オリジナル創作サイト

  1. Home
  2. /
  3. NOVEL
  4. /
  5. 紅き天使の黙示録
  6. /
  7. 第一章 -1- 白い牢獄

紅き天使の黙示録

第一章 -1- 白い牢獄

 天に坐す我らが父よ。
 命儚き散る定めの我らの前に、今一度その御身を現し給へ。
 今やすべての神々は天より姿を消し、滅びの大地を抱き眠る。
 神の存在しない天に、何の意味があるのでしょうか。
 ただ縋るばかりの人は、この滅びの時を如何にして乗り切るのでしょう。
 どうかこの世の危機に、長き睡夢より目覚め給へ。
 我が声、我が祈りが届いているのならば、久遠の眠りより目覚め給へ。

 天に坐す我らが母よ、今ひとたび我らに慈愛の手を差し伸べ給へ……。

◆◇◆◇◆

 柱の合間より光の差し込む神殿の廊下は、ひっそりと静まり返っていた。

 小鳥の飛び立つ羽音とさえずりだけが遠く響き、それ以外の音は存在しない。

 凛と張り詰めた空間に、白い何かが落とされた。静寂を引き裂くように、真っ直ぐに廊下の床へと落下する。

 薄い殻に守られた丸い固形の物体が、廊下を歩いていたラキエルの後頭部に体当たりした。その衝撃に耐え切れず、強度の弱い殻が砕ける。どろりとした液体状のものが、割れた殻の隙間から零れ落ちた。支えの無い殻は中身をぶちまけた後、重力の法則に従い白い大理石の床へ墜落した。

 ラキエルが己の後頭部へ手を伸ばして触れてみると、気色の悪い感触が指先に伝わる。半透明の粘着質な液体状のものは、ラキエルの漆黒の髪に纏わりつき、不快感を煽った。

 間をおかず、嘲るような忍び笑いが、頭上よりラキエルの耳に届く。癇に触れるそれらに顔を顰め、ラキエルはゆっくりと天上を仰いだ。長く伸ばした黒い前髪の合間から上を見つめると、そこには笑い声の主たちがいた。

「おやおや、兎ちゃんが卵を頭に飾ってるぜ?」

 ラキエルの視線の先には、悠然とこちらを見下ろしている四人の天使。柱の上の窪みとも取れる空いた場所に、腰を下ろしている。皆ラキエルと同じ細身の白い法衣を纏い、左の胸元には名を記した銀の札が下がっていた。二枚の雪のように白い翼を悠々と広げ、くつろいでいる。まだ若い天使だという事が、彼らの雰囲気から感じられた。

 四人の天使たちは皆、口元に微笑を浮かべている。けれどそれとは対照的に四つの双眸は、どこか蔑みの感情を孕んでいた。それは憎悪と言う言葉をも連想させる、冷たい視線だった。

「ラキちゃんは天使の癖に、卵を食べるらしいぜ。信じらんねぇな」

 芝居を打つような口調で、一人がラキエルを揶揄する。

 ラキエルには何が面白いのか理解できなかったが、四人の天使達は互いを見合い、くすくすと忍び笑いを零した。

 笑い声が止む。先ほどラキエルに言葉を投げた天使が柱の上から腰を上げ、翼を羽ばたかせつつ舞い降りて、ラキエルに近寄った。

「なあ、本当か? ラキエル。さすが呪い児だけはあるな」

 ラキエルは条件反射に後ろへ後退する。

 相手にしてはいけない。何を言われても、ただ黙っていれば良い。その方が、物事が穏やかに済む。怒りを沈め口を開かなければ、彼らはそのうち去る。それまで我慢だ。そう自分に言い聞かせて、ラキエルは辛抱強く時が流れるのを待つ。

 己を見下ろす天使をただ真っ直ぐに見つめ返した。

「生意気な目だな」

 天使たちは清廉な装いを裏切るような下卑た笑みを浮かべ、だんまりを決め込むラキエルに詰め寄る。ラキエルはそれ以上、後退しなかった。一文字にきつく唇を閉じ、僅かに眉宇を潜め、四人を威嚇するように見上げる。

 その反応が面白くなかったのか、一人の天使が翼を羽ばたいて浮き上がり、ラキエルを見下ろした。ゆっくりとした動作でラキエルの目前まで迫る。

「神殿で問題起こすと、一年の刑罰を科せられるらしいぜ、ラキちゃん? それくらい知ってるよなぁ?」

 ラキエルを馬鹿にしているという事が、その態度からひしひしと感じられる。侮蔑を含んだ冷ややかな視線。笑えない冗談や揶揄の影には、溢れんばかりの憎悪が零れている。それらはまるで、仇と対峙しているかのよう。彼らの嘲笑に隠れているのは、目に見えない刃。何かを憎む思いは鋭い剣となりて、ラキエルへ向けられる。

 口は開かないと心の内で決めていたというのに、我慢できず、ラキエルは天使に言い返した。

「命を粗末にする奴らより先に、刑罰を受ける事は無いだろうな」

 はっきりとそう告げ、ラキエルは髪に張り付いた小さな骸をそっと取る。

 それは先ほど、ラキエルの頭に嫌がらせのために落とされ砕かれた卵。まだ鳥の姿を形成していない肉の塊が、無残にひしゃげていた。血と羊水の混じりあった液体に塗れて、生き物であったものは物言わぬ屍と成り果てている。

 天使達の世界である天界に、食用の卵は無い。天使は空気中に漂う気を取り込み、力の糧とする。この神殿に限らず、天使たちは食事を取らないのだ。木の実や果実などをつまむ事はあるが、肉や卵などの他の命を犠牲にした食べ物は禁止されている。つまりこれは、自由に空を飛ぶはずだった小鳥の卵だ。神殿の庭園の木々からさらわれて来たのだろう。

 哀れみと怒りを感じ、それを表すように四人をきつく見据えた。

「罰を受けるのは、おまえたちだ」

 神の使いを名乗る天使が命を奪うなど、許されない事だ。

 ラキエルに図星を指され、相手は気分を害したように怒りを露にする。

「言うじゃねぇか。だが、お前は自分の立場を理解して無いようだな」

 指を鳴らし、天使の青年がラキエルの胸倉を掴みあげた。襟元が引っ張られ、喉が締め付けられる息苦しさに、ラキエルは顔を顰める。けれど、きつい眼差しで天使を睨みつける事は忘れない。

 ラキエルの反抗的な態度が癪に障ったのか、天使の表情から余裕が消えた。眉を吊り上げ、声を荒げてラキエルに怒鳴りつける。

「呪い児の分際で、生意気なんだよ!」

 握り固められた拳が振り上げられた。ラキエルは次に襲うであろう痛みを覚悟して、きつく瞳を閉じた。

 静寂を引き裂いて、張り詰めた音が響く。

 それは何かを殴ったような音では無く、硝子のような硬質な素材の割れる音だ。そう理解すると、ラキエルは瞳を開いた。

 視界に飛び込んできたのは、色取り取りの鮮やかな硝子の欠片。粉々に砕かれ、廊下の床へと降り注ぐ。天井近くの窓より陽の光が差し込んでいた。

 硝子の欠片が突き刺さると思い、ラキエルは再び瞳を閉じた。

「うわぁっ」

 すぐ近くで、ラキエルを締め上げていた天使の、くぐもった呻き声が聞こえた。同時に、きつく掴みあげられていた襟元が解放され、ラキエルは床に背から転がった。咄嗟の事で受身もとれず、背を強く打ち付ける。痛みに驚いて瞳を開くと、嫌味ったらしい天使の頭の上に、別の天使の青年が立っていた。

「着地成功」

 意気揚々と天使を踏ん付けた青年は、楽しそうな表情を浮かべている。

 ラキエルや踏まれた天使とは違う、黒衣に身を包んだ天使だった。明るい栗色の髪の上に、風変わりな帽子を被っている。細身で、背はラキエルよりも低く思われた。手には装飾細やかで美しい十字を象った銀の杖を持っている。しかし彼の姿で最も目を引くのは、背から生えた翼だった。天使は二枚羽が常だ。しかし彼の翼は二枚羽の合間にもう一枚、白銀に輝く翼が存在していた。それを見止め、ラキエルは突然の訪問者が誰なのかを悟る。

 悪戯好きそうな笑顔を浮かべ、黒衣の天使は踏んだ天使とは別の三人に振り返った。

「お楽しみの所悪いが、じじいが来るぜ? さっさと逃げた方がいいんじゃねぇの」

 黒衣の天使は踏みつけた天使と、背後で困惑している三人に警告する。その楽しそうな口調とは裏腹に、彼の瞳は嘲りの色を持っていた。どこか見下げたような、馬鹿にしたような雰囲気を纏っている。

 ラキエルよりも遥かに生意気な態度を示した黒衣の天使は、軽い足取りでクッションにした天使より退いた。

 「じじい」というのが誰の事か、ラキエルには予想できなかった。だが、ラキエルに突っかかっていた天使たちの顔色が変わった事には気付いた。

「じゃ、オレは先に逃げさせてもらうぜ」

 それだけ呟き、黒衣の天使は踵を返す。そしてそのまま、瞬くような俊足を見せ、長い廊下を走り去っていった。

 残された四人の天使は気まずそうに互いを見やり、こくりと頷きあう。

「ラキエル、後で覚悟してろ」

 一人が捨て台詞を吐き、それを合図に彼らは庭園の方へ姿を消した。

 取り残さされたラキエルは、張り巡らされたステンドグラスの窓を見上げた。色取り取りの透け硝子は美しい構成を描き、光を様々な色に変えている。しかし一箇所だけ無残に蹴り破られてしまった場所がある。恐らく、先ほどの黒衣の天使が落ちてきた場所だろう。そこをぼんやりと見つているうちに、何故四人の天使が逃げたのかを理解する。

 大穴の開いた窓から、一人の老天使が顔を覗かせた。純白の長くゆったりとした法衣を纏う、白髪の天使だ。老天使は窓を観察した後、ラキエルの所へと降り立った。

 深い皺の刻まれた老天使は、ラキエルに身体を向ける。老天使はラキエルを見つめ、視線に気付いたラキエルは老天使に向き直る。見つめた老天使は、普段ではあまり見ない険しい表情をしていた。只ならぬ事態を予想し、ラキエルは恐る恐る声をかける。

「……ディエル様?」

 老天使ディエルは、この天使を育む神殿の最高責任者だ。

 天使は生まれて名を授けられた後、この神殿に集められる。簡単に表現すれば、学園のようなものだ。世界の歴史や神々の偉業、哲学や古代語、そして魔術や法力、精霊学や精神学を学び、天界を支える力を蓄えるまでの間、ラキエルを含む若い天使は様々な事を学ぶ。

 神殿でディエルに逆らう事は、許されない事であり、規則違反に当たる。勿論、神殿の秩序を乱す者に罰を与えるのも、この老天使の役目だ。故に、ディエルは神殿の中で恐れられている。しかしディエルも罪の無い天使を罰したりはしない。何か悪事を働いたり、争い事を起こした天使に限り罰するだけだ。真面目な天使に対しては、温厚で良い師と言えた。

 そのディエルが眉間に皺を寄せ、今にも掴みかからんばかりの様子を見て、ラキエルは困惑する。身に覚えは無いが、己が何かしでかしてしまったのかもしれない。ラキエルはディエルの反応を待った。

 ディエルは真っ直ぐの廊下を見渡して、ラキエルに向き直った。

「ラキエル、ラグナを見なかったか? 今、この場所を通ったと思うのだが」

 ラグナとは、先ほどの黒衣の天使の事だろう。三枚羽が特徴的な彼の存在は、神殿では有名だ。ラキエルも、その姿を間近で見たのは初めてだったが、彼の事は知っている。

 神殿一、いや天界切っての問題児ラグナエル。月の女神の寵愛を受けている天使。生まれて五十年ほどの天使らしいが、彼は問題ばかり起こしているため、神殿を卒業する事ができないのだと聞いた。そして彼は神殿での講義や教義を抜け出しては、好き勝手暴れまわっているらしい。ある日は神殿の祈りの間に火を放ち、ステンドグラスを片っ端から砕いたらしい。ある日は水路に毒を流し、多くの天使を寝台へ送った。最近の悪事といえば、神殿の祭壇に祭られた創世神の石像の首を落としたという事だろうか。やる事がいちいち陰湿で、それでいて神殿の者に多大な迷惑を掛けるような悪事を働くのだ。

 神殿の最高責任者がラグナを追い掛け回しているのは、日常茶飯事である。ディエルの怒りが彼に向いていると分かり、ラキエルは心の内で安堵する。

 ラグナは廊下を真っ直ぐ走って消えた。偶然とはいえ助けてもらった形になるラグナの行方を、ディエルに告げるべきだろうか。ディエルに逆らう気は無い。ラグナの普段の悪事を考えれば、告げ口をする方が正しい。

 ラキエルは先の四人の天使たちのように、悪事を働いた事は一度だって無い。師である大天使やディエルたちには、真面目な天使と評価されてきた。事実、ラキエルは今まで規則を破るような事はしていないし、平穏であればそれが一番だと考えている。善悪の区別もはっきりと分かっている。

 しかし、何故かディエルに真実を告げるのは躊躇われた。

「庭園の方へ、行きました」

 嘘をつくのはいけないと思いながら、ラキエルは廊下ではなく庭園を指差した。ディエルが視線をそちらに向ける。

「そうか」

 短く答え、ディエルはラキエルを見つめた。深い灰色の瞳に見つめられ、ラキエルは心の内が見透かされている気がした。天使といえど、心を覗く術は無いはずだ。そう理解していても、後ろめたさからラキエルは視線を外した。

「ラキエル、何かあったのか?」

 ラグナの事を聞いた声とは違う穏やかな口調で、ディエルは問う。

 ラキエルは手に持っていた小さな骸を背に隠し、俯いた。

 脳裏に浮かんだのは、先ほどの四人の天使たち。彼らはラキエルに対する嫌悪感をはっきりと行動に出す。彼らだけでは無い。この神殿にいる半数以上の天使が、ラキエルを蔑んでいた。廊下を歩くたびに耳に届く嘲笑、陰口。侮蔑を含んだ痛いほどの冷たい眼差し。

 この白い天使の世界は、ラキエルにとって牢獄だった。

 己が蔑まれる理由は知っていた。その理由が忌むべきものだとも理解している。だが、ラキエルにはどうする事も出来なかった。生まれながら罪の証を持つ者に、酌量の余地は無いのだ。そして、その証が一生消えない事も知っていた。

「いいえ、何も……」

 告げ口をするのは簡単だ。しかし、その後の報復は速やかだろう。黙っている方が良いのだ。黙っていれば、相手もいつしか忘れるだろう。反応しなければ良い。そう心に決めて、過ごしてきたのだ。今更、真実を告げる事は出来なかった。

「……ラキエル。その小さな亡骸を、土に返してやりなさい」

 ディエルはそれだけ呟き、庭園の方へ向き直り、翼を広げ広い空へと飛び立っていった。

 ラキエルは老天使の姿が小さくなり、視界から消えるまで見つめた。庭園の背の高い木々に遮られ、老天使の姿が見えなくなると、ほっと溜息を吐いた。

 背に隠した形を成してすらいない肉と液体の塊を、そっと持ち上げる。廊下から出て、庭園に足を踏み入れ、ラキエルは近くの大木に近寄った。その根本にしゃがみ込み、骸を芝生に置き、木の根元を掘り返す。爪の中に土が入り込んだが、気にせず掘り続けた。

 そして生まれる事無く散った命を、そっと大木の根本に埋めた。

「……次の生に幸多からんことを」

 神の御使いの世界で、祝福され生まれてくるはずだった小さな鳥。けれどこの世で息を吹き返す事も無く、下らない理由で命を奪われてしまった。神の御使いが命あるものを殺めるなど、どこまで愚かなのだろうか。

 心の内で渦巻く怒りを抑え、ラキエルは立ち上がった。そして神殿の廊下へ戻り、その先を歩き始める。

(天界は腐り始めている)

 そう思わずにはいられなかった。命を粗末にする天使。神の寵愛を受けながら、それを盾に遊びまわる天使。そして最近問題にされている、天使の中で最も祝福されていたはずの大天使の堕天。ラキエルが他の天使に嘲りの目で見られるのは、これが原因だった。

 かつて、天界には一人の男がいた。真っ白い髪に、血のように紅い瞳を持ち、白き天使と呼ばれていた男だ。十二の神に愛されながら、その恩寵を跳ね除け、大地へと堕天した。他の天使たちが血眼で彼を探し出し、天界へ連れ帰ったのはそう昔の事ではない。しかし、再び天界に姿を現した彼の人は、心身共に変わり果てていた。神を激しく罵り呪い、神より与えられた巨大な力を用いて、多くの天使を虐殺した。そして彼は再び堕天した。世界の終焉を予言して、彼は姿を眩ませた。

 ――この世界は次期に終焉を迎える。世界は紅く染まり、すべての命あるものは、死の祝福を受けるだろう。

 白き天使はそう予言した。

 この世のすべてを呪うような暗い眼差しで、数多の血を吸った唇で、狂気の言の葉だけを残した。

 それらは天使上層部の者たちが見聞きした事だ。だが、いつしかそれらは様々な尾びれがついて、ある事無い事を含んだ噂として、神殿内にも届いた。

 しかし、それも唯の噂では済まない状況となっていた。聞いた話でしかないが、下界――人々には人間界や地上界と呼ばれる世界――では、原因不明の天変地異が起きているらしい。巨大な嵐が通り過ぎた町は全壊し、堅牢な砦は大地震で崩れ去った。自然の驚異と取れなくも無いが、相継ぎ起きる災厄に天界の者は不振さを感じた。そして近日調べられた結果によると、それは何者かが自然バランスを崩しているせいだと判明した。自然の均衡は天使たちが管理している。その均衡が極端なまでに崩れるなど、前代未聞だ。しかし、一人だけ、それが可能な存在がいたのだ。

 十二の神の恩寵を得し、白き堕天使アルヴェリア。

 彼の力と、予言を考えれば、この災厄を起こしているのはアルヴェリアだと言えた。そして彼の存在が、ラキエルの心に暗く影を落とした。

 廊下を進む最中、一条の光がラキエルの目をくらませた。眩い光に瞳を細め、光の飛んできた方を見やる。光は、廊下の壁に立てかけられた鏡に反射してラキエルの瞳に刺さったようだ。

 見つめた先で飾り気の無い無機質な鏡が、ラキエルの仏頂面を映し出していた。天使にはあまり見られない漆黒の髪の青年が、じっと自分を見つめる。豊かな黒髪は毛先に癖があり、好きな方向へと手を伸ばしていた。無造作に伸ばされた前髪は瞳を隠すほどに長い。それを手で払い除け、ラキエルは己の瞳を見つめた。

 曝け出された瞳は、血よりも紅く、紅玉よりもなお鮮やかな色彩を持っていた。かつて天界でもっとも敬われていた天使と同じ色彩が、煌々と存在を誇示している。恐らくこの世に二つと無いはずの紅の瞳。神の祝福を受けたアルヴェリアだけが持ち得たもの。それは、ラキエルの瞳にも存在していた。

 誰もがラキエルの存在を疎む。

 アルヴェリアが憎まれた分だけ、ラキエルに怒りの矛先が向けられた。

 同じ色彩を持つラキエルに、天使たちは憎しみを抱いたのだ。

 罪を犯した白き天使の証。生れ落ちた時より、ラキエルはこの紅い瞳を持っていた。ラキエルに罪は無くとも、この瞳を持つ者に罪があるのだ。

 ラキエルはこの色彩を嫌っていた。

 隠そうとしても、目を開いている時は前髪の合間より覗いてしまう。髪の色ならば、染めてしまえば良い。顔の造形が似ているのならば、傷つけるなりして変えてしまえば良い。けれど瞳だけは、色を変える事が出来ない。どんなに厭っていても、その色彩が消える事は無いのだ。

 アルヴェリアを誰よりも恨んでいるのは、ラキエルだ。

 名しか知らぬ存在の為に、謂れ無き罪を問われる日々。

 長い間、ラキエルは天使たちの憎悪の対象となってきた。昔はその瞳の色を揶揄される度に、精一杯反抗した。だが、アルヴェリアが存在する限り、彼らの瞳にラキエルは忌み子として映るのだ。いつしかラキエルは、反抗する気も失せていた。

 思えば、彼らとて過去の悲劇への怒りを誰かにぶつけなければ、行き場の無い不安を拭えなかったのだろう。その対象に選ばれたのが、ラキエルだったというだけだ。

 ラキエルさえ我慢さえしていれば、彼らも己の行為を改める時が来るだろう。今は黙っていれば良い。心を殺して耐えていれば、次期に終わる。そう信じて、ラキエルは生きてきた。

 時間はかかるかもしれないが、きっとラキエルを受け入れてくれる日が来る。

 鏡に映る己の顔を覗き込んで、ラキエルは頷いた。

 泣き言を言ったところで、現状は変わらない。

 アルヴェリアの罪が消えるその日まで、耐え抜く事が出来れば、ラキエルは解放される。その時までの辛抱だと自分に言い聞かせて、己を納得させた。

 ふと、背後に人の気配を感じて振り向く。

 今の今まで何の気配も感じていなかった場所に、黒い外套を纏った男がいた。フードを深く被り、その顔は判別できない。だが、男を取り巻く空気の異様さに、ラキエルは一歩後ろへ退いた。

 殺意も敵意も感じない。けれど、どこか冷たい気を持つ男であった。漆黒の外套は暗い雰囲気を醸し出して、男の不気味さを煽る。神殿の指導者側にも、このような装いの者はいない。神殿の者は白い法衣を纏うのが常であるので、この男は外来者という事になる。ラグナの纏う法衣は黒いが、彼は勝手に法衣を染めただけだ。そのような特殊な者以外、黒い外套を纏う者などいない。

 とても天使とは思えぬその人は、ラキエルへと一歩詰め寄った。

 ラキエルは警戒を解かずに、相手を真っ直ぐに見つめる。

「……ラキエルか?」

 冷ややかな声は低く、不思議な威圧感を持っていた。

 ラキエルは言葉で返事をせずに、不振そうな眼差しを向けて小さく頷く。

「そうか。まだ子供ではないか」

 その言葉に、ラキエルは不愉快そうに眉間に皺を寄せる。

 ラキエルは天使としてはまだ若いが、人間で言えば成人した者と同じだけの年月を生きている。問題児ラグナのように、悪戯を繰り返す事も無いし、言動にも気をつけている。顔立ちはいくらか幼さが残るとはいえ、大人といっても差し支えないほどに成長している。

 見知らぬ男に突然子供呼ばわりされるのは、実に面白くない。

 何かを言い返そうとしたラキエルより先に、男が再び言葉を発する。

「聞け、ラキエル」

 感情を押し殺したような、抑揚の無い声。

 ラキエルの脳裏に、嫌な予感が過ぎる。

 男は一呼吸の間を置き、感情のこもらない声で言葉を吐き出した。

「……お前の存在は、この天界の汚点となる」

「――え?」

 言葉を聞き間違えただろうか。

 何を言われているのか理解できず、ラキエルは困惑したように男を見つめた。

「お前は、天界のために消えなければいけない」

 淡々と紡がれる言葉は非情の刃となりて、ラキエルの心に突き刺さる。

「何故……」

 ラキエルが他の天使に憎まれる理由は、この瞳ゆえ。紅き瞳が、天界でもっとも重き罪を犯した天使と同じだったから、ラキエルは疎まれた。けれどそれは、ラキエルに非があったわけではない。

「お前に罪は無い。だが、お前の持つ瞳は、かつての白き天使を彷彿させる」

 言われなくとも、それはラキエル自身が一番良く知っている。

 今更、面と向かって事実を告げられたところで、何の驚きも無い。

「お前の存在は、天界を混乱させる。今までお前は見逃されてきたが、とうとう上が判決を下した」

 一呼吸の間を置いて、男の無機質な唇が残酷な言の葉を紡ぐ。

「お前は、天界のための犠牲となるのだ」

「何を……!?」

 男の手が、漆黒の外套の下より現れる。純白の手袋をはめた手が、ラキエルの眼前に翳される。

 反射的にラキエルはその手より逃れようと動く。腕を前に翳す構えは、何かしらの術を操る時のものだ。咄嗟に危険を察知し、ラキエルは床を蹴り、横に飛ぶ。

 だが、僅かに反応が遅れ、避け切る前に、男の指先より光が放たれた。

 光はラキエルの胸を貫き、通り過ぎる。血が凍りつくような感覚が全身を巡り、頭に鈍い痛みが生じた。急に全身から力が抜けて、ぐらりと視界が揺れる。ラキエルは床に手をついた。吐き気がすると同時に、強烈な睡魔が襲う。

「どうし、て……」

 男は答えず、無情にラキエルを見下ろしていた。

 その冷ややかな視線が、冷酷な魔物を連想させて、ラキエルは微かな恐怖を覚えた。

 霞む意識の中、黒衣の男の手が伸びてくるのを見つめる。

 男の腕が倒れるラキエルを受け止めたところで、ラキエルは意識を手放した。