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始まりの魔女

第七話

シェリルは息を呑んだ。全てが夢であればいいと、心の底からそう願い、ただ過ぎ去る時間を呆然と眺める。
近付いてきた人物は、他の誰でもなくドルアーノ。そして彼の周りには、不自然なほど歪んだ黒い影が見えた。恐らく他の人間には見えないそれは、先ほどまでレイリーの心を毒していたもの。シェリルが少しばかり消し去った、黒い気の塊だった。
それを見た瞬間、シェリルは止まりかけていた思考が一気に回転し始め、考えたくも無い予測が思い浮かぶ。
今、ここにドルアーノが自ら赴いてきた理由は、一つだけ。王位を狙う彼だから、その目的は容易に想像できた。そして、周りの状況を見て、シェリルは不安を隠さずにはいられなかった。確かに、ドルアーノの最初の目論みは失敗した。レイリーは自らの意志でドルアーノを心から追い出し、全ての元凶となった力を封じる為に自ら命を絶とうとした。だが、それはシェリルの手によって阻まれ、レイリーは今、シェリルの腕の中でぐったりと意識を手放しかけている。レイリーの命も、セイファンの命も救われた。それなのに、込み上げる感情は不安と言う暗い影だけ。
セイファンも同じく緊張した面持ちで、歓迎されざる訪問者を表面だけの笑顔で迎え入れようとしていた。
「セイファン王。一体この惨劇はどうなされた?」
四十になるドルアーノは、年齢の割に若々しく彫刻のように整った顔をしていた。どこかセイファンに似た雰囲気を纏い、それでも彼の黒い瞳には鋭い殺気が宿っている。腰まで届く長く白い髪、陽に焼けない白い肌、層を重ねた服装は優雅な青灰色で、それが彼の中性的な雰囲気を醸し出していた。雄雄しい前王とは似ても似つかない人だった。
見た目は白く美しい人だけれど、シェリルの瞳には彼が悪魔よりも醜悪な存在に思えた。身に纏う黒い気配がそうさせるのかもしれない。今まで彼に会った時、何故気付かなかったのだろう。気付いていれば、何らかの対策が出来ていたかもしれないというのに。歯がゆさに、シェリルはきつく唇を噛む。今更ながらに、自身の鈍感さに怒りを感じる。もっと早くに気付くべきだったのだ。
――紛れも無く彼が悪魔と契りを交わし、魔道に堕ちていたと言う事を。
「叔父上、驚かせてしまったようですね。どうぞお気になさらないで下さい。ちょっとした事故ですから」
セイファンは偽りの仮面を張りつけたかのように柔らかい微笑を浮かべて、落ち着いた様子で答えた。
シェリルは急に腕に重みを感じ、視線を落とす。レイリーは疲れ果てたように、力なくシェリルの腕に身を預け、意識を手放したようだった。シェリルはか細いその肢体を抱きしめ、強くドルアーノを睨みつけた。すると、ドルアーノがシェリルを横目に見やり、口元に下卑た笑みを浮かべた気がした。だが、すぐにドルアーノの視線はセイファンに戻る。シェリルは不快な行動に眉宇を潜めた。
「ちょっとした事故で、城を半壊させたと?」
ドルアーノはわざとらしく、辺りを見回した。瓦礫の山となった部屋は殺伐として、昨日までの美しく飾られていたことが嘘のようだった。だが、城が半壊するまでは至ってはいない。部屋とその周辺の壁と屋根が吹き飛んだくらいで、それ以上の被害は無い筈だ。そうでなければシェリルが必死に庇った意味がなくなってしまう。幸いここは王城の最上階であり、近くの部屋は誰もいない。シェリルと生まれたばかりの御子が休んでいた部屋は、力が放たれた方向とは逆にあったため、そちらの壁は無事だったし、部屋の中も心配しないで大丈夫だろう。被害は、広すぎるセイファンとレイリーの部屋だけが受けたものだ。
「ええ。どうやら私が薪と間違えて暖炉に火薬の塊を放り込んでしまったようです」
冗談めいた口調で、セイファンはそう言いきった。ドルアーノの柳眉が微かに歪む。
「ほう、火薬とな。では誰かが貴方のお命を狙っての犯行かもしれませんな。そう言えば、何故王妃の妹君が夜も更けるお時間にこちらにおいでなのですか?」
話が急にシェリルに振られ、シェリルは驚きのあまり心臓が跳ね上がるかと思った。だが、平静を装い、余所行きの笑顔を浮かべ、セイファンと同じように受け答える。
「私は陛下が姉上につきっきりでは疲れてしまうと思い、役を交代しようと部屋にお邪魔しただけですわ、ドルアーノ様。ですが突然このような有様でして、ね。確かに……何者かが陛下のお命を狙っているのかもしれませんわね」
ドルアーノの目を真っ直ぐに見つめ、シェリルは声色高々に言う。すると微かにドルアーノの表情が怒りに歪んだ気がした。シェリルは尚も続けた。
「ドルアーノ様は随分と早くに駆けつけましたのね。確かに、すごい爆音ではありましたけれど、どの部屋が爆発したとすぐにお分かりになるなど、素晴らしい察知能力ですわ」
鮮やかな笑みを讃え、シェリルはドルアーノの心に潜む感情を読み取ろうとした。
微かに、彼が動揺しているのが冷たい空気を挟んで感じられる。それでもドルアーノは表情に出さずに、シェリルの言葉に苦々しい笑顔で答えた。
「何かあれば陛下をお守りする事が第一だと考えただけですよ」
大声で、嘘だと言い切りたい衝動に駆られるが、シェリルは短く「そうですか」と答えて留まった。
一時的な沈黙が流れ、空気は張り詰めたように冷たく、少し動けば体が引き裂かれそうな錯覚に陥りそうだ。
僅かな無音の空間に、先に音を吐き出したのはドルアーノだった。
「陛下、大変心苦しいのですが、我等が駆けつけた理由はもう一つあるのです。何を隠そう、陛下のお命を狙ったのは他の誰でもなく、王妃様ではないかと報告がありましてな。……王妃様の不審な行動を見たという者が大勢いるのですよ」
ドルアーノに連れられてきた衛兵達がざわめいた。
シェリルとセイファンは背中に冷たいものが流れるのを感じた。
「……王妃は呪術を扱うと噂されている」
シェリルはそれはドルアーノのほうだ、と叫びたい心地で一杯だった。
だが、否定は出来ない。否定すれば、全てが明るみに出てしまう。シェリルの力も、レイリーの力も。レイリーの場合、たとえドルアーノにやらされていた事だと主張しても、証拠が無い。下手に否定すれば、かえってこちらがぼろを出してしまう。
「馬鹿な。レイリーは見てのとおり、疲れ果ててこの騒ぎでも目を覚まさなかったと言うのに、どうして私の命を狙えよう?」
幸いな事にセイファンはシェリルとレイリーの力を感づかれては不味いと考えたらしい。
庇ってくれた事は嬉しいが、これでは真実が暴かれるのも時間の問題だ。
シェリルは必死に思考をめぐらせた。
「ほう、お眠りになられていましたか。では何故でしょうな……? まぁ、魔道に堕ちた者は眠りながらでもその力を使うのかもしれませんねぇ」
酷く軽薄な、厭らしいとすら感じられる笑みを浮かべ、ドルアーノはレイリーを眺めた。
シェリルはその言葉に、ドルアーノを灼熱の炎で焼き尽くしてしまいたい衝動に駆られる。
だが、それよりも早く、ドルアーノは更に言葉を続けた。
「陛下は知らなかったのでしょうな。呪われたグローランス家の力を」
「何?」
その言葉にセイファンが動揺した事が、空気の流れを感じ取る事の出来るシェリルには分かった。
それでも、今のシェリルに何か出来る事は無く、ただ呆然と流されていくだけだ。
「もう十五年以上経ちますかな、当時グローランス家に嫁いでこられた姫君は不思議な力を持っていたらしく、それ故に夫であるグローランス公爵に葬られたと聞いています。……記録では魔道に堕ちた者を処したと。その血を受け継ぐ王妃が、呪われていないと言い切れますかな?」
シェリルは絶句した。
母はシェリルがまだ赤子だった時に亡くなったと聞いている。実際の母の記憶は全くといっていいほど無い。だが、ドルアーノの話を完全に否定する事が出来なかった。シェリルは何も知らずに過ごしてきた。しかし、レイリーは違う。姉は母の記憶を鮮明に思い出すことが出来たし、母がどう言う人だったかも教えてくれた。それでも、シェリルが母の死因を尋ねると、決まって困ったように微笑みながらこう言うのだ。
「悪い病気だったのよ」
と。シェリルはその言葉を信じていたし、父が母を殺したなどとは思いたくも無い。それでも、冷徹な父の対応にいつもシェリルは寂しさと不安を抱えていた。何故、愛してくれないのか。何故、いつも監視をつけるような真似をするのか。何故、母の事を口にしないのか。
そして何よりも、シェリルの身に宿るこの力。一体それはどう説明するべきものなのか。込み上げる不安が、シェリルの心を踏み潰そうとする。
「……本当なのか、シェリル?」
静かなセイファンの声が聞こえ、シェリルははっとしたように顔を上げた。
「そ、それは……」
答える事は出来ない。答えてしまえば、全てが終わりを告げてしまう気がした。
いや、これがシェリル一人の問題なのならば、答えただろう。「そうかもしれない」と。だが、これはシェリルだけの問題ではない。シェリルが思わせぶりな言葉を発した途端に、ドルアーノは勝利を確信し、厭らしい笑みを浮かべるだろう。シェリル一人ならばここでドルアーノを八つ裂きにして、全てを打ち明けて国を出ることが出来る。そして一人で逃げながら生きるのだ。だが、それは出来はしない。シェリルは腕の中の姉を覗き込んだ。
一人ではないのだ。レイリーは恐らく今までこの力を使ったことなど無かったのだろう。あるだけの力を暴発させ、気絶してしまう症状は、力を制御できていない証だ。だから、レイリーは一人では生きて行けない。身を守る術など、シェリルの半分も持ち合わせていないのだから。
守らなくてはいけない。
力ない最愛の姉を。幸せに包まれていたセイファンとレイリーの未来を。そのためならば、何を犠牲にしても構わない。
それが、自身に降りかかる災厄だとしても、シェリルは構わない。もとより生きた心地の無い生活だ。不自由も無ければ自由も無い。夢も見つからず、誰かを愛する事も出来ない。人と深く関わる事が己の自滅だと信じてきたこの命。役に立つのならば、闇に捨て去っても良い。
――全ては、愛しい者達の為に。
シェリルは心を決めたように、口元に薄い笑みを浮かべた。
「……本当ですわ。私の母は、魔道に堕ちた身。その呪われた力は血に混じり、受け継がれる」
セイファンは否定してくれると信じていた考えが覆され、さっと青ざめた。
何を言い出すのか! とシェリルの言葉を静止しようと口を開きかけたが、それよりも早くシェリルの口が再び涼やかな声を紡ぎだした。
「でも私達姉妹は父方の……人間の血も混じっているわ。ドルアーノ様、予想が外れて残念ですけど、力を受け継いだのは私だけですわ。何度もそう申し上げたでしょう? 我が主君ドルアーノ。貴方に忠誠を誓ったその日に、私の知る全てを申し上げたはず……。よもやお忘れとは言いませんよね?」
一息のつまりも無く言い終え、シェリルは優美に微笑んだ。
セイファンはシェリルが何を言っているのかよく理解できず、不安げにシェリルを見た。
「何を言っておる……? お前などに忠誠を誓われた覚えは無いぞ」
微かに、ドルアーノの顔が青ざめる。シェリルは満足したように言葉を続けた。
「あら、まさか私を裏切るおつもりでしたの? 我が忠誠は貴方と貴方の掴む王位に誓ったと言うのに。私を間者として送り込み、姉上と陛下を速やかに抹殺せよと仰られたのは、他の誰でもなくドルアーノ様ではありませんか」
くすくすと忍び笑いをして、シェリルは内心自分の演技力を褒めてやる。
セイファンの表情が急に険しくなった。軽蔑するような視線を向けられ、シェリルは泣きたい気分に見舞われる。それでも泣く事はいつだって出来るし、今は周りの注目をドルアーノとシェリルに集めなくてはいけない。衛兵たちが、事の成り行きを見てくれているうちは、全てを偽りながら、ドルアーノを陥れてやらなくてはいけない。そのためには、例えセイファンであろうと欺くだけ。
「陛下……いいえ、セイ様。私は初めからドルアーノ様に仕えていましたのよ? そして、ドルアーノ様が王位をお掴みになった暁には、私を王妃にしてくれると。だって、私達、共に魔道に堕ちた者として、とても親しみを感じていたんですもの」
遠く、誰かを愛しむように、シェリルはドルアーノを見つめた。そして、レイリーをそっと床に寝かせると、おもむろに立ち上がった。
皆が皆、シェリルを凝視していた。
「馬鹿な……、私とお前が通じていただと? そんな夜迷い事などあるものか!」
ドルアーノは眉間に皺を寄せて叫んだ。先ほどまでの余裕は欠片も見当たらなかった。
セイファンは内心気が気じゃなかった。何をする気なのか。シェリルの行動の意味が分からずに、不安だけが込み上げる。
「夜迷い事? 私との仲をそう呼ぶには構いませんけど……、その力は嘘を吐きませんわ」
シェリルは全神経を集中させた。辺りに漂う火気を呼び寄せる。ゆっくりとシェリルの意に従い、力が集っていく。シェリルは右腕を軽やかに前へ差し出した。そして掌をドルアーノに向けて開く。集った火の力が、次第に人の目にも映る、炎を生み出す。炎はごうっと燃え盛り、シェリルが命令すれば飛び出していくだろう。憎たらしい男のもとへと。
ドルアーノの後ろで待機していた衛兵たちが、手品などではないその異端の力を目の当たりにして、恐怖に後退する。
ドルアーノの整った顔も恐怖に歪んだ。シェリルの予想外の行動に、ただただ驚いているかの様子。そして次の瞬間、彼の周りの黒い気配が動き出した。彼を守るために、目に見えない壁を作り上げる。シェリルはそれを目の当たりにして、確信した。
――これで、全てが上手く行く。
「ドルアーノ様、魔道の力を使い防護せねば、貴方は骨まで焼き尽くされますわ」
凛とした声でそう言い、シェリルは掌から炎の塊をドルアーノに向けて放った。
目にもとまらぬ速さで、炎の力を凝縮したそれはドルアーノに真っ直ぐ伸びていく。そして、ドルアーノは耐え切れず、両の腕を前に突き出して、「魔道」の力を使った。己の身可愛さに、衛兵とセイファンが見ている前で、黒い力を使ったのだ。
炎はドルアーノに触れた瞬間、勢い良く燃え盛った。まるで終焉の炎のように、火の粉を飛ばし空高く舞い上がる。暖炉の火など、風前の灯火に見えてしまうほど、シェリルの作り出した炎は熱をもち、地獄の業火にも負けじと燃え上がった。
見ていた者はシェリルを除き、皆息を呑んだ。セイファンも圧倒的なまでに強大なシェリルの力に、ただ信じられないものを見るかのように炎を見つめる。
紅い紅い、目も覚めるような炎。破壊の為にだけ存在する力。
シェリルは微笑んだ。心から悲しく、そして喪失感を噛み締めながら、終わり行く何かをしっかりと感じ取った。
シェリルは再び腕を勢い良く振り上げ、横なぎに払った。すると、シェリルの意志通りに、力によって生み出された突風が、燃え盛る炎を吹き飛ばした。そして、燃え尽きたと思われていたドルアーノは、外傷一つ無く、そこに佇んでいた。
周りの者達が「あっ」っと驚きの声を上げた。
そして、シェリルの力以上に、恐ろしいものを見るようにドルアーノを凝視していた。
ドルアーノは、漆黒の瘴気に守られていた。禍々しいまでの黒く悪意に満ちた冷たい力。シェリルの力とはまったく質の違う、真に呪われたそれは、ドルアーノを守る為に辺りの空気を毒しながら、人の目にはっきりと映る姿で現れていた。
「お、おのれ……! 小娘が!」
荒く肩で息をして、ドルアーノは血走った目でシェリルを睨みつけた。
衛兵たちはどうして良いか分からずに、ただうろたえながらセイファンの指示を待っているようだった。
「……もうこうなればお前は生かしては置けぬ」
ドルアーノはシェリルに向かって腰にさしていた細身の剣を抜いた。そして、シェリルに向かって勢い良く走り出した。
シェリルは怒濤の勢いで剣を振り上げたドルアーノを、虚ろな表情で眺めた。
体は、動こうとはしなかった。避けようと思えば、風を起こして逃げることが出来た。それでも、わざわざ逃げるのは面倒に思われ、シェリルは微かに自嘲の笑みを浮かべる。
(どうせ、結果はおなじなのだから……)
シェリルが切られ、我に返ったセイファンが一言「ドルアーノを捕らえよ」と叫べば、それで全てが元鞘に収まる。全ては反乱を企てたドルアーノとシェリルの意見のすれ違いによる内部争いで、事は未遂のまま二人は互いを殺しあった。そして何も起こらなかった事になる。セイファンとレイリーは今までどおり、幸せな暮らしを続ければいいのだ。ここでシェリルが逃げれば、セイファンの苦労をひとつ増やすだけ。どの道、シェリルが異端者なのは変わりなく、いつしか裁きの日は来る。だが、それを今終わらせてしまえば、レイリーとセイファンの未来は約束される。それで、十分だ。シェリルは、すぐ目の前まで迫った白銀の刃を最後に瞳に映し、そしてゆっくりと瞳を閉じた。誰かが、シェリルの名を呼んだ気がした。それでもシェリルはその声を聞かない振りをした。
――これで、全てが終わり。
もう逃げ続ける生き方はしない。逃げ続ける生き方をたしなめた人がいた。シェリルはそれがとても嬉しかったのに、結局最後まで彼には優しく接する事が出来なかった。「一緒に行こう」と言ったアルフォンスの幼い笑顔が脳裏を過ぎり、シェリルは不意に瞳を開けた。
「アル……フォンス、皇子……」
シェリルの目前に迫った白銀が、耳に痛いほど響く金属音を立てて、火花を散らした。
瞳を開けた先に、シェリルを切り裂くはずだったドルアーノの剣を、横から割り込んできた誰かが止めた。がたっと、床に丸く硬い金属製の兜らしきものが落ちる。シェリルが息を止めて見上げた先に、ドルアーノの刃を短剣で受け止めた衛兵がいた。
黒に近い茶色の癖の無い髪の毛が、シェリルの鼻先に触れそうなほど近くで風になびく。
青ざめたドルアーノなど、目に入らなかった。
ただ、信じられない光景を目の当たりにして、今度はシェリルが驚く番。シェリルを庇った衛兵の青年は、ドルアーノの剣を弾き返すと、素早くシェリルの方へ振り返った。
時間が止まったかと、本気でそう思った。
振り返った青年は、他の誰でもなく旅立ったはずのアルフォンス皇子だった。
その漆黒の瞳が、力強くシェリルを覗き込む。
「アルフォ……っ」
シェリルがその名を呼ぼうとした瞬間、アルフォンスは再び視線を前へと戻し、シェリルの手をきつく掴んで走り出した。今しがた二人のいた場所に、ドルアーノが剣を空振りする。
今にもはちきれそうなほど、怒りに顔を歪め、ドルアーノはシェリルを追ってきた。
「何をしているっ。あの二人を追え!! 何としてでも生け捕りにするのだ」
ドルアーノが突然の事に呆然としている衛兵たちに怒鳴りつけた。衛兵ははっと弾かれたようにアルフォンスとシェリルを目で追う。二人が部屋を出て行くくらいで、ようやく衛兵たちは剣を抜き放ち、重い鎧を身に着けているとは思えない俊敏を発揮して、二人の後を追いかけ始めた。その後に続き、ドルアーノも怒りを露わにしたまま、白い髪を振り乱して部屋を出て行った。
残されたセイファンは、突然の出来事にしばし呆然として、それから急いでレイリーの元へと走りよっていった。
「レイリー」
セイファンは軽くレイリーを揺さぶった。見たところ外傷こそ無いけれど、それでも顔色が酷い。只でさえ衰弱していた体に、鞭打つように力の放出。普通の人間ならば耐え切れない。だが、レイリーは小さく苦しげにうめき、そして薄っすらと瞳をあけた。
「セイファン……」
唇を小さく震わせ、レイリーは視界に入る白い王を呼ぶ。
視界がはっきりしていないのか、レイリーの瞳は虚ろだった。
「私、思い出したの……。お母様の力、私とシェリルに受け継がれたものを……」
蚊の鳴くような細い声でそう言うと、レイリーはセイファンの頬に手を伸ばした。セイファンはその手をしっかりと掴んだ。氷のように冷たく、冷え切っていた。
「私達の、力は……呪いを呼ぶ……」
セイファンはその言葉に、心の内に溜まっていた不安が更に積み重なった気がした。
そう、シェリルがドルアーノの言葉を受け入れた時、微かにその事への憎しみが募った。そして、シェリルの言うとおり、目の前で使われた力が「魔道」ならば、セイファンはそれを裁かなくてはいけない。勿論、シェリルがそうなるように仕向けていた事はわかっていたけれど、セイファンにシェリルは裁けない。あまりにも可哀想で。
だけども、シェリルの力は魔道と呼ぶには神がかりすぎていた。
まるで呼吸の一部のように、軽やかに力を使いこなし、神々しいまでの光を伴う力。
ドルアーノの魔術を見た後では、シェリルの力を「魔道」と呼ぶ事は出来なかった。
それでも、レイリーはこの力を心の底から疎んでいるようだった。
「私達は……生まれたときから呪われていたのね……」
セイファンは小さく首を振った。
震えるレイリーの体を、優しく包みこみ、その額にそっと口付けを落とす。レイリーは安心したように瞳を閉じた。
「ごめんなさい……」
レイリーは小さくそう呟き、やがて呼吸も静かになり、辺りは静寂に包まれた。
セイファンはそっと愛しい妻を抱き上げた。
柔らかい風が吹きぬけ、そう遠くない場所からセイファンのもっとも信頼している兵士長が駆けつけてきた。
セイファンは重たい鎧をガチャリガチャリと軋ませてくる兵士長を横目で見やると、彼が報告の言葉を言うよりも早く、言葉を発した。
「今すぐに出れるものだけでいい。皆を集め、ドルアーノを追え」
その声から、穏やかな響きは消えていた。
もう一陣、風が吹き抜けた後には、瓦礫の山と化した部屋だけが残されていた。