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硝子の世界

――――キラキラと舞い落ちる硝子の破片……

 

 そこは色の無い世界。
 透明で、見方によっては青くも見える硝子に覆われた命の無い場所。
 綺麗で、冷たい。誰もがその虜となっていつしか引き込まれ透明な世界と同化する。
 だから、この世界で誰かと出会うことは無い。
 迷い込んでくる子羊たちは、硝子の狼に食べられてしまうのだから。
 そう、この世界に人はいない。存在していても、見えはしないのだから――。

「貴方、誰?」

 声がした。
 澄んだこの世界に相応しい、透明で幼い声。
 振り返ると、そこには幼い少女がいた。瑞々しいピンクの肌、淡い金色の巻き毛を背中に届くほど長く伸ばした妖精のように不思議で愛らしい少女だった。白いワンピースの裾が、ふわりと風も無いのに揺れた。
 彼女の半透明の青い瞳には、少女とは対照的に黒い少年が映っていた。
 透明な世界に不釣合いな漆黒の髪と瞳をした、いくらか幼さの残る少年だ。年の頃は少女よりも上だろう。
 少年は突然の訪問者に、眼を細めた。
 誰にも会うことの無く、誰の声も聞くことの無かったはずの世界。

「ねぇ、貴方は誰? ココはどこ?」

 無垢な瞳で、少年を見上げる。
 色の無い世界に、柔らかな彩が少年の目に入る。久しぶりに”白”以外の色を見た気がした。

「僕は……誰だろう? ここは硝子の世界。何も無い、虚無の世界だ」

 少女は不思議そうに顔を少し傾げた。その様がなんとも言えず可愛らしい。

「エミィー。名前、エミィーだよ。お兄いちゃん、キオクソウシツなの?」

「さぁ、それすらも分からない。僕はココにきて随分長い事一人でいたから。この世界が硝子で出来ている事しか分からない。エミィーは何処から来たんだい?」

 少年が尋ねると、少女は考え込むように視線を斜めにやった。
 暫くうなり考えてから、少女は答えた。

「んとね、ママが子守歌うたってたの。でもね、ママすごく悲しそうだった。エミィーはね、ママが悲しい理由知ってるの。エミィーのお兄ちゃんがずっと目を覚まさないから、ツラクテ泣いてるんだって。だから、エミィーお兄ちゃん探しに来たの」

 しどろもどろの口調で、エミィーは言い切ると、少年をじっと見詰めた。

「残念だけど、この世界に君のお兄ちゃんはいないよ。ココには僕以外誰もいない。君も、もといた世界に帰った方がいい。長居していると、この世界の狼に食べられてしまうよ?」

「エミィーお兄ちゃん見つけるまで帰らないの。お兄ちゃん見つけたら、ママきっと笑ってくれるから。狼なんて恐くないもん!!」

 エミィーはそれを一気に言うと、少年に背を向けて歩き出した。会えるはずも無いこの世界で、たった一人の兄を探すために。
 少年は、去る少女を引き止めはしなかった。
 だが、放って置けなくなりいつの間にか少女の後を歩いていた。

「お兄ちゃん、名前無いの?」

 振り向いてもいないのに、少女は後に続く少年に話し掛けた。
 少年は驚いたようにぴくりと動きを止めたが、すぐにまた歩き出した。
 辺りは透明な硝子の世界。時々砕け散った破片が地面にあるだけで、他には何も見当たらない。
 壁も、地面も全てが硝子で出来ていて今にも全て崩れ落ちそうだった。

「僕の名前……? さぁ、僕はここに来て全てを忘れてしまったから」

 少女の言うように”記憶喪失”なのだろうか?
 いや、断片的な何かは覚えている。辺りは真っ白で、透明な何かが砕け散る。動きが止まってしまったようにゆっくりと流れた時間。それなのに瞬きすらも出来ずに――。
 気付けばここにいた。
 彷徨い来る人々は居たけれど、一人としてこの世界に留まった事は無い。
 少年の前で、硝子の狼に食われてしまった者、忽然と姿を消してしまった者、気付けばいなくなっていた者。様々な理由で、彼らは硝子の世界から”消えた”。

「名前ってね、ママとパパがはじめてくれるアイジョウなんだって。お兄ちゃん、名前が無いならエミィーがつけてあげる」

 少女はきょろきょろと辺りを見回した。
 見えるものは、透明な世界だけ。光に透ける、儚い硝子たち。

「クリア。お兄ちゃんの名前。クリアだよ! 透明って意味なんだって」

「――クリア?」

 安直な名前に、少年は表情を変えた。今まで、眉一つ動かさずにぼんやりとした顔が、気の抜けたような、それでも嬉しそうな顔に変わる。
 少女は振り向いた。
 花のように柔らかく微笑むと、先立って走り出した。

「クリアだよー!! じゃあね、エミィーお兄ちゃん探さなきゃ」

 白く透明な世界で、少女の鈴のような声が響き渡った。
 少年は、少女を追いかけた。何故か、一人この世界に放り出してはいけない気がして、何かを考えるより早く体が動いていたのだ。

「僕も、君のお兄ちゃん探してあげる。名前、もらったお礼に……」

 エミィーに追いつくと、少年――クリアはそう言った。

「ありがとー、クリア」

 クリアはエミィーの隣に並んで歩き始めた。
 はじめ微かに見せていた心細そうな表情は、少年と少女から消えていた。

「あのね、お兄ちゃん高い所から飛び降りたの。エミィーがまだ赤ちゃんの頃ね。キセキテキに助かったんだって。でもお兄ちゃん目を覚まさないでずっと眠ってるの」

「何でだろう? ひょっとして、後遺症で起きられない体じゃないの?」

 クリアがそう尋ねると、エミィーは顔を横に振った。

「お医者さんはね、体には何のイジョウも無いって言ったの。ココロの問題なんだって」

「心?」

「うん。だからお兄ちゃんが目を覚まそうって思わないと、絶対に起きないんだって。だからママはいつも寂しそうなの。エミィーはねお兄ちゃんが目を覚ましたくない理由知ってるよ。お兄ちゃん、異端者なんだって」

 ”異端者”
 その言葉に、何故か聞き覚えがあった。何も覚えてはいないと思ったけれど、確かに少女の口から発せられたその言葉には聞き覚えがある。
 少年はゆっくりと、歩みの速度を落とした。

「異端者って……何?」

 完全に足が止まると、不思議に思ったエミィーが振り返った。

「お兄ちゃんね、みんなに見えないモノが見えるんだって。黒い獣が見えるって良く言ってたんだって。お兄ちゃんの言う事、何でも聞いてくれるお友達なんだって。お兄ちゃんその事を友達に言ったの。でも誰も信じなかったんだって。お兄ちゃん、悔しくて意地悪をしたの。獣にみんなを襲わせたの。みんな怪我をして、痛いよってうめいてた。でもエミィーには分かるの。本当はお兄ちゃん、そんな事するつもりじゃ無かったって」

 見えないモノが見えてしまう。この世界では見えるべきものは何も見えはしない。
 だから、全てに蓋をして目を背けて、耳をふさいで隠れていよう。
 ここでは誰も傷つかず、誰も干渉できない。

「お兄ちゃんね、恐くなって、逃げ出したくて、窓から飛び降りたの……。だからお兄ちゃんまだ目を覚まさない」

 ――キラキラと舞い落ちる硝子の欠片。白く瞬く世界に囚われて。何処までも堕ちていく。

 逃げた場所は心地よくて、何もかもが消えていく。
 いつしか罪も忘れ去り、永遠にこの硝子の世界に繋ぎとめられる。
 ここは硝子の世界。透明な牢獄。

「エミィーここでお別れだ。僕はもとの世界には戻れない」

「?」

 穏やか過ぎて、忘れた記憶。そう、クリアには見えないモノが見えていた。
 黒く綺麗で、それでもってぞっとするほど奇妙な獣。
 あの時もそう。誰も信じなかった。クリアにだけ見えていたそれは、クリア以外の誰にも見える事は無かった。そう、まるで初めから存在していなかったかのように。

「どうして?」

 エミィーの青い瞳が揺らいだ。
 辺りがしんと静まり返り、凍りついたように空気が冷え込む。
 冷たい沈黙が流れ、不意にそれは起こった。
 激しい地響きが硝子を砕いて上がった。
 次第に近づいてくる何か。それが何だか、クリアは知っていた。

「エミィー逃げて。君はここにいちゃいけない。早く、狼が来るから」

 クリアがそう叫んだ瞬間、何かがコチラへ来た。硝子の大地が波打って砕け、きらきらと光りながら舞い落ちた。硝子吹雪が次第と近づいて、それは完全に姿を表した。
 漆黒の、半透明な硝子の獣。体だけで、優に人の家ほどもある。鋭い牙が、透明な硝子の光を反射して一瞬光った。
 今まで、クリア以外の人を飲み込んだ巨大な狼。今度は、幼い少女を求めて来たのだろう。
 エミィーは、放心したように巨大な獣を見上げた。

「エミィー、早く自分の世界に戻るんだ。でないと、アイツに食べられてしまう」

「アイツって何? クリア、あれが出口だよ。ほら、光が見える」

 エミィーは臆した様子も無く、巨大な狼に向かって歩き出した。
 クリアは必死に止めようとした。だが、自分よりも幼い少女の体を止めることはおろか、触れる事さえ出来なかった。

「エミィー……!?」

 少女は少年の腕をすり抜けて、狼の口元まで来た。
 そして、ゆっくりと振り返る。

「クリアも行こう。ほら温かい世界が待ってる。いつまでも眠ってるだけじゃ何も変わらないよ」

 エミィーはそっと、手を差し伸べた。
 子供らしい柔らかくて温かそうな白い腕がクリアに伸ばされる。クリアは恐ろしいものを見るように、エミィーを見た。
 そうしているうちに辺りの硝子は次々と割れていく。始めは見えない硝子の壁が。そして次第に、クリアとエミィーが立っている地面も、崩れ始める。割れ目が近づいてきて、とうとうエミィーの立つ地面にひびが入った。

「エミィー!! 危なっ」

 ピキっと、音を立てて地面は砕けた。舞い落ちる透明な硝子と、長い金糸の髪。
 白い世界に飲み込まれる、小さな少女。
 声よりも、体が先に動いていた。堕ちる少女の体を、クリアは掴んだ。
 ぎりぎで、少女の落下は止まった。
 同時に、世界の崩壊が止まった。全ての空間が凍りついたように、動くものは何も無かった。
 透明な硝子は光を反射して宙に浮かび、崩れる世界は完全に停止していた。
 音も無く、白い世界は完全に無の空間となった。
 そう、何もかもが偽りだ。この世界は、少年の心に反応している。少年が望んだ世界。だから、彼が望めば、全てがありうる。
 何もかも、分かってしまった。この世界が、何なのか。少年が何者なのかも。

「僕は、恐かった。僕の心に触れる全てが……。何人もこの世界に来たよ。僕を連れ戻そうと思って。でも、僕は全て消してしまった。ママも、友達も。皆否定して、消してしまった。狼は、僕の心そのものだから……」

 だから今回も、エミィーを消そうとした。
 少年の心に反応して、狼が来た。今まで、目の前で食われていった人々。助けようともしなかった。けれど、何故かこの少女を助けようと思ってしまった。
 その優しすぎる純粋さが、心地よくて。触れた手が暖かくて。
 何故だろう、もう一度光を求めてしまった。

「お兄ちゃん……なの? エミィーの本当のお兄ちゃん?」

 姿も全部違う。淡い色素のエミィーに比べて、黒すぎる配色。だが、エミィーには、クリアの本当の姿が見えていた。エミィーに良く似た、淡い金髪の白い少年。
 ゆっくりと、時間が流れ始めた。

「帰ろう、お兄ちゃん。みんな待ってるから……一緒に行こう?」

 キラキラと、舞い落ちる硝子の欠片。白い世界が光に包まれて、その眩しさにクリアは何かが砕ける音を聞いた。
 砕け散る硝子の狼と、少年の頑なに閉ざした心の壁。

「――うん、僕も帰りたい」

 恐かった。誰も受け入れてくれないかと思うと、全てから目を背けたくなった。
 見えないものを見えると思い込む程、自分を偽っていた。
 それらの創り上げた、透明な硝子の世界。弱い少年の心を写した牢獄。
 それを砕いたのは、牢獄から連れ出してくれたのは――。

「大丈夫だよ」

 金色の少女は笑った。温かく、無邪気に心から微笑む。
 世界が動き出した。硝子は柔らかな羽根に変わり二人を包んで舞い落ちる。
 少年も、微笑み返した。
 二人の姿は光に包まれて、やがて硝子の世界から消えた。
 残されたのは真っ白い羽根だけが舞い落ちる世界。

 この先に待つものは分からないけど、きっと大丈夫。
 少年はもう一人ではないのだから。

 

――――帰ろう、もとの世界に……。

 

FIN
04/05/08 UP