オリジナル創作サイト

  1. Home
  2. /
  3. NOVEL
  4. /
  5. 紅き天使の黙示録
  6. /
  7. 第二章 -9- 命の巫女

紅き天使の黙示録

第二章 -9- 命の巫女

 静かだった。

 先ほどまで頭に直接響いていた耳鳴りも、夜の風のざわめきも、いつの間にか消えていた。

 夜が少しずつ明けて、闇が逃げるように地の果てへと姿を隠す。草花が朝露を身に纏いきらりと光りを零し、一日の始まりを告げる清々しい空気が辺りに満ちた。眩いばかりの日が昇り、新緑の大地を柔らかく照らしている。

 しかし、視界に映るものは全て、どこか霞がかっていた。

 小鳥の声も、風の音も、己の足が草花を踏む音すら何も聞こえない。

 ラキエルは、真紅の瞳を細めて、空を仰いだ。

 額から、一筋の汗が頬をすべり、大地に溶けて消えた。

 夜通しで歩き続けるうちに、少しずつ、体から力が抜けていく。

 ラグナを背負う力も弱まり、今にも大地へ落としてしまいそうになる。

(もう少し……)

 目と鼻の先に、人の住まう気配を感じる。宿の主人の言っていた、ドルミーレの村で間違いないだろう。そこへ行けば、命の巫女と呼ばれる治癒能力を持つ人間がいるはずだ。一刻も早くラグナの傷を癒してもらわねばならない。

 少しの猶予もなかった。背負ったラグナは、ぐったりとしたまま動かない。体温が失われていないので、辛うじて生きてはいるようだが、それでも限界に近いだろう。応急手当を施した傷口の布は、すでに赤く染まりきった。

 一休みをするわけにはいかない。けれど、一歩を踏み出すための足が、鉛のように重かった。泥沼を必死に掻き分けて進んでいる感覚。足を止めればそこで、底なし沼に引きずり込まれてしまう。額に滲む脂汗を拭いもせず、ラキエルはただ真っ直ぐに歩く。

 霞む視界の先で、金色の何かが見えた気がした。

 ラキエルは瞳を細め、前方に浮かぶ影を判別しようとする。しかし、濃い霧でも立ち込めているかのように、朧な影だけがゆらゆらと陽炎のように揺れた。

 前方に気を取られるあまり、ラキエルは足元への注意を怠った。不意に、何かに足を取られ、踏みとどまる余裕もなく大地へと倒れこんだ。ラグナを背負ったまま、前のめりに大地へと頭をこすり付ける。頬に痛みを感じるも、呻く声すら出なかった。

 体温よりも冷たい土の感触が、酷く心地よかった。駄目だ、立たねばならない。脅迫に似た概念が脳裏に響くが、ラキエルの四肢はピクリとも動かなかった。徐々に手足から、底の抜けた泉のように力が抜けていく。

 強烈な眠気を感じながら、ラキエルはもう一度だけ前方に目を向けた。

 黄金の影が、ラキエルに向かって走っているように見えた。

 サリエルが、傷ついたラグナを迎えに来てくれたのだろうか。

 それなら良い。彼だけでも、助かるのならば。

 頭の片隅でそれだけを考え、ラキエルは静かに瞳を閉ざした。

◆◇◆◇◆

 ヴェルディス家の屋敷は、街の小高い丘の上にあり、町まで少し歩く。教会へ向かうべく、シシリアはローティアと侍女のミーナに一言断り、家を出た。心地よい朝の空気を吸い込み、歩き出そうとしたシシリアは、隣町の方角からやってくる人を見止め、足を止めた。

 白い装束を纏った青年が町の方へ歩いていた。

 別に、旅人など珍しいものではない。

 ただ、男の様子が、どこかおかしかった。遠目にも酷く衰弱している事が分かるほど、おぼつかない足取り。身体は揺らぎ、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。前かがみになって歩いているので、はじめ老人かとも思った。だが、良く見れば青年の背にもう一人、黒い服を纏った誰かが背負われている。

 シシリアは二人が近づくほどに、不自然な命の灯火を感じ取った。

 まるで、いつ消えてもおかしくはない、燃え尽きる寸前の蝋燭の火のようだ。少しの衝撃で、容易く命は消えてしまう。

 肌で感じた死の香りに、シシリアは鋭く反応した。

 目の前で、命が散ってしまう。

 シシリアは引き寄せられるように、男の方へ走り出した。教会へ持って行くはずだった見舞い品や清潔なガーゼや包帯の入った籠を地面に捨てるように投げ、加速する。男が何かに足を取られたのか、均衡を崩し前のめりに倒れた。背負っていたもう一人が、大地へと落ちて二回ほど転がり、動かなくなる。

 シシリアは悲鳴を上げそうになる口を閉じて、二人のもとへと駆けつけた。倒れた青年に近寄り、恐る恐る声を掛ける。

「もし……、大丈夫ですか?」

 シシリアは己の服の裾が汚れるのも構わず大地に膝を立て、倒れた青年を揺すってみた。しかし、返事は無い。

「失礼します」

 小さく断りを入れて、シシリアは青年を仰向けにさせた。

 黒い髪の、まだ若い男だった。顔色が悪く、唇は血の色を完全に失っている。視線を青年の身体に向けると、彼の纏う白い法衣のいたる所に、赤い色が染みていた。聖職者を思い浮かばせるような、ゆったりとした法衣は、小さな穴がいくつもあり、そこを中心に血が滲んでいた。

 シシリアはそっと、青年の頬に手を伸ばした。

 土気色の肌には生気がなく、指先で触れた頬は体温が低下し、呼吸も聞き取れない。けれど、命の巡る鼓動が、弱々しくも響いていた。

 ――生きている。

 まだ間に合う。

 シシリアは一瞬躊躇った。

 先ほど交わした弟との約束を、違えねばならない。

 しかし、失われつつある命を、見過ごすわけにもいかない。

 シシリアは僅かに手を止めたが、覚悟を決めて意識を集中させた。

(大地母神よ……どうか、私に力をお貸し下さい)

 心の中で祈りを捧げ、赤く染みた法衣の上をなぞるように触れた。

 慈しむように、できるだけ優しく傷口を撫ぜる。雪の如く白い指先に、命と言う形容しがたい不完全な力が集う。シシリアの内側から、温かな光が指先を伝い零れ落ちた。光は星のように煌き、指先の触れた青年の傷口に黄金色の輝きが纏わりついていく。

 苦痛に歪んでいた青年の顔が、少しだけ和らいだ気がした。

 シシリアは一度手を止めて、青年の額や頬に張り付いた砂と前髪を払ってやった。

 顔色が悪く、所々薄汚れてはいるが、育ちの良さそうな印象を受ける青年だった。白い法衣を着ているので、神に仕える聖職者なのだろうか。ローティアとそう変わらない年頃に見えるので、修行中の僧侶かもしれない。

「……うっ」

 青年が短く呻き声を上げた。

 シシリアは緊張に身を強張らせる。目を覚ますだろうか。青年の長い睫が微かに震え、大地に寝転がっていた手がぴくりと動いた。

 ゆっくりと瞳が開かれる。空の方を見つめた青年の目は、切れ長でややきつい印象を受けた。黒い睫に縁取られた瞳は、紅玉のように鮮やかな深紅。

 シシリアは息を呑んだ。

 目から血が滲んでいるのかと思った。だが、朝日に照らされた透き通る紅の瞳は、間違いなく彼のものだ。兎のように、光の具合で赤く見えたわけではない。シシリアの瞳が空と同じ色であるように、彼の瞳は白い法衣に滲んだ、暗く、けれど鮮やかな血の色だった。

「ラ……グナ……」

 渇いて掠れた声が、青年の唇から零れた。

 深紅の瞳は、シシリアをすり抜けた先を見つめる。

 シシリアはもう一人、青年に背負われていた人を思い出す。青年から少し離れた場所に転がっているのは、全身漆黒の衣に身を包んだ男だった。こちらは完全に意識を失い、瞳は固く閉ざされ、動く気配が無い。大地を通して伝わる鼓動は、酷く微弱であった。

 傷口に巻かれた包帯は赤く滲み、異常なまでの出血は傷の深さを物語っていた。

 シシリアはもう一度黒髪の青年に視線を戻す。

 力なく横たわる青年の瞳は閉じていた。酷く衰弱している事が窺える。傷を癒しただけでは、削られた体力まで回復しない。失われた血も、シシリアの手ではどうにもならない。

 一抹の不安を感じながらも、シシリアはもう一人の命を救うべく手を伸ばした。

◆◇◆◇◆

 眼が、焼けるように熱い。

 燃え盛る炎に焼かれているのだろうか。背の翼にも、酷い痛みと熱が暴れている。白い羽根が一枚、二枚と紅く染まっていく。同時に、瞼が熱に焼かれ、爛れて焦げていく。己の肉の焼ける臭いが鼻を突いた。熱が瞼の奥まで侵食する。見えない恐怖、拒めない熱。怒りと絶望の入り混じった涙が、閉じた瞳から止め処なく零れた。しかし、そんな涙すら嘲笑うように、灼熱の炎は瞳を焼いていく。

 あまりの苦痛に叫んだ。

 何度も何度も、罵りの声を上げた。

 許しは請わなかった。自分は何も悪い事をしていないのだから、嘘でも媚びるような言葉は口にしない。

 ただ逃げる事のできない痛みに、狂ったように叫んだ。その声が、叫びが、天に届けば良いと思った。自分の声で、自分勝手に世界を見放したお前達が、少しでも悔いれば良いと――。

 頭が割れそうだ。深い憎悪が行き場をなくして、身体の内側でのた打ち回っている。声が枯れるほど叫んでも、この感情は消えない。理性が蝕まれ、狂気と言う名の闇が心に満ちていく。

「……サリエル」

 無意識に名を呼び、女神の名を頂いた少女が脳裏に浮かんだ。

 不思議な事に、はちきれんばかりに膨らんだ憎悪が、急激に冷えていく。

 恐る恐る、瞳に手を伸ばす。焼けるような痛みを感じていたはずの眼は、熱を持っていなかった。ゆっくりと瞼を上げる。緩い光が瞳に入り、慣れない眩しさに視界が眩む。しかし、すぐに順応してきた眼が、白い色を映し出した。

 闇は無かった。天井と思わしき白い壁は、よく見れば淡色で細やかな文様が描かれている。

(見える)

 視界が利くことに安心し、ラグナは息を吐いた。

 首だけを動かし、己の置かれている状況を分析する。比較的広い部屋の真ん中にある寝台の上で、仰向けに寝かされていた。木漏れ日の香りがする清潔なシーツ、ベッドサイドの背の低い棚には、薔薇の花を生けた花瓶が置かれている。木の床は良く磨かれ、光を招く窓からは、良く晴れた空が見えた。白を基調にした壁に、深い色合いのダークブラウンの家具が置かれた部屋だった。

 ラグナ以外に、誰も居ないようだ。

 警戒心を解かないまま、ラグナは上半身を持ち上げて起き上がる。

 痛みを覚悟していたが、風穴を開けられていた腹部は、ちくりとも痛まなかった。不思議に思い手を伸ばす。そこで自分がサテン生地の滑らかな布の服に着替えている事に気付いた。足首までの丈の、首を通すところだけぽっかりと空いた、楽な着物だった。淡い灰色の艶やかな生地は、ラグナには馴染みのないものだ。頭部に手を伸ばす。いつも目深に被っている黒い帽子は無く、ぼさぼさとした鳶色の髪をかき回した。

 一体これはどういう状況なのだろう。

 ここは恐らく人間の家だ。比較的裕福な屋敷だという事は、部屋の広さや調度品から窺える。問題なのは、どうして自分がここにいるかだ。二の次に、深く負った傷が癒えている事。

 ラキエルが癒しの術を使ったわけではないだろう。天使といえど、命を脅かすような傷を一瞬のうちに癒す事はできない。ましてや、ラキエルは魔術が不得手だったはずだ。

 ラグナの予定では、怪我は天から落ちる最中見つけた寂れた村で癒すはずだった。天使は人間よりもずっと強い生命力を持つ。腹に風穴を開けられたくらいでは死なない。高い生命力を持つ代わり、重傷を負った場合、体力の消耗を抑えるために、身体は仮死状態に入る。呼吸や体温はぎりぎり生きていられる程度まで抑えられ、意識は深い眠りにつく。そうしている間に追っ手に見つかっては不味いのだが、そうするほか道は無かった。

 けれどここは、どう考えてもあの村ではない。ついでに、こんなに早く傷が癒えるはずも無い。何があったか、まずはラキエルに問うべきだろう。

 ラグナはラキエルの気配を探した。

 すぐ近くに、彼の気を感じ取る。恐らく、隣の部屋だ。まだ意識は戻っていないようで、彼の気はとても微弱なものだった。

 気配を探る途中、異様な気を感じ取る。人間にはあるはずのない、強い魔力の香りがした。この家の中にいる、誰かだ。

 天使の気配とはまた違う――。

 深く突き詰めようとしたラグナの耳に、足音が響いた。慌てて浮遊していた意識を現実に呼び戻し、己の杖を探す。武器となるものは、あれしかない。しかし、ラグナの十字の杖は、この部屋にはなかった。

 警戒に身を強張らせる。

 すぐに空間転移の魔術を発動できるように、毛布の中で印を結ぶ。

 足音が近づく。小さな音だ。女か、子供だろうか。だが油断はできない。

 構えるラグナの見据えた先で、木製の扉が軋んだ音を立てて開かれた。

 ゆっくりとした動作で部屋に姿を現したのは、若い女だった。

 二十歳ほどの年齢だろうか。豊かな黄金の巻き毛を背に届くほど伸ばし、若草色のゆったりとした裾の長いドレスを身に纏っている。どこか品のある優しい顔をした女だった。一つ、顔色が酷く悪いのが気になったが、もともと色白なのだろうという事で結論付けた。女は手に水差しやタオルを載せた盆を持ち、驚いたようにラグナを見つめている。

 ラグナは警戒心を表面には出さず、不思議そうに女を見つめ返す振りをした。

「目を覚まされたのですね。お加減はいかがでしょうか?」

 扉を閉めて近づいてきた女が、声を掛けてきた。優しく落ち着いた、やや低めの声だった。

「悪くないけど、ここはどこだ?」

 女がベッドサイドに盆を置くのを横目に、ラグナは問い返す。

「ここはドルミーレの村の端にある、私の家です。私はシシリア・ヴェルディス。この家の主です」

「オレはラグナ。連れがいたはずなんだが、知らねぇか?」

 ラグナの礼を欠いた言葉にも嫌な顔をせず、シシリアは安心させるように微笑んだ。

「隣の部屋で眠ってます。お二人とも怪我をされていたようなので、差し出がましいかもしれませんが手当てをさせて頂きました」

 なるほど、傷が痛まなかったのは、手当てを施してもらえたからか。

 などとどこかの馬鹿みたいに素直に納得できるわけがない。いくら自分達天使が再生能力が高く、人間よりも頑丈にできているとはいえ、一日そこらで傷が治るはずない。あの程度の傷ならば、最低でも完治に一週間は必要だったはずだ。手当てを施したと言っても、人間の縫合術や薬の効果など、たかが知れている。

 それとも、一週間以上眠っていたとでも言うのか。

「迷惑をかけた。一つ聞きたいんだけどさ、オレはどれくらい眠ってた?」

 彼女が七日以上の数字を出したなら、ラグナの予想は外れる。長々と寝ぼけていたとしたら、それは自分で自分を殴ってやりたい事態だ。

 しかし、もしも三日以下だった場合、それは――。

「半日ほどですよ。お連れの方は、少しだけ意識があったのですが……よほど疲れていたのでしょう。今も深く眠ってます」

「そっか。半日ね……」

 ラキエルよりも先に意識を失ったため、地上に落ちてからどれほどの時間が経ったのか分からない。だが、ラグナほどではないとはいえ、ラキエルもかなりの傷を負っていた。彼がラグナを連れて何日も歩き続けられるわけがない。恐らく、ラグナが意識を失ってから一日も経っていないはずだ。

 ならば問題は、どうしてこの場所にいるか、ではない。

 どうして傷が癒えているのか、だ。

 もしかしたら、先ほど感じた強い魔力と関係あるのかもしれない。

「あの、お体の具合はどうですか? 大分出血されていたので……」

 どこか申し訳無さそうに、シシリアはラグナの容態を尋ねる。確かにラグナは大量の血を流した。けれど傷が癒えた以上、今は本来持っている再生能力が、失われた血を作り出しているだろう。その程度ならば、一日でもすれば元通りになる。

 むしろ、ラグナよりもシシリアの容態の方が気に掛かった。背筋を伸ばし、凛として立っているが、やはり顔色が悪い。目の下には薄っすらと隈が窺える。ゆったりとした服を纏っているので分かり辛いけれど、袖から覗く手首は、枯れ木のように細かった。美しい娘ではあるのに、病的なまでの顔色と儚げな肢体に、こちらが大丈夫かと尋ねたいくらいだ。

 一つの可能性が脳裏に浮かび、ラグナは慎重に言葉を選んだ。

「傷は痛まねぇけど、少し貧血気味だな」

 ラグナは己の肌の色が青白い事を自覚しているので、それを利用する手に出る。額に手を当てて、眩暈を感じたという仕草を見せ付ける。シシリアは慌ててラグナを心配そうに見つめ、ベッドサイドの水差しからコップに水を注ぎ、差し出す。

「すみません。傷は癒せても、失った血はどうにもできないんです。貴方が目を覚ましたのも、奇跡に近くて……」

 蒼穹の色をした瞳が、悲しげに伏せられる。

 謝る事など何もないのに、シシリアは酷く憂いを帯びた表情を浮かべていた。

(傷は癒せても、か……)

 胸のうちでシシリアの言葉を繰り返し、ラグナはコップを受け取り、一口水を飲み込む。渇いていた喉が、恵みの水を受けて歓喜するが、一気に飲み込むような真似はしない。あくまでも、弱っている病人を演じなければならない。

 彼女が、もう少しぼろを出すまで。

「いや、手当てをしてくれただけでも十分だ。世話になったな」

「いいえ。お困りの方を助けるのは当然の事。まだ本調子ではないでしょう? しばらく、ここで療養されていくといいわ。お連れの方も、まだ目を覚まさないようですし」

 人を疑う事を知らないのだろうか。シシリアは天使のような笑みを浮かべ、見ず知らずの旅人を受け入れるという。得体の知れない部分はあるが、その申し出は今、大変ありがたかった。

 ラキエルには頭の中を整理する時間が必要だろう。同時に、ラグナも世界の動向を探る必要がある。天使達の追っ手を巻きながら、ラキエルと言う荷物を背負って歩くのは、流石に骨が折れる。まずはここで、天使の力を封じる結界を張り、追っ手を巻こう。天使達も、ラグナ達が長くゲートの近くに潜んでいるとは思うまい。体力が完全に戻ったら、改めて旅立てば良い。

「悪いな……」

 しおらしく答えてみれば、シシリアは「お気になさらず」と人の良い笑みを浮かべた。

「お客様なんてあまり訪れないので、この部屋も寂しがっていたところですから。どうぞ心行くままくつろいでください」

 宿を提供してもらえるのは嬉しい。

 だが、このシシリアと言う女の存在が引っかかる。

 何か陰謀を企てているようには全く見えない。いわゆる善人と呼ばれる類の人間だろう。彼女は警戒する範疇から消した。警戒する必要など、無いだろう。自慢ではないが、ラグナは直感で人の本質を見抜く事が出来る。ラキエルが馬鹿正直な真面目ちゃんで、実は寂しがりの甘ったれだという事も、一目で分かった。少し話してみたが、やはり間違いない。

 と言っても、直感だけを頼りにしたわけではない。

 彼女からは、自分と同じ力を感じる。

 神々の恩寵と言う名の、異端の力――。

 はっきりと口にしたわけではないが、彼女が傷を癒したと見て間違いないだろう。ラキエルを探していた時に感じた魔力も、彼女が持つ力かもしれない。今は、不思議とそんな気配を感じないが。

 ラグナはしばらく考え込む振りをしてから、シシリアの申し出を受けた。

「恩に着る」

「困った時はお互い様です。……あの、私には丁度貴方達と同じくらいの弟が居るんですけど、良かったら話し相手になってくれませんか? あの子、最近部屋にこもりがちで、町の人と話さなくなっちゃって……」

 引き篭もりね、実に面倒だ。などと思いつつも、口には出せずラグナは取り繕った笑顔で頷いておいた。

「オレでよければ、いくらでも」

 後でその弟の相手をラキエルに押し付ければ良い。引き篭もりと根暗、案外気が合うんじゃないだろうか。ラグナとしては、面倒な事は願い下げだ。しかし、体面を保つために快諾する。邪な感情を決して外には出さないラグナに、シシリアは嬉しそうに頭を下げた。

「ありがとうございます。私はこれから教会に行くので、何か不自由がありましたら、手伝いのミーナに言ってやって下さい」

 ラグナの仮病、もとい容態を気遣ってか、シシリアはラグナに横になる事を勧め、部屋を後にした。
 扉が閉じる音を聞いて、ラグナは深く溜息を吐く。

 善人の相手は苦手だ。これからの身の振り方を考え、無礼な物言いは避けるよう言葉を返した。けれど、長らく人に遠慮していなかったため、神経を遣った気がする。面倒だと思いつつも、第一に考えるべきは己の利益だ。

 ここで彼女に好感を持ってもらうのは、今の状況を改善させる事に繋がる。

(せいぜい猫でも被っとくか)

 良い子ぶっている時は、回りの人も優しくしてくれるものだ。

 それが、本当の自分の姿でなくても、構わない。

「さて、まずはどうすっかな」

 ラキエルはまだ寝ているという。

 脱出の際に負った傷が癒えていたとしても、内面の傷は癒えていないだろう。時間は無限にあるわけではない。けれど、今くらいは休ませてやっても良いか。

 追っ手が差し向けられたなら、彼は罪悪感と言う名の悪夢に苛まれるだろう。終わりのない逃亡劇。精神を削り落としていく日々。自分に正直で、馬鹿みたいに真っ直ぐな心を持つ者は、罪の意識に弱い。

 そうと知りながら手を差し伸べたラグナも、どうかしているのだが。

 ラグナは空を見やった。

 幸い、近くに天使達の気配はない。

「……フィーオは、オレを試してるつもりなのか」

 もしも、そんな悠長な事をしているなら、限りなく愚かだと言えよう。

 すぐにでも追っ手を差し向けていたなら、捕まえる事ができたかもしれないのに。

 残念だったな。

 嘲るように笑い、ラグナは両腕を空に向けた。短く呪文と唱え、力を使う。金色の光がラグナの手より放たれ、窓から空に向けて飛んだ。ぐんぐんと光は上昇し、ドルミーレの村を見下ろせるところまでいくと、空中に留まった。ラグナがもう一声呪を紡ぐ。すると光は突然はじけた。月の光が静々と大地に降り注ぐように、光の粒子が町を包む。

「ま、応急処置って事で」

 町全体に、魔力を消す術をかけた。ラグナ自身もしばらく術を使えないが、人間として療養するのならば好都合だ。追っ手が放たれても、魔力の気配が無ければ、町を探し回るような真似はしないだろう。

 やるべき事は一つ済ませた。

 ラキエルは目覚めていない。では、次に何をしようか。

 ラグナの出した結論は、体力温存のためにもう少し眠る事だった。