始まりの魔女 -1-

 

 ゆっくりと、悲鳴をあげていた運命が、音をたてて崩れ落ちる。

 それは四方八方へと枝分けれしながら広がる、ひびの入った硝子のように脆いもの。

 始めは痛くも無かった傷も、やがて血を流し膿み、そして永遠に癒えない傷跡となり、未来永劫続く悲しみを形作っていった。

 それはどうしようもなく、無力すぎた存在はいつしか人々の声に流され、掻き消えた。

 誰も、始まりが一人の少女だとは知らない。

 一夜の夢のように遠く儚く、息を止めた一瞬のうちに全てが終わりを告げた。

 真実は暗闇の底へと忘れ去られ、やがて一人の少女は人々の畏怖を集めこう呼ばれる。

 魔女、と……。

 
 
 
 

 少女は身にまとう豪奢なドレスが汚れるのも構わず、背の高い木の頂上まで登り、遠く見渡せる景色を眺めて微笑んだ。

 視界に映るのは透きとおるほどに澄んだ、蒼穹の空。透明な水に溶けた白い絵の具に似た、煙のような薄い雲が、ゆっくりと東方より流れる穏やかな風に乗り、青空の下の街を通り過ぎて行く。若葉を巻き込み吹き上げた風が、優しく少女の淡い桃色の髪を攫う。少女は驚いて自身の長い髪を片手で抑えた。

 それでも、少女は見渡せる景色から目を離さずに一時でも長く見ていようと、陽に透ける長い睫毛に縁取られた緑柱石色の瞳を凝らし、蕾のような唇に笑みを浮かべる。

 と、その時。西の空より二羽の小鳥が悠然と空を舞い、少女の目の前を飛んだ。まるで彼女を誘うかのように歌い踊りながら、風と戯れる。少女は一瞬驚いたような表情をしてから、またもとの笑みを零した。幼さの残るものの、どこか眩しく惹きつけられる微笑みを浮かべ、透きとおるような声を響かせて、少女は言う。

「いいわ。一緒に遊びましょう?」

 少女は体を支えていた手を、太い木より離す。落ちる事など恐れていないのか、危なげに細い枝の上に立ち上がった。

 木々の葉に隠れていた少女の全貌が現れる。まだ、十を少し過ぎたくらいの少女だった。腰まで届く、少しばかり癖のある薄桃色の髪は絹糸のように滑らかで柔らかく風に流れ、白いレースがふんだんに織り込まれた豪奢なドレスは、彼女の身分が決して低くない事を表していた。

 ほんのりと白い頬を赤く染め、少女は舞い落ちるように木から一歩足を踏み出した。

 何も無い空中に踏み出した少女は、落下するはずだったにも関わらず、それでも悲鳴も上げずに宙で笑っていた。小鳥たちは少女の回りを飛び、彼女を空へと誘う。そして少女も、それが当然であるかのように空を飛んだのだ。

 翼も無い少女は、重力の理を無視して緩やかな風に乗り、小鳥と共に背の高い木の周りで、蝶のように軽やかに舞う。

 まるで人々の歌う天の楽園を描いた、神の使いが踊る幻想的な光景に似ていた。

 無邪気な少女は小鳥と共に、高いソプラノの声で乳母が聞かせてくれた子守歌を歌う。

 風が吹き抜け、少女の歌を遠い場所へと運んで行く。少女は楽しそうに笑った。

 途中で、小鳥が地上の方へ行こうと、少女を誘う。すると少女は微笑を消し、首を横に振ってそれには答えなかった。

「駄目。私がこの力を使うのは、誰も見ていない空だけなの」

 でないと皆が怖がってしまうから……。

 少しばかり寂しそうに、少女は再び木に舞い戻る。ふんわりと広がるドレスの裾を上げて、木の枝に足をつけると、少女は身にまとう気の流れを変えた。途端に体に重力が戻り、足に重みがかかる。危うくバランスを崩し、今度こそ地上へと落ちそうになった所で、少女は再び「念じた」。

 薄っすらと、少女の体が羊膜のような淡水の光に包まれる。すると、少女の体は再び重力を放棄し、落ちかけた体を空へと戻す。今度こそ、と少女は少し太い木の枝に舞い降りて、木にしがみつくように強く掴んだ。そこで少女は「終われ」と念じる。体に再び重力が戻り、今度は落ちる事無く少女はほっと息を吐いた。

 その様子を見守っていた小鳥たちが、無事着地した少女の肩へととまった。

 そして春を告げるその可愛らしい声で、少女に甘えるように鳴く。

「ええ、大丈夫。でも、そろそろ行かないと。姉上が心配するの」

 少女は残念そうに肩をすくめ、「もう行かなくては」と言い、小鳥を空へと放して木を下り始めた。

 木登りでは登りよりも下りの方が、神経を使うものだ。少女は慎重に、一歩一歩枝に足をかけて降りて行く。

 半分ほど降りた所で、下から彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。

「シェリルー。……どこへ行ったのかしら、あの子」

 声の主は木の根本付近で心配そうに辺りを見回した。

 その声は少女の良く知る声だった。今から会いに行こうと思っていた人であり、彼女がもっとも敬愛する人。

「あ、姉上!」

 シェリルと呼ばれた少女は姉を呼び返し、嬉々として木を下りる。

 だが、急ぐ心がシェリルの慎重さを打ち消し、彼女は誤って枝から足を踏み外してしまった。

「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!」

 ドレスを纏う淑女にはいささかあり得ない叫びを上げて、シェリルは木の中腹から派手に落ちた。

 先ほどのように、「力」を使うわけにはいかない。あれは誰にも見られてはいけないものなのだ。

 たとえそれが、二つ歳の離れた愛する実の姉だとしても。

 シェリルは痛みを予期して、きつく瞳を閉じた。

 木のふもとでは、シェリルの叫び声を聞いた姉が、落ちてくる妹の姿を見とめ、声にならない叫びを上げた。

 どさりと人の重みを感じさせる音がして、シェリルの息は一瞬止まる。

 しかし、不思議と痛くは無かった。恐る恐る瞳を見開くと、そこにはシェリルを抱きとめた少年が、心配そうに彼女を覗き込んでいた。

「セイ様?」

 勢いづいて落ちてきたシェリルを受けとめたらしい少年は、地面に座り込む形でシェリルを抱きかかえていた。そのすぐ隣では、心配そうにシェリルを見つめる姉の姿。彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「ああ、シェリル。怪我は無い? 木登りは危ないから、背の低い木だけにしなさいといったでしょう」

 少女はシェリルにその細い腕をまわし、悼むように抱きしめた。

 ふわりと、春の花の香りが鼻腔をくすぐる。シェリルは柔らかなその感触の心地よさに瞳を閉じた。

「ごめんなさい。とても綺麗な景色だったの。それにいつもはもっと上手く下りられるのよ?」

 今日はちょとだけ失敗してしまっただけ。

 シェリルがそう言うと、姉は優しく微笑んで、白い手でシェリルの頭を撫ぜる。

「そうね。シェリルはお転婆だものね。でも今度からは気をつけなさい」

 シェリルは素直に頷いて、姉の微笑みに心が満たされるのを感じた。

 そして、自分を抱きとめてくれた少年に向き直ると、深く頭を下げる。

「セイ様、ごめんなさい。どこかお怪我はされていませんか?」

 すると、純白ともとれる銀の髪に夜の空色の瞳を持つ美しい少年は、姉と同じように優しく微笑んだ。

「大丈夫。シェリルが無事で良かったよ。レイリーが君を見つけるのが遅かったら、ちょっと危なかったけどね」

 レイリーと呼ばれたシェリルの姉は、困ったように微笑む。

「お茶の時間だから、呼びに来たのよ。そうしたら貴方が急に空から落ちてくるのですもの。驚いちゃったわ。ねぇ、シェリル。今日は貴方に会わせたい人がいるの。今テラスの方で待たせているわ。会ってくれないかしら?」

 大好きな姉の申し出を断れるはずもなく、シェリルは無邪気な笑顔を向けて頷いた。

 レイリーは嬉しそうに微笑むと、シェリルに手を差し伸べた。

 いつまでも少年に抱かれている訳にもいかず、シェリルはその手をとって立ち上がった。

 それに続いて、シェリルがセイ様と呼んだ少年も立ち上がり、優しくレイリーに寄り添うと、三人は庭を後にして、テラスの方へと歩き出した。

 
 
 
 

 建国五十年が経つ聖ラウェリア国は、今までにない祝福に満ち満ちていた。

 シェリルの姉のレイリーは、聖なる歌姫と世界を巡る詩人に賛美された天使の如き美しい歌声を持った少女だった。光を紡いだかのように輝く黄金の髪、明るい緑柱石色の瞳を持つ、今年十四になったばかりの、王家の流れを組むグローランス家の息女だ。その美しさは歳を重ねるごとに宝石のように輝かしく、美と豊穣を司る女神を連想させる慈愛に満ちた微笑みは見るもの全てを惹きつける。彼女に求婚する貴族は後を絶たず、彼女の父親ほどの年の独身貴族が求婚してきたこともあった。しかし、今まで一度も求婚は受け入れられなかった。彼女自身も、また彼女の父も首を縦には振らなかったからだ。

 しかし、ラウェリア歴五十年の春、国中に彼女の婚約が知らされた。慎ましやかで美しい彼女は、王家の正当な血筋であるラウェリア国の第一皇子、セイファン・セーレスティリアと婚約したのだ。

 若いながら聡明な皇子と聖なる歌姫の婚約は人々に祝福され、眩いばかりの未来図を予期させた。

 レイリーの妹である、今年十二になるシェリルは姉を敬愛する余り、初めはこの婚約には反対だった。けれど、幼馴染であり姉の友であったセイファンは優しく、心から姉を思ってくれていると分かると、今度は姉と義兄の婚約を心から祝福した。

 王家の人間ではあるけれど、お転婆ゆえか、表立つ事の無い立場のシェリルには、婚約がどう言うものかもよく分かってはいなかった。けれど、ただ姉が幸せならばそれで良いと思った。

 しかし、拠り所ともいえる姉が遠い存在になってしまうのはとても悲しく、その気持ちを紛らわす為に、彼女は人に言えない遊びを繰り返していた。

 シェリルには不思議な力がある。物を浮かばせる事が出来たり、一瞬のうちに物を消す事も出来たりと、まるで物語に登場する魔法使いのように、様々な事が出来るのだ。最近では、自分自身を空へ浮かばせる事が出来るようになった。人の望めない空を自由に舞い、誰も知らない景色を独り占めできるのは実に気持ちの良いものだ。試したい事が見つかれば城の庭の片隅で、こっそりとこの不思議な力を使い、成功した時はその方法を日記につける。そうしていくうちに、彼女の不思議な力は留まる事を忘れ、日記だったそれは魔道書に変貌し、彼女の尽きる事の無い欲を煽り立てて行く。

 いつか、ふと疑問を持ったシェリルは自身の力について調べてみた。

 歴史は浅くとも、壮大な広さと優美さと、多くの国々と良き関係を築いている聖ラウェリア国は、様々な地で集められた古書や奇書が数多くある。来る日も来る日も、シェリルは取り付かれたように没頭して本を読み漁った。神話や童話、歴史の本、心理の本、哲学の本。数え切れないほどの本を読んだけれど、シェリルの求める答えはどこにも無かった。諦めていたシェリルは、適当に手に取った古文書を軽く開き、ぼんやりと文字の羅列を目で追った。そして、そこには彼女の求める答えが載っていた。

 ――魔道と呼ばれる、悪魔と契約を交わした背信者が扱う呪いの力、と。

 それを見た瞬間、シェリルは人々の前で、魔法の話をする事をやめた。悪魔と契約などしていなくとも、シェリルの力は異端そのもの。たとえ貴族の位を持とうとも、彼女は悪魔に魂を売った子供として裁かれるだろう。それはシェリルの望むものではない。

 だから、シェリルはこの力をひたむきに隠してきた。

 知られてしまえば、全てが終わりを告げると、幼いながらに聡明な彼女には分かっていたのだ。

 ただ、それでも力の使い道ばかりが思い浮かび、シェリルは人々の目を忍んでは遊び心に魔道をつかうのだった。

 この時のシェリルは、幼さ故の純粋さがあり、自身の行動がどのような結果になるかなど知る由もなかった。

 
 
 
 

 色とりどりの草花に彩られた美しい庭園を歩いて行くうちに、シェリルは嫌な予感がしてきた。

 テラスが見えてきて、そこに存在する人物を視界に捉える。そこで、予感が的中していた事に気付いた。

「姉上。私に会わせたいというのは、あそこにいるちみっこいクソガキではありませんよね?」

 シェリルはテラスに近付くほどはっきりと見えてくる、小さな人影を指差して尋ねた。

「シェリル……、そんな言葉、どこで覚えてきたの? 貴方はこれからグローランス家を継ぐ身なのですから、いつまでもお転婆では駄目よ?」

 人と少しずれているレイリーはシェリルの質問よりも、彼女の言葉使いをたしなめた。

 そんなレイリーの隣では、セイファンがくすくすと微笑んでいる。

 シェリルはがくりと肩を落とした。

「そうではなくて、まさか私に会わせようとしているのが、あの忌々しい輩なのですか?」

「あら? シェリルはアルフォンスと知り合いだったのかしら?」

 レイリーが不思議そうにセイファンに尋ねる。答えを求められたセイファンは少し考えてから首を横に振った。

「いや、アルは今日初めてここにくるからね。シェリルとは面識が無いはずだよ」

「シェリル? 見ず知らずの方を罵ってはいけないわ。ほら、まずは挨拶をしないといけないでしょう?」

「違う。私はあの輩を知っています。あれは……」

 シェリルが嫌な記憶を呼び起こしている間に、テラスにいたはずの人物はこちらに気付き、走り寄ってきた。

 平民の出ではない事が一目でわかる、上等の生地を織り込んで作られた青い衣装に身を包む、シェリルと年の変わらない少年だった。大きな黒い瞳と整った目鼻立ちは、どことなくセイファンに似ている気もする。だが、髪の色から表情にかけて、全てが正反対といえた。

 白い絹糸のように癖一つ無い髪のセイファンに比べ、こちらの少年は黒に近い亜麻色の髪を短く刈り込んでいる。朝起きてから一度も梳かしていのだろうか、逆立ったそれは、まるで鳥の巣だとシェリルは思った。

 セイファンは走り寄ってきた少年に柔らかく微笑みかけ、声をかけた。

「待たせたねアル。こちらがレイリーの妹君のシェリルだ」

 セイファンはむすっとした顔をしているアルフォンスに、シェリルを紹介した。

 シェリルはあからさまに嫌そうに、アルフォンスを見やる。

「ほら、シェリル。挨拶なさい。アルフォンスはセイファン皇子の弟君なのよ」

 レイリーがシェリルの背を押して、一歩アルフォンスに近づける。

 だが、そこまでだった。

 それ以上、シェリルは動くものかと足に力を入れ、きつくアルフォンスを睨みつけた。

 レイリーは困ったようにセイファンを見た。そして、彼の隣を見るとアルフォンスもむすっとした感じでシェリルを見ている。

「あら? 本当に知り合いだったの?」

 二人のあからさまな嫌悪の眼差しにようやく気付いたレイリーは、その美しい表情を曇らせた。

 セイファンは弟の肩を数回叩いて、挨拶をしろと言いた気に見下ろした。

 そしてようやくアルフォンスは、小さく唇を開いた。

「……レイリー義姉様の妹だって聞いたから、どんなのか楽しみにしてたのに。誰かと思えばちんちくりんのお転婆かよ」

 発せられた辛辣な言葉に、シェリルは激怒した。

「だ、誰がちんちくりんですって!? 私だってセイ様の弟だって聞いたから、どんな素敵な方かと思えば、下町でふんぞり返って暴れているクソガキだなんて……最低だわ」

 火花を散らすように、二人はお互いを睨みつけた。

「誰がガキだよ。一つしか違わないだろ? 第一、暴れてなんて無い」

「嘘をつきなさい! この間なんて、か弱い女の子いじめて笑っていたくせに。それに、私に向かって毛虫を投げつけたでしょ」

 淑女に向かってなんて事をするのか。

 シェリルはありったけの声を張り上げて、アルフォンスを罵った。

「ああ、あれか。まさか貴族だとは思わなかったんだ。でもなんで仮にも貴族のご息女が下町なんかにいたんだ?」

 悪びれた様子もなく、アルフォンスは別の事を問いだしてきた。

 その質問に、シェリルは言葉を濁らせる。それはあまり姉とセイファンには知られたくない事柄なのだ。

 シェリルは己の不思議な力に気付いてから、度々下町に遊びに行く事があった。最初の目的は、力についての書物を探す事だった。だが、好奇心の強いシェリルにとって、下町の小物屋や市場は大変魅力的なものであった。見たことも無い異国の服や装飾品。日々の出来事や事件、貴族について書き綴ってある新聞と呼ばれる薄い紙の読み物や、民の作る質素だけれど温かな料理など、城ではおよそお目にかかれないものばかりだ。それは活発的なシェリルにとって、何よりも興味を引かれることだった。

 そして先日、いつものように人目を盗んでシェリルは下町へと出かけていった。勿論、ドレスなど身に纏ってはいない。王宮の踊り子たちの服を拝借して、下町へともぐりこんだのだ。

 仮にも姫と呼ばれる身分なのだから、公に街を歩くのは危険だと、シェリルは理解していた。

 だが、彼女の警戒心も溢れんばかりの好奇心には勝てなかった。

 そして、アルフォンスに出会った。第二皇子であるはずの彼は、シェリルと同じように上から下まで平民と変わらない服装で、ガキ大将のように町の広場でふんぞり返っていたのだ。広場を通る子供や女性を見つけては、毛虫を投げつけたり、威圧してみたりと、実に子供らしい悪質な悪戯を繰り返していた。たまに、子分や弟分などを引き連れて、大の大人をからかったりもしていた。

 シェリルも被害を受けた者の一人だ。関わらないようにと思いながら歩いていた彼女は、光栄な事に皇子のお目に止まってしまったらしい。何の予告もなく毛虫を顔面に向かって投げつけられた恨みは、一日そこらで消えるわけもなく、シェリルはアルフォンスの顔をよく覚えていた。

「シェリル、下町ってどう言うことなの?」

 案の定、心配性の姉がシェリルに疑問を投げかけた。

「え、あの……。ちょっとだけ遊びに行ったことがあるの。でも、ちゃんと爺についてきてもらったわ。一人じゃないから、大丈夫よ」

 半分は嘘だ。姉に偽りを教える事は心が痛むが、それでも隠さなくてはいけない事もある。シェリルは申し訳なさそうに俯いた。

 と、そこで救いの主が現れた。セイファンが弟に向かって少し怒ったような顔で、いつも穏やかな声を少しばかり低くして弟の行動をたしなめてくれたのだ。

「アル、また下町に行っていたのか。あれほど駄目だと言っていたのに。それに、女の子に毛虫を投げつけるなんて、紳士のやることではないだろう?」

 普段穏やかなセイファンは、怒る時には意外なほど厳しい顔をする。人を力でねじ伏せるのではなく、静かに怒りを露にする様は、怒鳴られる事に慣れているシェリルの目にも恐ろしく映った。アルフォンスは俯いて、小さく謝罪の言葉を述べた。

「謝るのは僕にではなく、シェリルにだろう?」

 ほら、とセイファンはアルフォンスの体をシェリルに向けさせる。

 アルフォンスは不服そうに、兄に何かを言いかけようと口を開いたが、結局諦めてシェリルの瞳を真っ直ぐに見つめてから、視線を横に流し、小さく言葉を紡いだ。

「悪かったな」

 シェリルとしては、その程度の謝罪の言葉だけでは許せないところだ。気持ちが篭らないアルフォンスの声に、どうして恨みが昇華されるのだろうか。しかし、姉と義兄の手前、執念深い所など見られたくは無い。仕方なく、シェリルはアルフォンスを一時的に許す事にした。

「私の方こそ、汚い言葉を使ってごめんなさい」

 こう言えば、きっと姉は微笑んでくれるだろう。アルフォンスに謝るのは釈然としないが、レイリーがそれで喜んでくれるのなら、そんな事はどうでもいい。

 予想通り、レイリーは二人が仲直りをしたと解釈し、零れんばかりの優しい笑みを浮かべた。

 それにつられ、シェリルも微笑を零す。

「仲直りした所で、お茶にでもしましょうか? 先日、とても良い香りのお茶を仕入れたのよ。是非、二人に飲んで頂こうと思って」

 レイリーは切り良く三人をお茶の間へと先導すべく、話を切り替えた。

 今日はそのために、皇子二人を招いたのだ。

「そうだね。レイリーのご自慢のお茶を頂こうか」

 セイファンは愛しい婚約者の手をとり、先立ってテラスの奥へと向かって行った。

 少し遅れて、アルフォンスがシェリルに腕を差し出す。シェリルは少し躊躇ってから、その腕に自身のそれを絡めた。

「今日は姉上に免じて許すだけよ」

 前を行く二人には聞こえないように、シェリルはアルフォンスに釘を刺す。

 するとアルフォンスは軽く鼻で笑い、小馬鹿にしたようにシェリルを見下ろした。

「俺だって、兄上の顔をたてるために謝っただけさ」

 極上の笑みを口元に飾り、しかし二人は互いを射殺さんばかりの強い眼差しで見つめ合った。

 
 
 
 

 十二の春の昼下がり。

 酷く平和に流れる時は、それでも少しずつ何かを歪ませて、やがて目に見える傷跡を残していく。

 一体誰が、この時先の未来を予想できただろう……?