を元気付けようと必至に励ました。
 でも、それは裏目に出てしまった。
 伯爵は狂気に蝕まれるうちに、妻はまだ生きていると言い出すようになったんだ。
 息子は母が死んだことを必至に訴えた。でもね、伯爵は耳を貸さなかったんだ。
 ある日、伯爵は妻が帰ってきたとおおはしゃぎしていた。
 息子は不信に思い、母の部屋を訪れた。
 でもそこにあったのは母ではなかった。
 母とよく似た、黒髪の美しい娘の冷たくなった骸だった。
 その娘は使用人の一人だった。
 そして日を重ねるごとに、部屋の骸は増えていった。
 黒髪の使用人ばかり集め、一人一人に歪んだ愛情を与え、終いには無意識のうちに殺してしまっていたんだ。
 使用人は恐怖を覚え、皆揃って城から逃げ出した。
 だが、伯爵はそれを許すことは無かった。
 逃げ惑う使用人たちを捕まえては殺し、いつしか城に残ったのはまだ少年である息子と、狂気に走った父だった。
 息子は逃げた。
 城の一番高い塔に逃げ込んだんだ。
 でも伯爵は追ってきた。すでに息子であったことすら忘れてしまったんだ。
 息子は塔から逃げることも出来ずに、伯爵が現れた。
 そして、伯爵は息子を塔から落とそうとしたんだ。
 息子は必至で父の手を振り払い、逆に伯爵を塔から突き落としたんだ。
 そして城は少年只一人残された。
 物音一つないこの城で少年はひっそりと姿を消した。
 いつしかこの城には誰も居なくなった。

『これが、本当の無音の城の物語なんだ
 噂では、狂気の男が未だ城を徘徊しているらしいよ
 そして開かずの間に毎日通っているんだって』

 カイは食事をすることを完全に忘れて、青ざめたままクリスの話を聞いていた。
 心なしか、足元が震えている。

『開かずの間って……?』

『伯爵夫人の部屋だよ。そこは今では固く閉ざされているんだって』

『まさかこの城にその部屋があるんじゃ……?』

『もしかして怖い? 大丈夫。これは悪魔でも物語なんだから……ね?』

 そう言ってクリスは軽く微笑んだ。だが瞳は口元と同じように無邪気な光を灯してはいなかった。微笑んでいるのに、何故か背筋の凍りつくような感覚にカイはただ、苦笑いを返しただけだった。
 その後は会話らしい会話もなく、黙々と朝食を取り、カイは仕事があるからといってその場から逃げ去るように出て行った。
 一人残されたクリスは、部屋から出て行こうとはせず、カイの去っていったドアを静かに見つめていた。

『……物語……か』

 小さく紡がれた言葉は、突然入り込んできた突風にかき消された。
 部屋にはクリスの不適な笑い声だけが響いていた。

 

 

 その日、カイはなかなか寝付くことが出来なかった。
 朝に聞いた無音の城の物語のこともあるが、何よりクリスの態度が不思議だった。
 あの後、カイは少し怖くなり、急いで屋敷中の部屋という部屋を確認した。
 だが、いたっておかしな部屋などなく、城の一番高い塔は物置となっているだけだった。鍵がかかっている部屋もなく、おかしな場所など無かった。
 それでも拭いきれない不安は、朝のクリスの背筋の凍るような嘲笑のせいかもしれない。氷のように冷たい、無機質な笑み。そこから感じられたものはやはり今までと同じ無邪気な気持ちであったはずなのに、それでもカイは思い出すだけで身体が一瞬震える。

『……眠れない』

 毛布に包まれたままカイは呟いた。
 寒さのせいだけでなく、多分この城の怪談が怖いのかもしれない。カイは仕方なくベッドから這い出てくると、少し風にでもあたろうと、窓を開けた。
 冷たい風が窓から入り込んでくる。空を見上げれば、円を描いた朧月が静かに光り、暗闇の空を照らし出していた。
 寒気がしてきた頃、カイはようやく落ち着いてきた。一日の疲れと共に眠気が込み上げてくる。カイは窓を閉めようと、窓に近づいた。

『あれは……?』

 暗闇の中、不意に違和感のある影が目の端に映った。
 不思議に思い、カイはその影を目で追った。影はゆっくりと移動し、やがて城の中へと入っていった。
 こんな時間に何者だろうか?まさか客人ではないだろう。そうとなれば考えられるのは一つだった。

『泥棒か!? 誰かに伝えないと!!』

 慌てて部屋を飛び出し、蝋燭の灯りのみの薄暗い螺旋階段を早足に下りていった。
 執事や他の使用人の部屋はカイの部屋のある塔の下にある。カイは庭番と言うことで、屋根裏まがいの部屋を割り当てられたが、他の使用人たちは城の中に部屋が用意されている。
 階段を下りきり、執事が要るはずの部屋のドアを叩いた。

『起きて!! 大変なんだ!!』

 拳が痛くなるほど力を込めてドアを叩くが、反応は無かった。
 仕方なくカイは失礼と思いながらも、ドアノブに手をかけた。鍵はかけられていなく、あっけないほど簡単にドアは開いた。
 部屋は真っ暗なままだった。それどころか人のいる気配すらしない。
 カイはすこし気が引けたものの、部屋へずかずか入り込み、寝台の所まで行くと、寝ているであろう人物を起こそうとした。
 少しばかり癖のついたベッドの上のシーツは、人が寝ているとは思えないほど整っていた。そして触れた毛布の下には誰も居なかった。

『執事さん……?』

 あたりを見回すが、やはり誰も居ない。どこか別の場所にいるのだろうか。仕方なくカイは部屋を後にすると、隣の部屋のドアを叩いた。数回ノックを繰り返すが、返事は無かった。カイはまたもや無断で部屋へと入り込んだ。
 やはり誰も居なかった。
 その階のほぼ全ての部屋を回ったが、誰一人として部屋には居なかった。
 それだけではなかった。部屋には埃が積もり、もう何十年も人が住んでいなかったかのようにひどく生活感の無い空間と化していた。
 廊下を進むうちにカイは段々恐怖を感じずにはいられなかった。
 廊下はカイの足音意外何も聞こえず、光に照らし出された影はいつもよりも大きく感じた。
 どうすればよいか分からず、カイは一つの部屋の前にきていることに気付いた。
 そこは、朝案内されたクリスの部屋だった。
 カイはしばし迷ったが、仕方がなさそうに部屋のドアを叩いた。

『クリス? 起きているか』

 返事は相変わらず無かった。ココまで来るとさすがのカイも部屋に入る気に離れなかった。盗人が入ってきたのかもしれないが、カイ一人が騒いでも仕方が無い。何よりも誰一人いないこの城のほうが、カイにとってはよっぽど恐ろしいもののように思えた。
 カイは自分の部屋に戻るためにきた道を引き返した。

 

 城は先ほどよりもさらに静かだった。音らしいものは何一つなく、カイの足音だけが石畳の廊下にやけに響いた。
 途中途中にある蝋燭の前を通過するたびに動く影が自分のものではないように思えて、まるで後ろから何かが迫ってくるかのような焦燥感が沸き起こる。
 本音を言えば怖かったのかもしれない。だが、そんなことを考えるよりも先に早く部屋に戻りたいと言う思いがカイの足を速めさせた。

 コツコツコツ……。

 空気は震えるほど冷たく、鳥肌が立つ。自分の足音の一歩一歩がなにか別のもののように感じ、いつのまにかカイは早足ではなく小走りをしていた。

 コツコツコツ……。

 コツコツコツ……コツコツコツ。

 足が震えた。
 誰も居ないはずの廊下から、確かに自分のものではない足音が聞こえた。
 鼓動がすこしづつ加速するのがはっきりと分かった。
 カイは振り向くことが出来なかった。ただ、足をさらに早め、今にも爆発しそうな心臓を無理やり落ち着かせる。

 コツコツコツ……。

 背後から聞こえる足音は次第にカイの歩調よりもさらに早く足音を立てた。
 普通の足音ではなかった。何か重いものを持ってるのか、何かをひきずる音も微かに聞こえた。カイは恐怖に立ち止まりそうになるのをこらえて、ただ前の廊下を走り続けた。
 カイが走り出すと同時に足音は一時的に遠ざかっていった。
 カイは只、無心に走った。止まれば何か恐ろしいことが起きそうで、その恐怖心がカイの足を前へと進めた。

 ようやく階段のところまで来ると、立ち止まり、恐る恐る後ろを振り返った。
 聞こえる音はカイの荒い息遣いと、ちりちりと燃える蝋燭の炎の音だけだった。
 カイは安心したように階段を上った。
 上までのぼりきると、カイは力が抜けたように部屋のドアを押した。一瞬ふわりと生暖かい風が吹き抜けた。カイは窓を開けっ放しにしていたことを思い出した。
 蝋燭を灯していたはずの部屋は、火が消えてしまったのか真っ暗だった。
 カイは蝋燭があるであろう場所まで来ると、マッチを手にし、蝋燭に火を灯した。
 刹那、背筋も凍るほどの悪寒が背後から感じられた。
 振り向いたカイの目に映ったのは、漆黒の髪と、生気の失われた青白く腐食した生首。そしてそれを片手で持っている、黒ずくめの男だった。男の顔には赤く染まった包帯が巻かれ、顔は判別できなかった。だが、男の手にしている生々しい首が、男が普通の人ではないことを物語っていた。生首は、光の灯らない死んだ魚のような瞳でカイを映していた。腐りきった肌は青白さを通り越して、紫色をしていた。切断された首からは、何か赤い液体が滴っている。

『っう!!』

 突然の光景に、カイは声が出なかった。
 そして、その間にも黒ずくめの男は一歩、カイに近づいた。
 カイは金縛りにあったように震え、動かない身体を必至に動かそうとしていた。声をあげたいのに、まるで声を失ってしまったかのように咽はヒュッと風を飲み込むばかりだった。

『う……』

 声が出せそうになったとき、窓から一陣の突風が吹きぬけた。
 風は小さく灯っていた蝋燭の火を消して、部屋のドアから去っていった。
 真っ暗闇になってしまった部屋で、カイは金縛りから溶けたようにピクッと震えると、僅かな灯りの見えるドアへと向かって駆け出していった。

『誰か!!』

 無我夢中で薄暗い廊下を走り続ける。下の階に誰も居ない事は知っている。それでもカイは叫ばずに入られなかった。
 振り返ると、黒い影がカイの後を追ってきていた。
 カイは必至で走り続けた。
 階段を全て下りきり、カイは誰か人の姿を追い求めた。
 だが、寂れた城に人の気配などなく、ただカイの足音と、後ろから迫ってくる何かの音が二重奏のように鳴り響く。
 カイはとっさにクリスの事を思い浮かべた。
 部屋に入って確認はしていない、もしかしたら部屋にいるかもしれない。
 カイはそれだけを頼みにクリスの部屋へと急いだ。すでに振り返る余裕すら無かった。

『クリス!! 起きて!!』

 部屋の前まで来るとカイは乱暴に扉を叩いた。そして返事を聞くより早く、ドアノブに手をかけた。
 鍵はかかっていなかった。
 カイは急ぐようにクリスの部屋へと足を踏み入れた。後ろから迫ってきているであろう何かに警戒し、ドアに鍵をかける。
 カイは問答無用でクリスの寝台のある部屋に入り、クリスを起こそうとした。

『クリス!! 生首を持った変な奴が……!?』

 だが、クリスは寝台には居なかった。辺りを見回してもやはり誰も居なかった。
 隣の部屋から、ドアを破ろうとしている音が聞こえた。
 頼れるものが誰一人居ないことに気付き、カイは身を守るために必至で何かを探した。そして何処か、隠れられる場所はないかと、辺りを見回す。
 ドアを蹴っているのか、木の軋む音が先ほどよりも大きくなっている。鍵が壊れるのも時間の問題だった。

『隠れなきゃ……』

 焦るカイの目の端に、不思議なものが目に映った。開けっ放しのクローゼット。そこから微かに風が入り込んでいたのだ。
 カイは何かを考えるよりも早く、クローゼットに飛び込んだ。
 そのまま勢いあまってカイは転倒した。クローゼットだと思っていた物は、細い廊下へ続く扉だったのだ。
 そのとき、入り口のほうで扉を破壊した音が響いた。丈夫そうだった鍵はドアもろとも吹き飛んだ。
 カイは慌ててクローゼットのドアを閉めると、細い廊下をひたすら走った。
 廊下は然程長くなく、少し走った場所に螺旋階段が続いていた。
 後ろからクローゼットを開ける音がした。クリスは迷う暇なく、螺旋階段を上った。
 カイの部屋へと続く階段よりも遥かに長い螺旋だった。何度も息切れで足が止まりそうになりながらも、カイはひたすら上り続けた。
 ゆっくりと、それでも数段を一気に上り詰めてくる足音が下から聞こえてくる。
 カイはひたすら走り続けた。

『クリス!!』

 一番上まで上りきると、そこは一つの部屋があった。
 そして、その場所の光景にカイは絶句した。
 そこは、墓場よりも凄惨な場所だった。
 床は真っ赤に染め上げられ、壁にも天井にも赤い染みがある。
 そして、丁寧に磨かれたテーブルには、数え切れないほどの黒い髪の毛の人だったものの首が並べられていた。
 テーブルの下を覗くと、変色し、まだら模様の浮き出た手首や、足が転がっている。恐らくは上にある首と繋がっていたものだろう。
 大きく息をするだけで、腐りきった空気が肺に入ってくる。
 カイはあまりの息苦しさに、口を押さえ数歩後ず去った。

『驚いた?』

 不意に背後の階段から聞き知った声が投げかけられた。

 

 

 カイは振り返ると、そこに居た人物を見た。
 赤い液体を滴らせる生首を抱いた黒ずくめの少年がそこに立っていた。
 少年は顔に巻きつけていた包帯を外し始めた。流れるような淡い色の金髪が包帯から零れ落ちる。完全に包帯を取ると真っ白な肌に赤い液体の化粧をした美しい少年が、口角を上げて薄く微笑んでいた。

『クリス……!?』

 クリスはにっこりと微笑むと、カイに近寄ってきた。
 カイは恐怖に引きつった顔をしたまま、クリスの進んでくる方向に後退した。
一歩一歩下がって行き、ついにカイは壁際まできていた。

『何故逃げるんだい?カイ……』

 なんとも不思議そうな表情をして、クリスは無邪気に問い掛けてきた。
 曇り一つ無い深緑の瞳からは悪意など感じられなかった。だが、カイにはそれが何よりも恐ろしいもののように思えた。

『クリス、何でお前が』

『何の事を言っているの? 物語のこと? それともこの部屋のこと?
 それとも……』

 クスクスと、口元に手を当ててクリスは笑った。
 何に対して笑っているのかカイには理解できなかったが、その笑みは酷く冷たいものだった。

『何で、お前の部屋がこんな場所に繋がってるんだ。
 それに、この死体は……?』

『これ? これは僕の大切な友達だよ。
 何処にも行かないように、僕がココに置いているんだ』

『俺が聞いてるのはそんなことじゃない。
 何でクリスがココにいるんだ!? それに他の人たちは何処に行ったんだ』

『何も分かってないみたいだね。
 この城に人なんてだれも居ない。いるのは僕と同じ生ける屍だけさ。
 そしてココは僕の母の部屋だった場所。君が来るまでずっと閉じてたんだけどね』

 無音の物語に出てくる、開かずの間。それは城主の息子の母の部屋。
 たしかにクリスはそう言っていた。

『そんな、あれは物語の話だろう!? それに生ける屍って……お前は幽霊なのか?』

『物語? まさか。あれは全て本当にあったことだよ。
 それに僕は幽霊じゃない。だって僕にはちゃんと身体があるもの。
 幽霊と化したのは僕の父さ』

 そう言って、クリスは手にしていた黒髪の首を前に出した。
 腐食しているそれは、口からは肉が落ち、灰色の薄汚れた骨が覗いていた。
 それでも生々しく滴る血は今さっきまで生きていたかのような錯覚を起こさせる。

『これが前城主……僕の父さ』

 楽しそうに口角を上げ、クリスは父といった生首をカイのすぐ目の前までもってきた。カイは目を見開いた。

『……殺したのか?』

『ふふ、可笑しなことを言うね。殺したのかって?
 言うけど、僕は誰も殺してなんていないよ?
 この城の人を殺したのは僕の父なんだから。まぁ、その死体をこの部屋に運んだのは僕だけどね』

『何のために?』

 恐る恐る問い返すと、クリスは目を細め、いつもよりも声色を低くして呟いた。

『友達だからさ。
 みんな友達だって言ったのに、結局この城から逃げ出そうとしたからだよ。
 だから父に言って何処にもいけないようにしたんだ』

 カイは絶句した。それだけの理由で、コレだけの数の人を殺したと言うのだろうか。
 そして、何故誰も殺していないといっているクリスが、己の父の首を持っているのだろうか。

『お前、父親に何させたんだ』

『父に? あの人は僕を恐れていてね、僕の言うことなら何でも聞いてくれた。
 母を勢いあまって殺してしまった日、あいつは罪を封印した。そして狂っていったんだ。
 だから、僕は母の遺体をこの部屋に隠して父を欺いた。
 母は生きているって信じ込ませて、会いたかったら言うことを聞いてってね。
 本当に馬鹿な奴だったよ』

 心のそこから、楽しげに声をあげてクリスは笑った。
 カイに言える事は一つだけだった。

『狂ってる。お前狂ってるよ』

 カイは嫌悪の眼差しで、クリスを睨み付けた。
 クリスは笑みを消すと、少し驚いたようにカイを見た。

『僕が狂っているって?
 ははは、まさか。狂っていたのは僕の父さ。
 だって母を殺したのは父なんだから。そして父は僕すらも殺そうとした。だから、この部屋に閉じ込めておいたのさ。
 殺したのは僕じゃない。あいつは自分でこの窓から身を投げたのだから』

 クリスはまっすぐにカイのすぐ隣を指差した。
 そこには、城周りを見渡せる窓があった。カイは窓を覗き込んだ。地面まで数メートルはあるだろうか。丁度下には、毎朝水をやっている薔薇の花壇があった。

『でも、あいつも只じゃ死んでくれなかったよ。
 僕に忌まわしい呪術を施していったんだ。
 見てよ、数百年経った今でも、僕はこの姿のまま年をとることも無く生きている。
 それなのに皆いつか去っていく。
 呪術のせいで、僕はこの城から出ることが出来ない。
 だから、とても寂しいんだ。あいつのせいで、僕は一人ぼっちさ』

 そういってクリスは自嘲気味に笑う。たった一人で数百の時を生きてきた寂しさ、虚しさ。その悲しみを自分自身であざ笑っているかのように。
 クリスはうつむくと、小さく肩を震えさせた。
 初め、泣いているようなその姿に、カイは手を伸ばそうとした。

『っく、ふふふ……あはははは……。
 なんてね。別に父を恨んでなんて無いさ。だってこんなに素敵な生活が出来るんだもの。
 不自由なんてあるわけ無いよ』

『何故、お前は平気なんだ……? 皆死んで、お前一人になって、何でそうやって笑っていられるんだ』

 正気ではいられないはずだ。こうしておぞましい死体に囲まれて、誰一人いない城でたった一人でいることなど、普通の感覚ではない。
 そう、この少年は正気ではないのだ。殺人鬼と化した前城主よりも狂っているのかもしれない。
 薄っすらと微笑む天使のような顔で、悪魔よりも残虐に人の命を弄んでいるのだ。

『だって、皆一緒にいてくれるからだよ。ずっと、一緒だ。
 カイ、君だってそばに居てくれるだろう? 友達なんだから』

 冷たく、無邪気に笑う。カイは戦慄した。
 クリスの何処までも深く澄んだ深緑の瞳は、初めから笑ってはいなかった。カイを見つめ、映し出し、逃がさぬようにと鋭く光を宿していた。
 クリスは薄く綺麗に微笑むと、ゆっくりとカイのほうへ近づいてきた。

『カイ、君も僕のものになって……友達でしょう?』

 ゆっくりと、その細い指先をカイの首に伸ばす。
 触れた指は、死人のごとく氷のように冷たかった。カイは声が出せなかった。絡められた指に、力が込められる。
 華奢な少年の力とは思えないほど、クリスの指先はカイの咽に食い込んだ。

『っ……ヤメ…ロ……』

 空いている手で、クリスの指を遠ざけようとするが、クリスの腕はびくともしなかった。
 息が苦しくなり、カイの意識が朦朧としてきた。それでもカイは必至に抗った。
 身体を大きくひねり、クリスの指に爪を立てる。
 クリスの指からは深紅の色をした血が流れていた。
 それにもかかわらず、力は強まる一方だった。

『くっそ……はなせぇ!!』

 渾身の力を込めて、カイはクリスの胸を押した。
 一瞬クリスの身体が浮いたかと思うと、カイの首に絡められていた指は力が抜けたように離れた。
 その隙を見て、カイは窓を覗いた。下までそれなりの高さはあるが、運がよければ助かるかもしれない。このままこの場所で、狂気に満ちた人間に無残に殺されるよりは、飛び降りて骨の二、三本折る方がよほどマシだった。
 窓枠に手をかけると、カイは神に祈りながら飛び降りた。
 落ちていく中、クリスの声が耳に残った。

『君も僕から逃げると言うの!? カイ……君を呪ってあげる。
 永遠に呪ってやる!!』

 カイが地面に衝突するまで、クリスは呪詛を叫び続けた。

『うわぁぁぁぁぁ!!』

 カイは、薔薇の花壇へと落下していった。
 そして、ほんの一瞬のことなのかもしれないが、意識を失った。

 カイは時間にすれば数十秒ほどで意識を取り戻した。
 左の腕が酷く痛む。寒さと肌を刺す薔薇の棘に痛みを感じながら、カイは立ち上がった。
 左腕は骨折とまでは行かないが、酷い状態だった。茨が深く突き刺さり、白い骨が覗いていた。
 しかし、この茨がクッションになったおかげで、無事に着地できたことを感謝せずにはいられなかった。
 辺りは耳に痛いほど、静寂だった。物音一つ無い。
 不気味なことに変わり無いが、今は一刻も早くこの場を離れたかった。
 痛む左腕を無事だった右腕で支え、カイは門へ向かって歩き出した。

 ようやく門を抜け、町に踏み出したカイは、取り合えず孤児院に向かった。
 決して快く迎えてなどくれないだろうが、それでも行ける場所はそこしかなかった。

『ッつ……』

 孤児院の前まで来ると、急にカイはクリスに絞められた首が痛み出した。
 あまりの痛みにカイは悲鳴をあげそうになった。
 だが、声は出なかった。声だけではない。何も聞こえないのだ。風の音も、自分の足音も、音が消えてしまったのだ。
 カイは声を出そうと、大きく息を吸ったが、結局声は出なかった。
 あまりの衝撃にカイはその場に座り込んだ。
 全身の痛みと共に、身体が今にも倒れそうだった。頭の中はもう何も考えられなかった。ただ、薄れ行く意識の中で、ぼんやりと孤児院から誰かが出てきたのが分かった。
 そこで意識は完全に途切れていた。

 

 温かな心地よいぬくもりに、カイは寝返りを打った。
 痛みももう感じなかった。
 うっすらと差し込んできた光に、カイは目を薄く開けた。
 古ぼけた、染みだらけの簡素な天井が見えた。そして横を見ると、見覚えのある懐かしい部屋が見渡せた。
 そう、ココは一ヶ月前まで住んでいた家。カイにとって家族同然の者たちが住んでいる孤児院だった。

『カイ? 目覚めた?』

 突然視界がさえぎられた。
 黒髪のかわいらしい少女が、カイを真上から覗き込んだのだ。
 カイは驚きの声を上げようとした。だが、声は出なかった。
 そして口を開いて何かを言った少女の言葉も聞こえることはなかった。

『どうしたの? あ、院長……』

 黒髪の少女は視線を部屋の入り口に向けた。そこには長い法衣に良く似た服をまとった老婆がいた。この孤児院を管理している院長だった。

『アン、カイは病み上がりなのですよ。
 あまりうるさくしてはいけません』

 院長の口も数回動いた。カイは二人が何かを言っていることは理解できた。だが、その言葉は聞こえることは無かった。

『でも院長、私もう行かなくてはいけないの。先にカイに話しておきたいわ』

 アンは頬を膨らませてそう言った。そのしぐさがなんとも言えず子供っぽく、可愛らしかった。

『……いいでしょう。でもあまり無理をさせないように』

 院長はそれだけ言うと、部屋から出て行った。

『カイ、貴方馬鹿よね。あんなに素敵なお城、辞職するなんて。
 しかも薔薇の花壇を荒らして執事にぶっ飛ばされて追い出されたなんて、笑い話にもならないわ。
 でもお陰で今度は私があのお城に行くことになったのよ。
 そこら辺はお礼を言っておくわ。本当の事言うとね、私あなたが先に就職したの羨ましかったの。
 だから、あんな事言って怖がらせた。カイ、昔から怪談とか嫌いだったから……嫌みったらしくてゴメンね』

 アンはすこし困ったように笑った。
 だが、カイにその言葉が届いていないことをアンは知らない。

『私、カイの分もしっかり働いてくるね。
 カイも早く元気になって、一緒に仕事しようね。
 ……じゃ、私もう行くわね』

 最後に呟いた言葉は、少し寂しげだった。
 カイとの別れを惜しむかのように、アンはカイの額にキスをすると、頬を染め走り去っていった。
 カイはベッドから起き上がると、ベッドの隣に置いてあった鏡を手にとった。
 いつもよりも少しばかりやつれた顔が鏡に映った。
 そして首元を映すと、そこには紫色の痣があった。悪魔にでもつかまれたように、人間離れした指の跡。それが今までの事が夢でないことを物語っていた。

 ――――呪ってやる

 クリスの最後の言葉は、カイに呪詛をかけるものだったのだ。
 結果、カイは音を失った。もう何も聞こえることなく、言うことが出来ない。
 孤児院で育ったカイに、文字は読めるものでも書けるものでもなかった。
 最後にアンはなんと言っていただろうか?それすらも知ることが出来ない。
 カイは命が助かった変わりに、音を失った。
 城での出来事を誰かに伝える手段すらなかった。絶望的にカイはその場に座りこんだ。
 そして瞳から涙が一筋、伝った。
 すべて終わったのだ。恐ろしい音も、もう無い。それでもカイは涙が止まらなかった。

 ――――人はこのお城を、無音の城と呼びました。
 ――――そして無音の城は今でも新しい誰かを待っているのです。

 

FIN