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始まりの魔女

第八話

薄暗い灰色の雲の合間を繕い、青灰色の空から朧な光が差し込む。幻想的でありながらどこか不安を誘う肌寒い朝が来た。城内は慌ただしく混乱し、様々な場所から叫び声や罵声が上がった。
シェリルは腕を引かれるまま、ただ前を走る青年の後に続いた。上着一つ纏わない、薄布一枚の寝衣に部屋履きのため、厳しい寒さを誇るラウェリアの地を駆け抜ける事はかなり辛かったが、それでも繋いだ指先から伝わる温もりに勇気付けられ、何かを考える暇も無くただ、必死に走るだけ。
冷たい風が襟元から入り込み、体を凍えさせた。保温性のない靴は、雪道に沈むたびに足の体温を奪い続ける。次第に肌を刺すような痛みを感じ始めるが、今足を止める訳には行かなかった。
後ろからは、衛兵たちの荒い足音が絶え間なく追ってくる。彼等よりも軽装だったアルフォンスとシェリルは、距離としてはかなり引き離していたが、それでも基礎体力が違う。アルフォンス一人ならば逃げ切れるかもしれないが、シェリルはこんなにも長く走ったことなど今の今まで一度も無かった。
息が上がり、肺がむせ返るほどに冷たい空気を吸い込んでは白いもやに代えて吐き出し、未だそれほど息の上がってはいないアルフォンスの後に続く。
アルフォンスが向かっているのは城の裏庭だった。裏庭には外へと繋がる細い出入り口があり、その場所からの脱出を試みようとしているのだろう。
シェリルは言葉を発する余裕が無かった為、ただ、弱々しくアルフォンスに掴まれた手を軽く握り返してみた。すると、アルフォンスの大きな手が、シェリルの手を更に強く握った。全身の中で、指先が一番温まっている気がした。
ようやく裏庭の出入り口が見えてきた。入口の傍にはまだ年端も行かない、育ちが悪いとは言わないが、決して良くもなさそうな少年達がアルフォンスを待ち構えていた。シェリルはその少年達に見覚えがあった。確か、アルフォンスが下町で一緒につるんでは悪さを働いていた子供達だ。幼い頃、シェリルの足を引っ掛けて転ばそうとした生意気な餓鬼もいた。シェリルはアルフォンスがあらかじめ退路を用意していたのだと気付く。
旅立っていったと思われていた彼は、ドルアーノの衛兵に紛れていた。ドルアーノが近いうちに事を起こす事を知っての行動だった。そして、事が起きた瞬間に、アルフォンスはドルアーノを暗殺しようと目論んだ。セイファンはきっかけが出来るまでは動くべきではないと考えていたため、公に正面からドルアーノを討ち取る事が出来なかったのだ。しかし、相手がこちらにつけいるきっかけをくれるのならば、それを利用し、ドルアーノを暗殺するまで。そして、無事に相手を仕留めることが出来、手際よく逃げおおせれば、全て万事解決。するはずだったのだが、シェリルの意外な行動に、その計画は丸つぶれになってしまった。まさかシェリルを見捨てる訳にも行かず、彼女の行動でドルアーノが二度と王城に戻れぬ身に落ちたことにより、計画とは違えどそれなりの成果は上げられた。あとは、衛兵たちから上手く逃げ、事が収まるまで隠れるだけ。アルフォンスは冷たくなりつつあるシェリルの指先をきつく握り締めた。
二人が少年達のいる場所まで辿り着くと、一番背の高い最年長と思われる少年がアルフォンスに上着と荷物を差し出した。アルフォンスはそれらを受け取り、身に纏っていた邪魔な鎧を一気に脱ぎ捨てると、少年たちに何かの合図を送り、シェリルの手を引いて細い抜け道に入っていった。
抜け道は暗く、中肉中背の人一人がぎりぎり抜けられる幅だった。それでも平均して細身のアルフォンスはらくらく通り抜ける事が出来たし、シェリルも邪魔でがさばるドレスを纏ってはいなかったため、すんなりと走り抜けることが出来た。
そして、細く狭い出口をくぐり、城の外側に出ると、別の子供が真っ白な馬を引いてアルフォンスを待っていた。アルフォンスは簡単に礼を述べてから、馬の手綱を受け取る。
後ろから衛兵の喚く声が聞こえてきた。狭い入口に入るには彼等は鎧を脱がなくてはいけなかったし、何よりも待機させていた子供たちがそれを邪魔しているのだろう。アルフォンスは受け取った自身の上着をシェリルの肩にかけると、自分は先に馬上に上がり、シェリルを引っ張って後ろに乗せた。
「しっかり捕まってろよ! じゃ、後は任せたぜ」
アルフォンスは手綱を引いてくれていた子供に片目を瞑って少年の挙げた手を叩いた。
下町の子供たちの中で流行っている、挨拶の一種であることが、ぼんやりとするシェリルの意識の中に流れた。それでもすぐにそんな事は忘れ去り、どっと溢れた疲労感がシェリルの体をアルフォンスの背にもたれさせた。
馬の嘶く声が聞こえ、冷たい空気を切り裂いてアルフォンスとシェリルは城を後にした。
次第に遠くなる王城を眺め、シェリルは不安と切なさが同時に襲ってきたように心が隙間風に当てられた気がした。セイファンとレイリーは無事だろうか? 本当に、ドルアーノから逃げられたのだろうか? 不安が込み上げて、それを考えないようにシェリルはアルフォンスの腰に腕を回して、口を開かずに俯く。そして、二度と戻れぬ故郷に背を向けた。

どれほど走っただろうか。
辺りにはちらほらと白い粉雪が舞い始め、冷えた空気をより一層冷たく感じさせた。
見回せば丸裸の枝に白い化粧をした雑木林の小道を進んでいた。シェリルは再び顔をアルフォンスの背に埋め、疲れから逃れようと瞳を閉じた。
不思議なほど静かに、誰も二人を止める者はいなかった。
「なぁ、シェリル」
城を出て初めて、アルフォンスがシェリルに声をかけた。
シェリルは顔を上げずに、小さく相槌を打つ。
「そんなに泣くなよ。冷えて寒いだろ」
そう言われて、シェリルは驚いたように顔を上げた。冷たい風が頬を撫でつけ、両の目の下に一筋、より冷たい何かがあった。そして、その上を再び温かな液体が伝う。自分でも気付かないうちに、頬を伝う涙が信じられなくて、シェリルは再びアルフォンスの背に顔を埋めた。
「……確かに、色々とあったな。たった一晩だってのに。でも、安心しろよ。レイリー義姉様はもう安全だし、ドルアーノは終わりさ。全部、お前のお陰だぜ? ……頑張ったじゃねぇか」
使った方法はどうであれ、シェリルはレイリーとセイファンを救う事が出来た。王位を狙うドルアーノも、もはや堂々と城に出る事は出来なくなった訳だ。それでも、何故か心がぽっかりと穴空いてしまったかのように苦しくて、悲しくて、シェリルは知らず知らずの内に頬に涙をまた一筋伝わせた。
不思議な気分だった。
悲しいのに、心の奥底で喜んでいる自分がいる。全てを知られてしまい、ふっきれて、ようやく手にした自由。それをくれたのは、手を引いて道を指してくれたのはアルフォンス。今は、共にいる。先への不安こそあったけれど、それは嫌ではなかった。彼のいる未来は、決して嫌ではないのだ。
「アルフォンス皇子……、何故貴方がドルアーノの衛兵に紛れていたの? もう、旅立って行ったのかと思ってたのに」
シェリルは先程より疑問に思っていた事柄を尋ねる。
「あぁ、あれは……。ドルアーノが全部の黒幕だって事は始めから分かってたけど、兄様も父上も平和主義者で行動を起こそうとしなかったんだ。だから、俺が独断であいつをやろうと思ったんだ。そのためには、まず味方も欺かなくちゃいけないと思ってな」
だから、アルフォンスは旅立ったことにした。セイファンもそれを信じて疑わなかったし、シェリルもアルフォンスの策略に上手く嵌められた訳だ。つまり、あれは芝居だったと。シェリルは何処と無く気落ちしている自分に気がつく。
(あれは、ドルアーノを欺く為の嘘。私は何を期待していたんだろう……)
微かに抱いた希望は、あっけないほど簡単に崩れ去った気がした。
会話が途切れ、微妙な沈黙が再び訪れる。アルフォンスの背が強張った気がした。
「なぁ、シェリル……。俺、お前に言ったよな。一緒に行かないかって」
砕かれたものが再び元の形に戻りかけて、シェリルは心のうちで驚きの声を上げる。
シェリルは小さく頷いた。アルフォンスは背中伝いにそれを感じ取り、更に言葉を続けた。
「あれの答え、今出せそうか?」
シェリルは前にその事を聞かれた時、もう少し待ってと答えた。それはレイリーとセイファンが心配であったためにそう言ったのであって、決してアルフォンスを焦らしたいとか、本当は嫌だとか、そう思って言った訳ではない。それでも、今は答えを返すことが出来る。わざわざ今、こんな事を聞いてくるという事は、あれは嘘でも何でも無かったと思って良いのだろうか。もし、これが彼の本心からの言葉なのならば、シェリルはそれに答えたいと、心の底から思う。そう、今なら心の整理もついた。レイリーの不安の種は除かれたし、ドルアーノも心配無い。ならば、あの時に言おうとした答えを、今言っても良いのではないだろうか。きっと彼は笑って受け入れてくれる。こんなにも、人間離れした自分を、一人の人として扱ってくれる。
「……」
一緒に行く。それを言うだけなのに、シェリルは声が出せなかった。
喉元まで出掛かった言葉は、冷えた空気を吸い込みすぎて痛めた喉で掻き消えた。
シェリルが何も答えようとしないと分かると、アルフォンスは再び喋りだす。
「俺さー、皇子なんて御大層な役職名つけられて、肩身の狭い生活してるけど、今はもう自由の身だ。ま、他の国に行っちまえば、ただの青少年な訳で。そうしたらやっぱ生きるために働くんだろうし。で、さ、お前が嫌じゃなければ……、一緒に見知らぬ土地で暮らさないか? 旅がしたいって言うならそれでも良いし」
アルフォンスが何を言いたいのか分かり、シェリルは驚きに瞳を瞬く。彼は王位すらも捨てる気なのだろうか。シェリルはあのように隠しとおしてきた「力」が知られてしまい、それ故に国に戻る事は出来なくなってしまったが、アルフォンスはそう言うわけではない。彼は全てを放り出して、シェリルと共に生きようというのだ。
まさか、こんな展開になろうとは思っても見なかったので、シェリルは心の中で狼狽する。
アルフォンスを見上げても、振り返らずに風を切る豊かな黒髪しか見えない。それでも、シェリルは彼がどんな顔をして、この言葉を言っているのか、分かる気がした。
きっと、照れ隠しの為に視線を横に流しながら、口を一文字に引き結んで、眉を潜めているのではないかと、心の中でそう思い浮かべる。
「俺、兄様みたく完璧な人間じゃねぇけど……、お前を幸せにする自身ならあるから」
だから、一緒に行かないか――?
そんな事を言われては、返す言葉は一つしかなくなってしまうではないか。シェリルは疲れも痛みも全て忘れ、ただ、その言葉に答えた。全身全霊の思いを込めて。今まで決して言わなかった言葉を、言えなかった言葉を吐き出すように。振り返らない彼を真っ直ぐに見つめて、いつもよりも大きく息を吸い込み、涼やかな声に変えて、たった一つの言葉を紡ぎ出す。
「……私、行きたいわ……。広い世界に出てみたい」
本当はいつもそう夢見ていた。広い世界に、自由に行く事が出来るのなら、どんなに良いかと。鳥のように空を舞う事は出来ても、何処までも自由に行く事は出来なかった。高い木の幹から、遠く飛び去っていく囚われる事を知らない鳥たちを、どれほど羨ましく思っただろう。それでも、どんな形だろうとシェリルは自由を手に入れた。そして自由に行く道には、彼が隣にいる。それだけで、心が満たされる気がした。
心に溜まっていた憂鬱は、もはや微塵も存在しなかった。
「これが……冗談じゃないのなら、嬉しいわ。本当に……」
言葉を自在に操る事が出来れば良いのにと、心の底から思う。
体面も誇りも高慢な部分も、全部なくなってしまえば、もっと素直になれただろうけれど。それでも、シェリルは自分に出来る精一杯の笑顔で、彼を見上げた。
アルフォンスはゆっくりと振り返り、手綱を寄せて馬をとめた。
凍りついた指先も、降り積もる粉雪も、全て溶けてなくなってしまいそう。ただ、アルフォンスの顔が近づいてきて、そっとシェリルはその腕に包み込まれた。寒さに震えていた体が、急に温まった気がした。
「良かった。断られるかと、思ってたんだけどな……。駄目元でって、意外と言ってみるもんだな」
耳元で聞こえるアルフォンスのテノールの声。開かれれば、いつも嫌味と嘲笑しか聞かなかった気がする声が、今は酷く心地よい。心臓の音が、耳にはっきりと聞こえ、それがアルフォンスに悟られないように、と祈った。
「だって、貴方が言ったんじゃない。流されるなんて、勿体無いって……」
今度こそ、自分で選んだ道を行く。もう誰にも止められはしない。誰にも、邪魔はさせない。
流され続ける人生は終わり。これからは、自分自身で流れを作る番。
そういう生き方を教えてくれたのは、無邪気で破天荒な問題皇子のアルフォンス。それで十分だ。
「そうだったな……」
そう言って、アルフォンスは笑った。誰よりも無邪気で、穢れを知らないその笑顔で、心の底から笑っていた。
そして、急に彼の笑いが途切れた。
不思議に思ったシェリルは、彼を真正面から見据えようと、体を離そうとした瞬間、空気がざわりと身の毛もよだつような不快な気配を撒き散らした。それが何なのか分からないうちに、シェリルの体が宙に浮いた。
「――アルっ」
彼が突き飛ばしたと理解した瞬間、馬上から落ちて地に叩きつけられるまでのほんの僅かな刹那、視界に漆黒の光が過ぎった。真っ直ぐに、険しい顔をしたアルフォンスの左肩に突き刺さり、通り過ぎる。小さな呻き声が聞こえた気がした。
白い地面に叩きつけられる。それでも、柔らかな雪のおかげで、たいした痛みは無く、シェリルはすぐさま立ち上がった。
(私は何を見た……?)
アルフォンスを何かが貫いた? 何が? 黒い光?
思考が動転し、何かを思うよりもシェリルは馬に近寄り、その上に乗っているであろう人物を見た。
「あ……、アルフォンス皇子!」
ゆっくりと、アルフォンスの体が馬上で傾く。そして、受け止めようと伸ばした手は届かずに、アルフォンスの体は真っ白い雪の大地にどさりと崩れ落ちた。馬が嘶き、主人を残して走り去る。シェリルは喉元まで出かかった悲鳴を飲み込んで、アルフォンスに駆け寄り抱き起こした。
左の肩辺りに手が触れ、何か生暖かくぬるりとした感触に、シェリルはアルフォンスを抱き起こした左の手を上げた。そこには、ねっとりとした紅い紅い液体が、指に絡みつくようにシェリルの手を染め上げていた。
百年の眠りも覚めるほどに赤い、アルフォンスの血。これほどまでに望まないものはあっただろうか。シェリルは血を流し続ける肩の傷口をそっと触れて、止血しようと抑える。それでも、紅いものは留まる事を知らないように溢れ続け、真っ白い大地に真紅の飾りを広げていく。
「……っち、油断した、な……」
苦しげにアルフォンスは呻き、片手で傷のある場所を抑えて立ち上がろうとするが、すぐに激痛に耐え切れず再びシェリルの腕の中で膝をついた。
シェリルは光の飛んできた方角をきっと睨みつけた。
すると、そう遠くない場所から誰かの足音が聞こえた。
「ほう、馬鹿皇子も少しはマシな行動が出来るようだな」
聞こえたのは、世界で一番忌まわしい響きを持つ、わざとらしい穏やかな口調の低い声。
そして、声に続き、白く霞む雑木林の影から一人の男がゆっくりと姿を現した。
真っ白い髪に、真っ白い肌、そして漆黒の気を撒き散らす天使の皮を被った悪魔が、そこにいた。
「ドルアーノ」
シェリルはありったけの憎しみを込めて、忌々しいその名を呪うように呟いた。
ドルアーノは心の底から嬉しそうに、微笑んだ。
「本来ならばお前がそうなっているはずだったのだが、どうやら手元が狂ってしまったようだ……。だが、アルフォンスの決死の覚悟も無駄に終わる。お前はここで大人しく死ぬのだから、シェリル・グローランス」
「もう全てが終わったというのに、何故今更こんなことを? それに、アルフォンスは関係無いはずだわ!」
アルフォンスが何かした訳ではないというのに。ただ、シェリルと共に逃げただけの彼。それなのに、ドルアーノに憎まれているシェリルではなく、アルフォンスがその刃を受けてしまった。
シェリルは自身の不注意に嫌気がさす。ドルアーノがそう簡単に諦めるはずが無かったと言うのに。それなのに、国を出たところで簡単に気を許してしまった。ドルアーノは魔道を操る。空間移動が出来ないとは限らないはずで、それなのにこんなにも注意力を失い、結果、アルフォンスがその痛手を受けてしまった。
シェリルは血が出るほどきつく、唇を噛んだ。
「何も終わってなどいない。確かに、ラウェリアの王位を奪う事には失敗した。だが、まだ機会はある。お前たち姉妹からその力を奪う事が出来れば、またいくらでもやり直せる」
含みのある笑みを浮かべ、ドルアーノはシェリルを冷たく見据える。凍てついた瞳に映し出されたシェリルは、体が強張るのを感じた。
「神の力と言われる巨大な魔力を奪う事さえ出来ればな」
「神の力……? 貴方は私と姉上の力を呪いと言ったわ。それに、奪うとはどう言うこと?」
シェリルが問い返すと、ドルアーノは嘲るような視線をやり、シェリルを哀れむかのように見下げた。
「愚かな娘。己の力も知らずに、ただ隠れて生きていこうとはな。お前の力は神の魔力の欠片。絶対なる神秘の力だ。お前の母は真に愚かな女だったな。あれだけの力を持ちながら、平穏に生きよう等とぬかしおった。だから、お前の父を操り、殺した。グローランス伯爵は前よりその『力』に恐怖を抱いていたからな。ちょうど、お前の姉のように」
その言葉に、シェリルは思い当たる節があったことを思い出す。レイリーはシェリルの力を初めて目の当たりにした時、酷く困惑した様子だった。けれど只単に驚いただけだと思い込んでいたシェリルは、レイリーの瞳に宿る恐怖には気付けなかった。彼女は、この力の存在そのものに苛まれていたと言うのに。
「まさか……、そんな馬鹿な。私の母上を、貴方が殺したと言うの……? この力が欲しいから?」
知りたくもない過去ばかり暴かれて、シェリルはただ困惑する。なにが真実なのかわからない。それでも、ドルアーノの言っている事は筋が通っていて、否定することが出来ない。
彼は何のために「力」を求めると言うのだろう。呪いを呼び続ける、鬱陶しいほどシェリルとレイリーの人生を変えたこの力を、一体何に使うと言うのだろう。
「そうだ。私はその力が欲しかった。そして、お前の母を殺した暁に、その力を取り込むはずだった。だが、既に奴は力を誰かに受け継いでいたようでな、苦労したぞ。誰に受け継がせたのか、随分探し回ったものだ。そして、昨年の冬、ようやく見つけることが出来たよ。まさか赤子であったお前が受け継いでいようとは思わなかった」
昨年の冬と言えば、五十回目の建国記念日を祝った年の事だ。シェリルとアルフォンスが王と王妃を喜ばせようと、民の目を盗んで「力」を使ってしまった年。だが、その後、誰かに何かを言われた訳でもなく、噂も聞かなかった。だからシェリルもアルフォンスも安心していたのだ。誰にもばれてはいないと、そう思い込んでいた。
「あ、あの時。見ていたというの……? そんな……」
困惑しきったシェリルはただ呆然と事態を飲み込めずに瞳を瞬く。
と、そこでシェリルの腕の中でアルフォンスが動いた。肩を抑えたまま、苦しげに息を吐き、何とか自身の力で半身を起き上がらせる。
「シェリル……、そいつはもとから狂ってやがる……。もともと、悪魔に魂を売り渡すような奴が、正常なはず無いんだ」
アルフォンスは憎々しげにドルアーノを睨みつけた。
「私が狂っているとは心外だな。誰しも力を望むのは当然だろう?」
困惑するシェリルと、かなりの痛手を負った状態で自分を睨むアルフォンスを眺め、ドルアーノは心底嬉しそうに口元をゆがめる。
彼は初めからシェリルの力を欲していたのだ。王位は二の次で良かったと。そしてシェリルの力に恐怖を覚えたレイリーを利用しようと、ドルアーノは思いついた。結果としては、レイリーもシェリルと同じ力を持っていたのだけれど、それでもドルアーノはシェリルを付狙っていた。今回の事で、彼が執拗なまでにシェリルを追ってきた理由もつく。
全て、「神の力」がいけなかった。呪われているのは力ではなく、力が呪いを呼び寄せてしまうのだ。そのあまりにも強大な存在故に。
「神の寵愛を受けた者だけが、その力を受け継ぐ事が出来る。預言者たちはそう言っていたな。……さぁ、無駄話は終わりだ。潔く、その男と共に死ぬがいい!」
ドルアーノはそう言い放つと、シェリルとアルフォンスの方へ腕を上げた。彼の黒い気が一斉に終結し、蠢きながらドルアーノの意思に従い、黒い球体を形作っていく。それは、破壊するための負の力だった。触れてしまえばそこで消滅してしまいそうなほど強大な破壊の力。「魔道」の中でも禁呪中の禁呪として知られている魔術。やがて黒い球体は放電し始め、紫電を纏い、より巨大に膨らむ。シェリルは初めて恐怖を覚えた。こんなにも大きな力を止める術があるだろうか? 防げなければ、負傷したアルフォンスも含め、シェリルの命は無い。
シェリルは立ち上がり、アルフォンスを庇うように前へ一歩出た。
そして、間近で感じるドルアーノの暗闇の力に微かな不安が込み上げる。
止める事が出来るだろうか……?
弱気になるほどに、ドルアーノの作り出した「力の塊」は強大だった。
それでも、ここで引く訳には行かない。今までの苦労が全て水の泡になる前に、無念に果てた母の為にも、苦しみ続けてきたレイリーの為にも、そしてシェリルを庇い傷ついたアルフォンスの為にもシェリルは決してここで引く訳には行かない。何よりも、全ての元凶となった憎むべきこの悪魔のような男を、魂の欠片も残らぬように消し去ってしまいたい。
体の奥底から力が湧き出てくる気がした。まるで砂漠のオアシスのように、とめどなく溢れてくる。ドルアーノの黒い瘴気とは違う、純粋な力だった。交じり気の無い、透明な力。使い方次第で、この力がどれほど恐ろしい物に変わるのか、シェリルは知らない。知りたくも無い。ただ、それでもこの男を消し去るだけの力を、破壊だけに使われるようにとシェリルは強く望んだ。
――決して、誰にも負けない力を……。
「愚かは貴方の方よ、ドルアーノ」
シェリルも、きっと恐らくシェリルの母だった人も、只単に平穏を望んだだけ。姉の幸せを心から祝福し、それを遠目に眺めて自身も満たされる。そして年月を重ねて穏やかに生きていくはずだった。いつか姪や甥が生まれて、その子達に上手な木登りの方法を教えたり、家庭教師の目を潜り抜ける方法を伝授したり、そんな他愛の無い日常を送るはずだった。それなのに、全てはこの白い悪魔に未来ごと潰された。憎しみだけが底知れず強まる。その存在全てが許せなかった。
「シェリル、駄目だ!」
すぐ後ろから、アルフォンスの叫びがあがった。だが、シェリルの耳にはその声すらも届かない。ただ、憎むべき相手を、真っ直ぐ緑柱石色の瞳で睨みつけ、憎悪の言葉を紡ぐだけ。
シェリルはおもむろに両の腕を手前に翳した。そして、身に宿る全ての力を込めて、ドルアーノの破壊の力を凌駕する更なる力を望む。空気がぴしぴしと殺気立ち、目に見えない針が飛び交っているように魔力の流れが激しくぶつかり合い、小規模な爆発を起こす。
だが、それまでだった。急にシェリルは集っていた力を霧散させた。体が、全ての力が抜けてしまったかのように酷く重く感じられる。まるで透明な戒めに縛られているかのよう。シェリルは力なく翳していた腕をだらりと下ろした。
「どう……して……?」
体が言う事を聞かない。目の前では破壊的な力が集っていると言うのに、シェリルはそれに対抗する力が出せなかった。今までに力の使いすぎで倒れかけた事はあったけれど、こんな症状は初めてだった。シェリルは絶望的に前を見据えた。霞む視界の先に、今まさに力を放とうとしているドルアーノの勝ち誇ったような顔が脳裏に焼きつく。
(何故?)
浮かび上がる様々な疑問の中、ドルアーノの高笑いだけが陰鬱に耳に残って、シェリルの視界は闇に閉ざされた。放たれた闇が、一斉にシェリルに向かって走る。声を上げる事も出来なかった。ただ、暗闇が迫って、それに飲み込まれたら最後だと、遠い意識の中に理解した気がした。
そして、全てが暗闇に包まれた。