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始まりの魔女

第十話

朧月が西の彼方に沈み、静寂に包まれた夜明けが訪れたのは、セイファンが帰国したばかりの時だった。
あれだけの騒ぎを起こしたと言うのに、国全体は眠りについたかのように静かで、誰一人として王の――未遂ではあったけれど、血生臭い暗殺劇が展開された事など知らぬかのよう。兵士たちも、見回りの数人を残して皆宿舎の方で休んでいるようだった。
王城に帰還したセイファンは、レイリーを寝かしつけた部屋へと向かった。酷く衰弱していた彼女は、それでも最悪の事態だけは免れ、今は寝台で横になっている。生まれたばかりの御子と共に。
長い螺旋階段を昇りきり、セイファンは城の最上階まで来て足を止めた。レイリーと子供が眠っている部屋は、シェリルが休んでいた部屋で、その手前の階段を上がった一番先に目に付くのは、昨晩破壊された王と王妃の部屋。瓦礫の山となっていたはずのその場所は、瓦礫の欠片は勿論、塵一つ存在しなかった。それどころか、扉から扉の前の壁まで、鮮やかな趣向を凝らした装飾が施され、美しく華麗に彩られている。まるで、破壊される前と、何もかも全く同じように。
部屋から一人の侍女が出てきた。セイファンの姿を見止め、麗しく礼をしてから、手に一杯の荷物を持って廊下を去って行った。
信じられないものを目の当たりにし、セイファンは急いで元自分の部屋だった場所の扉を開いた。
間室を抜け、大きな真紅の飾り枠に縁取られた荘厳な扉を押すと、その先には全てが元通りになった部屋が存在していた。花の香を焚いているのか、部屋に入るとほっと安心するような香りが広がっている。瓦礫の山は何処にも見当たらなかった。
セイファンは不安に駆られ、小走りに寝台に近付いた。
寝台には、浅い眠りにつく金の乙女が一人、横たわっていた。安らかな寝息が聞こえ、規則正しく浮き沈みを繰り返すその人は、別の部屋に運んだはずのレイリーだった。
気のせいか、顔色が随分と良くなっているようだった。セイファンは眠るレイリーを起こさないように、そっと部屋を後にしようとした。誰かに、この事を確かめなくてはいけない、とそう思い、レイリーの眠る寝台に背を向ける。そして、一歩踏み出そうとした時、急にセイファンは何か不自然な力で引っ張られている事に気付き、振り返る。そして見下ろした先に、薄く瞳を開け、深い緑柱石色の瞳でこちらを覗き込むレイリーが、セイファンの服の裾を引いていた。
「ごめん、起こしてしまった?」
レイリーは静かに首を横に振った。さらり、と癖のない金の髪が肩から零れ落ち、彼女の動きにあわせてせてサラサラと揺れる。
何故、部屋が元通りになっているのかは分からない。それでも、落ち着いた様子のレイリーを見とめ、セイファンは部屋を出て行く事を後回しにする事にした。
「……セイファン、私とても怖い夢を見たの……。酷く現実的で、恐ろしい夢……」
レイリーは悲しそうに細い眉を潜め、長い睫毛を伏せた。
セイファンはレイリーの隣に腰を下ろし、静かに彼女の言葉に耳を向ける。
「夢の中で、私は憎しみと恐怖に駆られていたわ……。そして、呪われた禁呪を使って全てを焼き尽くしてしまうの。その中に、貴方と……女の子がいたわ。とても可愛らしい子。春色の髪をした子よ。私、自分の意志とはまったく反対に動いてしまうの。誰も、傷つけたくなんてなかったのに、沢山の人を傷つけたわ。……それで私、怖くなって、自分で自分を消そうとした……。そこで夢が終わるの。とても後味の悪い、おかしな夢だわ」
それは夢ではない。そう言いかけた言葉は、不意な一言で飲み込まれた。
「夢の中で、私と貴方には弟と妹がいたの。それも変な話ね……、私達、お互い兄弟なんていないのに……」
レイリーは不思議そうにセイファンの肩越しの空を見つめた。
セイファンは黙ってレイリーの話を聞き続ける。だが、その心の中には困惑の思いが渦巻く。
レイリーは何を言っているのだろうか。何故、セイファンとレイリーに兄弟がいないなどと思うのだろう。彼女は妹であるシェリルを誰よりも愛していたし、アルフォンスとも仲が良かった。だが、不安げに言葉を紡ぐ彼女が嘘を言っている様に思えず、セイファンは再びレイリーの話に耳を傾けた。
「不思議だわ……二人とも夢の中に出てきただけなのに、別れがとても寂しいの。貴方の弟は、私の妹らしい女の子が好きなのに、中々言い出せなくていつも捻くれた態度だったわ。私の妹は、貴方の弟をすごく嫌っていたのに、いつも一緒にいたのよ? 本当に不思議。そして、何か悪い事が立て続きに起きて……、私の中に汚い感情が入り乱れて、どうにかなってしまってた。悪い事が何なのか、全然思い出せないのだけど、それでも私は全てを傷つけてしまおうとしてた……。そして、全てが終わって、夢の中で二人は私を一人残して一緒に何処かへ行ってしまうの。怖かった……。目が覚めたら、何もかも全て無くなっているんじゃないかって……」
レイリーは小さく震えた。
セイファンは不安がるレイリーをそっと抱きしめると、彼女を落ち着かせるために背中を撫で付けてあげた。すると、レイリーの震えは徐々に消えて行った。
「……悪い夢だったね。大丈夫、君は誰も傷つけることなんて出来やしない。呪いの力なんて、使うことは出来ないよ」
だから安心して。
セイファンは浮かび上がる疑問を飲み込んで、愛しい妻を包み込んだ。
「全部、悪い夢だったんだ。ほら、君はもう目を覚ましたから、何も怖がる事ないんだよ。僕はずっと傍にいるから、レイリー……」
全てを夢で片付けてしまうには、あまりにも悲しく切ないけれど、レイリーの心を一番に考えてあげたかった。セイファンは全てに目を瞑る事にした。もう、何もかも終わったのだから、今更レイリーの傷を抉る事などしたくはない。
窓辺から、柔らかな春風が一陣入り込んできた。
セイファンの頬を優しく撫でつけ、やがて反対側のドアへと消えて行った。
「……そうね、全て夢だったのね……」
レイリーは安心したようで、再びセイファンの腕の中で浅い眠りへと落ちていった。セイファンはその安らかな寝顔を覗き込み、思わず苦笑いを浮かべた。やはりレイリーはレイリーで、いつもと同じようにマイペース。それは、掛け替えのない日常の一風景。
セイファンは何気無く、壁にかけてある四人の兄妹の肖像画に視線を向けた。そして、目に映った、見慣れたはずのそれに違和感を感じ、何がおかしいのか目を凝らして見た。肖像画にはセイファンとレイリーだけが描かれていた。前と全く同じ場所に、二人は微笑を浮かべている。そして、もう二人が描かれていたはずの場所は、ぽっかりと空いてしまっていた。まるで、初めからセイファンとレイリーだけが描かれた肖像画であるかのように。
そしてセイファンはようやく事の次第を飲み込む。不自然に全てが元通りになった王城で、只一人だけ気がつく。
――昨夜の事は、全てが悪夢だったと……?
もう一陣、柔らかな風が吹き抜けた。
セイファンはシェリルの最後の言葉を思い出す。セイファンに贖罪し、風と共に消えた春色の少女の最後の願い。それは、何故かセイファンの頭に流れてきた。決して耳にはっきりと聞き取った訳ではないけれど、それは確かに彼女の言葉だった。
――全て忘れて。何もかも全て、私が綺麗に洗い流してしまうから……。
それは声ならぬ想い。
全てが復元された白い王国で、人々は悲しい結末を迎えた姫君の存在を忘れ去る。
そして、彼女が誰よりも愛したレイリーの記憶すらも、シェリルは自らの手で封じてしまった。彼女なりの罪滅ぼしなのかもしれない。だけども。
「僕は忘れない。僕だけは永遠に、君とアルフォンスの事を覚えているから……」
あまりにも哀れな最期を遂げた弟と、その人を想って全てを背負い、人々の前から消えた少女。恐らく、セイファン以外の人は、皆全て忘れ去ってしまっている。それでも、セイファンだけは、決して二人を忘れはしないと、心に誓った。

全てが忘れ去られ、一日の始まりを告げる鐘の音が静寂に包まれた聖ラウェリア国の空へと吸い込まれるように鳴り響いた。
そして、遥か遠くの地で、悪戯に引き起こった戯曲は終わりを告げた。
やがて時は流れ、暗き森に囲われた西の塔に一人の魔女が住まうと言う。
忘れ去られた彼女の事を、人々はこう呼ぶ。
「始まりの魔女」と。

◆◇◆

「そして、王様とお后様はいつまでも、いつまでも、死ぬまで幸せに暮らしました」

寝物語を語る女が、最後の締めの言葉を言い切る。
銀の燭台に灯された明かりに浮かび上がるのは、一人の女と一人の少年。
女は少年の枕もとで、歌うように少年の求めた「物語」を聞かせてあげていた。そして、長い話にようやく終わりがきた。
寝台の上で横になっていた少年は、悲しそうに語り手の女を見上げ、小さく唇を開いた。
「どうして、魔女は幸せにならないの?」
幼さの残る声で、少年は女にそう問い掛ける。女はおかしそうに微笑んだ。
「魔女は幸せじゃった。ただ、それに気付く事が出来なかっただけ」
「でも、その終わり方じゃ……魔女がとても可哀想だよ」
幼い少年は、悲しそうに師である女を見つめる。女はその視線を真正面から優しく受け止め、少年の柔らかな黒髪を撫で付ける。少年は微動せずに、師の答えを待った。
「……そうじゃな……。可哀想だったのかもしれない。じゃが、魔女は下の皇子を失うまでは、確かに幸せだったんじゃよ」
「どうして分かるの?」
問いかけには答えず、女は口元に微笑みを浮かべ、少年の髪をすくいい上げてその白い額に口付けを落とした。
「もう今日は遅いから、その話はまた今度じゃ」
母親が子供にするように、女は優しく少年の毛布を掛け直してやる。そして早々に部屋を出て行こうと身を翻した。が、少年に背を向けた瞬間、女の動きが止まる。女が少年を振り返ると、少年は女の長い髪の毛を捕まえていた。
「僕、師匠のために頑張るから……。嫌いなニンジンも残さず食べるから……師匠は、幸せでいてね?」
子供らしい邪気のない気持ちを伝えられて、女は驚いたような、嬉しそうな、なんともいえない表情を浮かべる。
「そうじゃな。こんなにも嬉しい事を言ってくれる弟子がいて、わらわは世界一幸福な魔女じゃよ」
まるで老人のような言葉使いではあるが、それでも凛と響く涼やかな声で女は嬉しそうに少年に微笑みかけた。少年は安心したように、少しばかり頬を朱に染めて毛布の中にもぐりこんだ。
どうやら、自分の言った事が恥ずかしくなったらしい。
愛しいとさえ思える愛弟子の姿に笑みを零し、自らを魔女と称した女は優しく布団を撫で付けながら言葉を紡いだ。
「わらわは幸せじゃよ。今も昔も……な……。さぁ、今日はもうおやすみ」
「……うん。おやすみなさい、師匠」
毛布の中から、くぐもった声で少年はその日最後の挨拶を呟く。魔女はその言葉を聞き届けてから、ようやく部屋を後にした。
そのまま、自身の部屋である場所まで、瞬時に移動する。「魔道」と呼ばれる力を使い、空間と空間の合間を渡り歩く。そして、女は自室まで辿り着くと、音を立てずに窓辺に近付いた。
窓からは満ちた淡い朧月が覗く事が出来た。時は夜中と呼べる時刻だろうか。あたりは濃い闇に包まれ、虚ろな光だけが夜の森を照らし出す。女のいる場所は、深い森に囲まれた灰色の塔の最上階だった。見晴らしと風通しだけは絶品の、背の高い塔だ。女は窓から見える白い都を見つめた。今年の冬、六百五十年の歴史を迎えたばかりの、聖ラウェリア国が、儚げな月明かりに照らされて、白く浮かび上がっていた。
「……あれから六百年の月日が流れたか」
女は小さくそう呟いた。そして、自身の長い薄桃色の髪を留めていた翡翠色の髪飾りを外し、手にとる。金の装飾がきらりと光った。
「全ては忘れ去られた物語なれど……わらわの犯した罪は未だ消えぬ…」
少女だった女は悲しげに微笑んだ。風が一陣吹き抜けて、女の長く伸ばした薄桃色の髪を攫ってゆく。
全ては忘れ去られし物語。それでも、女は永劫続く贖罪の時を、解放だけを夢みて物語を思い出す。女にだけは、これは物語ではなく、偽りのない過去。全てが終わりを告げた瞬間、止まってしまった時間。
一人の皇子を救いたいがために、天へと祈りを捧げ使った「力」は、結局彼を救う事が出来なかった。理に背くと知りながら、願ってしまった永遠。けれど神はそれを許す事は無かった。また、罪を与える事も忘れなかった。
止まってしまったのは、一人の魔女の時間。
長い長い時を、永遠に断罪の日を夢みて生きる。
自ら命を天へ捧げる事は出来はしない。この命は、魔女の中で何よりも重い価値があるのだから。時がくるまで、彼女はその命を守り続けるだけ。
「……わらわは幸せじゃよ。いつまでも……そなたを想う事が出来るのだから……」
遠い遠い、二度とその声を聞く事は出来ないけれど、彼はいつでも少女と共にいる。
彼の最後の言葉を思い出す。掠れた声で、それでも甘く囁くように告げられた言葉。
――いつでも、見守ってるから。だから笑ってくれ――
始まりを司った魔女は微笑んだ。優しい星々に亡き人への思いを紡ぎ空へと祈りを捧げる。
星が強く瞬いた。やがて、少女は風と共にその姿を消した。
残ったのは、柔らかい春色の風だけ。
そしてゆっくりと、時間は絶えず流れ続ける。終わる事無く、永遠に……。

<終>