始まりの魔女 -4-

 

 空は青く、地は白く染まるラウェリアの五十六回目の冬。

 静けさに包まれた王城の一角に、不吉なほど黒く歪んだ影があった。

 見るものにはただの蜃気楼か、白昼夢の幻のように映るだろうそれは、古より存在してきた災厄の象徴。暗い深淵の闇の中で邪気を孕み、欲望のまま人々を脅かすもの。

 影はゆっくりと移動しながら、壁をすり抜け、やがて王城の暗闇へと消えて行く。その先には、安らかな眠りにつく衛兵達の宿舎や、侍女に与えられた部屋。そして城の最奥部、王のいる聖域へ、影は狂気の刃を隠し静寂に紛れて忍び寄る。

 その様を一人の人物が口角をあげて見守っていた。

 心を闇に染め魔道に落ちたその者は、ただ成り行きを忍んで見守るだけ――。

 
 
 
 

 ――夢を見た。

 雪のように白い回廊を、ゆっくりと歩き続ける。窓も壁も見当たらない。全てが白すぎて、まるで視覚が麻痺してしまったかのような感覚を覚える。瞳を閉じても開いても、少女の瞳に映るものは同じ。ただ、溶けてしまいそうなほどに白い回廊を、真っ直ぐに進むだけ。

 何処からか歌が聞こえた。

 透明な声で紡がれるのは、星の物語。

 遠い過去、神が地上に遣わした十二の力持つ賢者を讃える歌。

 透きとおるような歌声に惹かれて、少女は純白の螺旋階段を上った。

 少しずつ、遠くだった歌声が近づいてくる。

 果てしなく続くと思われた階段の終着点が見えた。白い階段の先には、純白に映える真紅の豪奢な扉がひとつ、少女を待ち受けていたかのように佇んでいた。

 誘われるように、少女は扉に近付いた。

 ――開けてはいけない。

 心のどこかで、誰かがそう叫ぶ。

 扉へと伸ばした少女の手が、僅かに動きを止めた。

 それでも少女の体は自然に動き、一歩一歩確実に扉へと近付いて行く。

 少女は立ち止まろうとした。

 ――見てはいけない。この先にあるものを。

 直感とも言うべき何かが少女にそう告げる。

(行ってはいけない。これは全部、忘れた記憶。思い出してはいけない)

 少女は踵を返して階段を下りようと、体に命令した。しかし、少女の体は意思に反して動けなかった。

 歌声が一層強く聞こえる。

 ――駄目だ。これ以上、この場所にいてはいけない。

 留めなく溢れる恐怖。身体が震え、頭から血の気が引いていく。白い空間の中で、少女は声を張り上げようとした。けれど、その声すらも音にならない。

 ゆっくりと、少女は扉に引き寄せられる。抗う事は出来なかった。

 少女は扉にそっと触れた。

 その瞬間。全ての景色が一変した。

 赤い赤い、百年の眠りも覚めるような赤い部屋。白い壁と絨毯に飛び散った赤い飛沫。

 歌声は、もう聞こえない。

 部屋の真ん中には、鋭利なナイフを胸に突き立てられて崩れ落ちる一人の女と、それを悲しげに見つめる男の姿。

 それは少女の良く知る人物。

 ――亡き母と、冷淡なまでに冷たい父の姿。

 少女は目を覆い、絹を引き裂くような叫びを上げた。

 そして、意識は深い闇へと落ちて行く。何処までも何処までも深い漆黒の暗闇に、少女は意識を投げ出した。

 
 
 
 

「姉上?」

 誰かに呼ばれ、王妃となった少女は我に返り、ぼんやりとしていた意識を覚醒させた。

 一番最初に映りこんできた色彩は、鮮やかな春の色。そして自分と同じ緑柱石色の瞳が、不安気にこちらをのぞきこんでいた。

 レイリーは襲い来る眩暈に軽く額を押さえ、次第に鮮明になる意識で相手を判別した。

 そこにいたのは、彼女のたった一人の妹シェリルだった。

「ごめん、なさい。ちょっと気分が悪かったの」

 心配しないで、と妹の柔らかな春色の頭に手を伸ばし、そっと優しく撫で付けるように触れる。

 それでもシェリルは心配そうに姉を見た。

 最近の姉は顔色が悪い。普段から抜けるように白い肌をしていたけれど、今のレイリーは青ざめてすらいる。心なしか痩せた体躯に、遠くを見つめる瞳は、輝きが失われてしまったかのよう。表情からは生気が抜け、今にも儚く消えてしまいそうだ。それでもやはり、レイリーは誰よりも美しい。

 気のせいだろう。最初はそう思っていた。しかし、毎度こう顔色が優れないと、要らぬ心配をしてしまう。

 王家という立場、重なる公務で疲れが溜まっているのでは? とも思うが、王妃であるレイリーにそれほど過酷な仕事は無いはずだ。シェリルの窺い知れぬところで、レイリーの負担になるような仕事があったとしても、セイファンが考慮してくれるだろう。ならば、何が原因なのだろうか。シェリルには答えがわからず、ただ探るように姉を見るしかできなかった。

「最近とても冷え込むから、温かい着物を羽織ってくださいね。姉上はもう一人身ではないのですから」

 シェリルは姉のいつもならほっそりしている腹部を見た。華奢な姉にいささか不自然なほど大きく膨れたそれは、次期に聖ラウェリア国に新たな喜びを運んでくるだろう。

 王位を継承したセイファン・セーレスティリアは民の信頼に答え、良き王であると言えた、独りよがりな思想は持たず、臣民の声には注意深く耳を傾け、豊かで穏やかな国づくりを進めていた。他国と友好関係を築く為に貢献し、税を軽くできるよう貴族へ贅沢も禁じた。勿論、貴族の方からはやや不満の声が上がったが、それでも歳若い名君を讃える民の声の方が圧倒的に多く、誰も面と向かって不満を言うものはいなかった。

 そして、二人が婚礼の儀をあげてから役一年の月日が流れ、レイリーはめでたく御子を身ごもった。鈍い姉は妊娠当初「太ったかしら?」などとのん気な言葉を口走っていた事を思い出し、シェリルは思わず口元が緩む。そろそろ日数的にも、いつ生まれてもおかしくは無い頃だ。シェリルは勿論、レイリーもセイファンも御子が生まれる日をただ心待ちにしていた。

 民衆からは毎日のように祝福の言葉が送られ、セイファンもレイリーも幸せの絶頂にあると言えた。

 しかし、何か心に引っ掛かる不安が込み上げて、シェリルは毎日のように姉に会いに来ていた。

 不本意ではあるが、王弟アルフォンスの呼び出しと言う名目で。

「大丈夫よ。だって私セイファンも、この子が生まれるのをすごく楽しみにしているんだもの。いつ生まれるのかって、毎日指折り数えるのよ? それに男の子かしら、それとも女の子かしらって」

 口元に手を当てて、レイリーは微笑んだ。

 その様は木漏れ日にたゆたう天使のように美しく、幸せそう。

 シェリルは少しばかり心のわだかまりが消えた気がした。

「私も楽しみだわ。女の子だったら、どんな綺麗な子が生まれてくるのかなって、想像するの。きっと姉上に似てとても綺麗で、セイ様のように賢明であられるんだわ。……間違っても何処かの誰かさんのように、能天気で相変わらず下町遊びの絶えないクソガキに似た子供なんて生まれるはず無いわよね?」

 零れんばかりの笑みを浮かべ、シェリルは姉に問い掛けた。

 するとレイリーは一瞬瞳を瞬いてから、おかしそうに笑った。

「ふふっ、その何処かの誰かさんと毎日遊んでいるのは誰かしら?」

 レイリーは普段よりも意地の悪い笑みを浮かべ、シェリルをからかうように声色を変えて言う。

 すると、シェリルの顔が林檎のように赤く染まる。

 拒絶と否定を込めて、大袈裟なほどに首を振るが、レイリーは口元に扇を当ててくすくすと微笑んだ。

「なっ……ち、違います。あれはただ、一緒にいないと、怪しまれるからで……」

 真実を言えない事を思い出し、シェリルは勢いづいた言葉を濁らせて行く。

 姉に会う為に交わした取引。アルフォンスにシェリルの不思議な力を教える代わり、レイリーに会いに行く口実を作るという約束。毎日皇子に呼び出されるわけなのだから、よからぬ噂が立ったとしても不思議ではない。ただ、シェリルとアルフォンスを知るレイリーの目に、二人の仲が良くなったと思われるのは心外だ。

 あくまでも正当な取引であり、シェリルにとってはレイリーに会える事が一番の理由。

 それでも、本音を言うのは躊躇われ、シェリルは言葉を失って押し黙る。

「まあ、いいわ。そう言うことにしてあげる」

 くすくすっと微笑む姉を横目に、シェリルは今更アルフォンスと共にいた事を後悔した。

 仮にもうら若い年頃の少女だ。婚礼までいかなくとも、恋への憧れはある。それを、あの問題皇子に潰されてしまうのは御免だ。いつかきっと、婿探しをしようと思いつつ、それでも今のシェリルにはレイリー以外に構っていられる余裕は無かった。

 けれど、何が悲しくて自己中の破天荒皇子と勘違いされるのか。シェリルは心の中で深い溜息を吐いた。

「アルフォンス皇子だって、私みたいな粗野でお転婆な女はごめんだって言っていましたわ」

 その言葉を言われた時は、むっと苛立ちを覚えるのと同時に、心の奥底が微かに痛んだ気もした。だが、誰だって面と向かって悪口を言われれば心は痛む。これもその一つだと、そう思って忘れるつもりだった。しかし、些細な事で口論した時の言葉だとしても、彼の言葉は刃の如く胸に突き刺さり、今も見えない傷を残していた。

「あら、アルフォンスはそんな事を言ったの?」

 意外、とでも言いた気にレイリーは少しばかり驚いたように、瞳をぱちりと瞬く。

 予想外の言葉に、シェリルは再び頭を抱える。

「言いましたわ。……喧嘩した時に」

 そう、アルフォンスはお世辞にも優しい性格ではなく、一時彼に心を許したシェリルはそれを死ぬほど後悔していた。いつまで経っても、アルフォンスはアルフォンスだ。年を重ねても悪戯好きの問題皇子。特に最近は柄が悪くなったように思う。

 だけど、弱みを握られているようなものなので、シェリルは彼を突き放す事ができない。

 約束と言う名の束縛が、シェリルの言動を制限する。

 約束の一つは、姉に会う口実を作ってくれている事。

 もう一つは、隠し通してきたシェリルの不思議な「能力」を誰にも言いふらさない事。

 彼がこの二つの約束を守ってくれているうちは、離れることもできない。まったく、性質の悪い約束だと、本気で思う。

「二人とも、素直じゃないんだから」

 小さく呟いた姉の言葉に、シェリルは口をぽっかりと開き、手にしたティーカップを思わず床に落としてしまう。絨毯が敷き詰められた部屋なので、カップは割れなかったけれど、その中身は遠慮なく白い絨毯の上にぶちまけられた。

「あら、大変」

 やはり人とずれている姉は、こんな時でもマイペースに床のカップをぼんやりと見つめ、そう呟いた。

 
 
 
 

「ドルアーノが不穏な動きを見せている」

 薄暗い部屋の奥、大きな寝台に上半身だけを起こした体勢の前王はそう呟いた。

 寝台の回りにいた息子二人は、深刻なその言葉に気付かれないように息を呑んだ。

「……父上が王位を僕に渡したからですか?」

 聡い現国王、セイファンは父王にそう尋ねた。すると、父王は押し黙り、小さく首を縦に振った。

 セイファンは困ったように眉宇を潜めた。

 王弟ドルアーノ。セイファンとアルフォンスの叔父にあたる、昨年王位を継ぐはずだった男は、その夢を若すぎるセイファンにより奪われた。だが、継承式での叔父は、優しくセイファンとレイリーを祝福してくれていたかのように見えた。父王よりも大分若いドルアーノは、精悍に整った顔立ちを崩し、心から喜んでくれなかっただろうか?

 表向きと言うには叔父の態度は自然で、何かを企てているようには見えなかった。

 けれど今更、不穏な動きを見せているとはどう言うことなのだろう。

「ドルアーノは腹黒い男。わしにも奴の考えは押し測れぬ」

 弟といっても、前王とドルアーノは腹違いの兄弟であった。父王ファンは側室の子であったが、嫡子でもあった。故に、世襲制の聖ラウェリア国の王として、正室の子であったドルアーノを差し置いて王位を授かった。

 ファンとドルアーノは歳が離れすぎていたせいか、お互いに深い交流も愛情も無く、王位継承を経て間に亀裂が生じ、冷戦に近い関係が続いていた。

「だから、叔父を暗殺するとでも?」

 セイファンの向かい側に腰を下ろしていたアルフォンスは、軽く鼻で笑いそう言う。

 すぐさまセイファンが弟の失言をたしなめる様に目で訴えかける。だが、前王はその言葉に首を振った。

「いや、ラウェリアは今が大事な時。建国五十年を迎えたばかりだというのに、国の中枢が争いを起こしてどうする? 民の不安を煽ってはいけない。それに、他国につけいられる隙を生む。ラウェリアを思うのなら、今はじっと耐えるべきだ」

 決して小国というわけではないけれど、それでも完全に安定しないラウェリアを混乱させる事は得策といえない。勿論、それが壮絶な王位争いに発展する前に何とか対策を考えなければいけないけれど、それでも今の平穏を乱すことは国の崩壊をもたらす。

 暗殺をするのは簡単だ。

 だが、それで新たな私怨を生み、争いの連鎖のきっかけとならないとは言えない。憎悪や恨みの負の感情は、いつしか国に悪影響を与えるだろう。

 何か良い提案はないかと、セイファンは思考をめぐらせた。

「セイファン、アルフォンス。今はドルアーノの周辺に警戒し、奴の動きを探るのだ」

 良い策がない以上、警戒するに越した事はない。

 たとえ受身になろうとも、こちらはまだ王位を持つものとして有利な立場にあるはずだ。ドルアーノも、分かりやすい暗殺などを仕掛けたならば、民の不審を招き王として認めてもらえなくなるだろう。

 ならば、今は息を潜めて成り行きを見守るしかない。

 二人の息子は真剣な面持ちで、前王の言葉に深く頷いた。

 まだ、こちらが動く時ではない、と――。

 
 
 
 

 前王の部屋より戻るため、二人の兄弟は黙々と長い廊下を歩き続けた。

 セイファンはいつもの癖で、少しばかり伸びてきた純白の髪の毛を弄りながら、それでも意識ここにあらずといった感じで虚空を見据えながら深く考え込んでいる。

 恐らく、ドルアーノへの対策を考えているのだろう。

 若くとも用心深く責任感の強いラウェリアの現王は、些細な事だろうと深く考えてから決断を下す。今回のように大事になりそうな火種は、早々に摘み取らねばと考えているのだろう。だが、その考えは決め手に欠け、結局は収拾がつかなくなると考えが行き着いていることも、長年共に育ってきたアルフォンスにはすぐに分かった。

 セイファンは基本的に争いごとを好まない、穏やかな王だ。

 ドルアーノのことも、話し合いや左遷と言った手段で治まるならば、それを選ぶだろう。

 しかし、それでは根本的な解決には繋がらず、現状は変わらない。

 今後の憂いを除き、円満に済ませるには、やはり火種を完全に消すしかない。

 王位を狙っていると分かる現場さえ抑える事ができれば、それを口実に裁くことができる。アルフォンスは自ら手を下したって構わないとさえ思っている。ファンとドルアーノとは違い、アルフォンスに野心はない。心から兄であるセイファンを尊敬し、助けとなるべく尽力していくつもりだ。彼のためならば、手を汚す事など厭わない。しかし、潔癖なセイファンはそれを快く思わないだろう。

 今は父の言うとおり、静かに時を待つしかないのだろうか。

「兄様」

 アルフォンスに呼ばれ、セイファンは深く考え込んでいた意識を現実に引き戻し、後ろを振り返った。

「アル、どうしたんだい?」

 珍しく真面目な声色で話し掛けられたので、セイファンは心のうちで驚きながら、漆黒の瞳の青年を見た。アルフォンスは一度視線を床に落としてから、再びセイファンと視線を結ぶ。

「あのさ、ちょっとだけ話したい事があるんだ」

 セイファンは立ち止まり、弟の話に耳を貸すべく、「なんだい?」と言葉を投げかける。

 アルフォンスはセイファンの先を歩き、少しの間隔を空けたところで立ち止まった。

 両手を頭の後ろに回し、振り向かないまま呟く。

「俺、国を出ようと思ってるんだ」

 その言葉にセイファンは動揺を隠せず、頭が理解するよりも早く問い返していた。

「何故?」

 静寂に包まれた廊下に、セイファンの良く通る声が響く。

「……俺も色々と考えてたんだ。兄様が王位を継いで、俺は何をするべきかって。今はまだ、俺には何もできないんだと思う。だけど広い世界をこの目で見て、少しでも兄様の役に立てる見聞を得てみようと思うんだ。勿論、それだけじゃない。俺にできること、やりたいことを自分で探したいんだ」

 いつまでも皇子という地位に甘んじていては、人の短い人生を無駄にしてしまう気がして、アルフォンスは自分の満足できる生き方を探した。子供の頃より、自分の楽しみを見つけるために下町に出でては来る日も来る日も暴れ遊び、それでも満足することは無かった。

 何かが足りない。

 何がだろうか。

 身分を隠したアフォンスは、下町と言う世界では一人の子供だった。何も持たず、血筋や肩書きのないそこで、アルフォンスと言う人間を認めてもらいたかったのかもしれない。狭い王宮の世界ではないそこは、アルフォンスにとって未知の領域だった。希望と挫折が隣り合わせに存在し、万華鏡のように姿を変える世界。

 聖ラウェリア国を出れば、王家の名などなんの意味も持たず、個だけが評価される。そこで生き抜く力を得ることが、アルフォンスの未来を築く一歩になるような気がした。

 悩んだ末、アルフォンスは決断を出した。

「叔父さんのことでもめている時に時に何を言い出すんだって感じかもしれないけど、でも、もう決めたんだ。明日の早朝、出発する」

「……アル」

 弟の突然の告白を胸の内で繰り返し、セイファンは何と言って良いのか分からず口を閉ざした。掛け替えのないたった一人の弟。それがセイファンの手の届かぬ場所へ巣立つという。しかし、セイファンにアルフォンスの決意を止める権利はない。いつも無邪気に遊んでばかりいた弟が、自らの人生を選び取ろうとしている。それは、寂しくなると思う反面、とても喜ばしいことであった。

「俺さ、やってる事目茶苦茶だしまだまだ子供だと思う。でも、これからはもっと自分の為にも、誰かの役に立てるように生きていこうと思うんだ」

 いつまでも悪戯皇子ではいられない。

 日々成長し、大きくなる兄の背を見ているうちに、そう思う心が芽生えてきた。

 セイファンはどこか寂しそうに、それでもいつもの穏やかな笑みを浮かべた。

「アルがそう決めたのなら、僕は何も言わないよ。ただ、ラウェリアは君の国でもあるのだから、いつでも戻ってくるといい」

 たとえ彼が地位としがらみを全て捨てる覚悟だとしても、王城は彼の家。国は彼の故郷。

 疲れたなら帰ればいい。いつでも休む場所はあるのだから。

 その言葉に、アルフォンスは照れくさそうに笑いながら振り返った。

「ああ、もちろんすぐ帰ってくるさ。兄様の子供ももうすぐ生まれるしな」

 その言葉に、セイファンは美しい妻の顔を思い出す。確か今はシェリルと楽しく談話している所だろう。

「そうだね、……アルフォンス。ドルアーノの事は僕に任せて。君が戻る時までには、必ず平穏な日々に戻っていると約束するよ」

「ああ。まあ、やばくなったらいつでも呼びもどしてよ。俺もドルアーノ退治に付き合ってやるからさ」

 そう言ってアルフォンスはいつもの悪戯好きの笑みを浮かべる。少しばかり、いつもよりも大人びた表情で。

 セイファンはそんな弟に、苦笑する。

(意外とあてにされていないかな)

 もう兄の後を追っていた少年ではない。成長していたのは、セイファンだけではないのだから。

 二人が共に笑いあうことの出来た最後の時間。

 それを暗闇の奥底から覗き見る影が、口元に下卑た笑みを浮かべ邪な瞳をそっと細めた。

 だが、やはりそれに気付くものは誰一人としていなかった。

 暗闇が空を覆い尽くした時、闇に紛れた狂気は息を潜めて動き出す。

 やがて過去の悪夢は蘇り、再び血で血を洗う未来が訪れる。

 それでも、誰一人それに気付く事は出来なかった――。