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紅き天使の黙示録

第二章 -8- 辺境の村

 冷えた石畳の道に、白い結晶がふわりと舞い落ちた。

 羽根のように軽やかに、子供のように気まぐれに空で踊り、くすんだ大地を白く染めていく。

 少年は髪や肩の上に雪が積もるのも気にせずに、闇の空から注ぐ白いものを見つめていた。質素な集団住居の、雨よけさえない階段の一段目に座り込み、星の見えない夜空を仰いでいる。冷えて赤みを失った柔らかい頬を、凍てついた雪がゆるやかに滑る。骨の髄まで氷りつかす冷たさの中、微かに震えながらも少年は静かに佇んでいた。

 まだ幼い少年だった。

 歳を数えて六つか七つほどだろうか。淡い金の細く柔らかそうな髪は襟足で短く揃えられ、聡明に澄んだ大きな瞳は、鮮やかな南海の色をしている。幼いながら凛とした雰囲気を持つ、切れ長の瞳が印象的であった。尖った顎や細く通った鼻筋も繊細な人形のようで、その中性的な容貌は一見少女にも取れる。しかし、人目を引く整った容姿を持ちながら、その身体は惨いと感じるほどに痩せていた。まだ筋肉のつかない肢体は、骨が浮き出て棒のようだった。肌は寒さにより血の巡りが悪いのか、黒ずんだまだら模様を描き、唇には紫色の斑点が浮かんでいる。着ているものも薄い麻布を継ぎ合わせた、簡素で保温性の無い、この白い季節には厳しいもの。それも所々薄汚れ、袖の先にはほつれが窺え、糸がひらひらと風に遊ばれていた。その身なりは、少年の身分が決して高くない事を無言に表していた。

 少年はただ空を見つめ続けていた。

 道行く人が、少年の様子に哀れみの視線を向け通り過ぎていく。

 見かねた老婆が話しかけても、少年は空を見つめたまま微動だにしなかった。

 淡い金の髪に雪帽子をかぶっても、少年は動く気配を見せない。

 色味を失いつつある唇だけが、震えるように動いているだけだ。

 時折、小さな唇から声無き言葉が零れ落ちる。

(かみさま、どうかぼくをひとりにしないでください)

 渇ききった喉の奥で、少年はただ空に向けて祈る。優しい温もりが降りてくると信じて、凍てついた花を降らすだけの無情な空に希望を馳せた。

 ゆっくりと幼い身体の命の灯火を奪う雪。失われていく生を実感しながら、少年はふと思った。

 このまま氷ってしまえば、冷たくなったあの人に会えるのではないだろうか。

 雪のように白く冷たくなったあの人。ほんの数日前までは温かであった手が、ある朝冷えた井戸の水よりも冷たくなっていた。固く瞳を閉じて、眠ってしまった人。目覚めの訪れぬまま姿を消した、とても綺麗な優しい人。

 泣きじゃくる少年の手を払い落とし、氷のように冷たくなった母は、見ず知らずの大人たちに連れ去られてしまった。

 つい先ほどの出来事を思い出し、少年は拳を固めた。冷たくなり感覚の消えていたはずの掌に、微かな痛みが走る。強く固めすぎた拳の内側に爪が食い込んでいるのだろう。しかし、少年は痛みなどほとんど感じてはいなかった。身体の痛みなど、今にも千切れんばかりに悲しむ心の痛みに比べれば、雪が頬を撫ぜる程度のものだ。

 母がいれば悲しい思いなどしない。どんなに寒くとも、抱きしめてもらえれば安らかに眠る事が出来る。転んだ怪我も、母に触れてもらえればそれだけで痛みを忘れる事ができた。

 今までずっとそうだった。

 母と二人で生きてきた。少年には母しかおらず、また母も少年だけだった。お互いだけが唯一の家族で、それ以外に何も無い。

 だから、離れる事など許されないはずだ。

(どうかおかあさんのそばにいかせてください)

 少年は一心に迎えを待ち続けた。

 血の気を失い、感覚すらも麻痺してしまった手を白い空へ伸ばす。

「おかあさん、ぼくもつれていって」

 掠れた声で、何度も何度も繰り返す。

 頭の中ではなんとなく分かっていた。母はもう、二度と少年を抱きしめてはくれない。微笑みかけてはくれない。子守唄を歌う事も、頭を撫でてくれる事もない。

 母は死んだのだ。

 重い病にかかり、それでも少年のためにと働き続けた結果、母は冷たくなって動かなくなった。けれど母の死を理解するには、少年は幼すぎた。祈っていれば、物語の幸せな結末のように、また一緒にいられるのだと、そう信じていたかった。

 死の欠片だけを降り注ぐ空に救いなどない。けれど少年に祈る以外の選択肢は無かった。祈り続けて奇跡を待つか、祈り続けて死を待つか。

 あまりにも残酷な現実の世界で、少年は母だけを求めた。他に求めるものを、少年は知らない。たった一人の家族を失い、孤独に震え、明日への希望も持たず、悲しみだけが少年のすべてだった。

 少年を横目で見つめる大人たちは、憐れみの視線だけを向けても、少年を救う言葉を持たない。少年を生かす責任を持たない。もとより、ドルミーレの村はとても貧しく、誰もが日々の生活で手一杯なのだ。食い扶ちを増やす子供を引き取れる余裕のある者など、数える程度しかいない。しかし現実は非情なもので、少年を救うだけの力を持つ者は、少年へ向ける同情心を持ち合わせてはいなかった。

 凍えるほどに冷たいこの場所で、少年は愛を知らずに果てるのだろうか。

 誰もが少年に背を向ける中、雪道を小走りに走る小さな影があった。迷い無く真っ直ぐに少年のもとへと駆けて行くのは、少年とそう年の変わらない少女だった。灰色の毛皮の外套に身を包み、豊かな黄金の巻き毛には、水晶の散りばめられた髪飾りをさしている。一目で裕福な家庭の娘だとわかる身なりで、彼女は空を凝視している少年の前まで辿り着いた。

 乱れた髪も、荒い息も整えぬまま、少女は少年に歩み寄る。

 そして何のためらいも無く、冷たく凍えた身体を抱きとめた。

「ローティア!」

 少女はローティアと呼んだ少年の身体を、少しでも温めてやろうと覆いかぶさるように強く抱きしめた。腕の中に納まったローティアの身体は、空から注ぐ雪のように、酷く凍てついていた。

「おばさまが亡くなられたと聞いたわ」

 今にも泣きそうな少女の声に、ローティアは反応を示す。

 美しい緑柱石とも青玉石ともとれる瞳を、空から少女へと向ける。

 しかしローティアは、少女に向けて薄く微笑みかけるだけで、再び空を見上げようとした。

 それに気付いた少女は、ローティアの視界を遮るように身を乗り出し、彼の瞳を覗き込む。

「お願いローティア、私を見て」

 ローティアの温かな海の色とは違う、清らかな空色の瞳は悲しそうにローティアを映す。彼女の瞳に薄っすらと涙が滲んでいるのを見て、ローティアはようやく口を開いた。

「シシリア、ここはとても寒いよ。君は帰らなきゃ。風邪引いちゃうよ」

「帰らない。あなたを一人にはしない」

 逃がすまいとシシリアはローティアを抱く手に力を込める。

 必死なシシリアの様子に、ローティアは振りほどく事もできずに表情を曇らせた。

「君には、帰りを待っている家族がいる」

「ええ。あなたにも、あなたの帰りを望んでいる家族がいるわ」

「……母さんはもういない」

 ローティアは悲しげに呟く。

 シシリアはその言葉に身体を強張らせた。ローティアを抱きしめる力が微かに緩む。その一瞬の隙にローティアはシシリアの肩を押して、少しの距離をとる。

「ローティア……」

 正面から見据えたローティアの瞳は、溢れるほどの悲しみに満ちていた。喪失感と絶望が入り混じった、暗い瞳。けれど悲しみの雫は、彼の瞳の中で凍り付いてしまっているのだろうか。誰よりも泣きたいはずのローティアの瞳は、涙を流した形跡を残していなかった。

 ローティアに父は居ない。母は人知れずローティアを産み、女手一つで育ててきた。彼女自身も、遠くの地から流浪してきた身であり、天涯孤独であったため、ローティアに親戚など存在しない。

 母を失ったこの少年は、本当に一人きりだった。

「聞いてローティア」

 彼を救いたいと願い、シシリアは単身凍える街を駆け抜けてきた。悲しみに暮れているであろう少年に手を差し伸べるために。ローティアを救えるのは自分だけだ。暗示のように心で繰り返し、シシリアは震える唇を開いた。

「おばさまの事はとても悲しいわ。でも私がいる。私が、あなたの新しい家族よ」

 ローティアは自嘲気味に微笑んだ。

 彼女はローティアを哀れむあまり、気休めの言葉をくれているのだろうか。一時的な安らぎなど、望んではいないというのに。希望を持てば、その先にある残酷な現実により深く絶望するだけだ。

 気休めの言葉など、笑うしかない。

「君とぼくは家族じゃない。血が繋がっていないもの」

 シシリアはローティアにとって、母の次に愛すべき友達。しかし、家族にはなれない。血の繋がりは、人と人とを結ぶ最も尊いもの。友情があろうとも、それだけで家族になれるわけが無い。

 だが、シシリアは本当に気休めでその言葉を言ったのだろうか。

 シシリアは慈悲深く、困っている人間を放っておけない優しい少女だ。けれど、嘘だけは吐かない。たとえ、気休めの言葉だとしても。

「そうね。あなたと私のお母様は違う。だけど、あなたと私のお父様は、同じなのよ」

 シシリアの言葉に、ローティアは心の中で動揺する。

「ヴェルディアおじさんが……?」

「そう」

「本当?」

 おずおずと、ローティアはシシリアの蒼い瞳を覗く。

 シシリアは深く頷いて、優しくローティアの頭を抱き寄せ撫ぜた。何度も何度も、母が子を慈しむように優しく。

「本当よ」

 氷りついたローティアの瞳が、微かに揺れた。

「今日から私がお姉ちゃん。良い?」

 そう年の変わらない少女の腕の中に、ローティアの良く知る温もりが感じられた。穏やかで優しく、柔らかな温かさ。頭を撫ぜる手は小さくとも、母のそれに良く似ていた。

「大丈夫、私がいる。もう一人にはさせないよ」

 ローティアの頬に、熱い何かが通り抜けた。

 一滴、また一滴と、南海の瞳から悲しみが零れ落ちる。

 シシリアの腕の中で、ローティアは泣いていた。母の死を認めたくないために堪えていた涙が、堰を切ったように溢れた。

 白い白い悲しみが降る街で、少年は声を殺したまま泣き続けた。

◆◇◆◇◆

 薄暗い部屋の中で、シシリアは目を覚ました。

 純白のレースのカーテンによって緩められた朝陽が、完全に開ききらない瞳を刺激する。眩しいと感じながら、シシリアは一度大きく息を吸い、吐き出した。

 寝起きでぎこちない身体から、力が抜けていく。

 全身は氷りついたように冷たく、重力によって寝台に縫い止めれた手足に感覚が無い。己に心音があるのかも分からず、生きた心地のしない目覚めであった。

 金縛りにでもあっているのだろうか。シシリアは己の身体が人形のように空っぽになってしまった感覚を覚えた。酷く身体が気だるい。

 過剰な眠りの後の倦怠感ではない。

 疲労が極限まで蓄積されたわけでもなく、不治の病に侵されているでもない。だが、シシリアは身体が少しずつ、内側から綻びていくようだと感じた。

 日に日に目覚めが辛くなっている。

 ゆっくりと身体を起こし、もう一度息を深く吸い込み、吐き出す。

 瞳を閉じて、シシリアは天を仰いだ。

 少しの運動が酷く辛いと感じたのはいつごろだっただろうか。

 シシリアは決して身体の弱い少女ではなかった。

 貧しいドルミーレの街で、裕福と分類される家庭で育ち、何不自由なく生きてきた。父も母も病を患っていた事は無く、五年前、隣町まで出かける最中に夜盗に襲われるまでは元気であった。

 風邪か、流行り病にでも感染したのだろうか。遠くの町の病院へと足を向けたが、医者からは至って健康だと告げられた。シシリアは安心するのと同時に、原因不明の疲労感に不安を覚えた。

 シシリアと、弟のローティアだけが残された今、シシリアが倒れるわけにはいかない。

(神様、どうか……)

 胸の前で手を結び、心の中で祈りを捧ぐ。何度も同じ願いを繰り返した。

 突然、何の前触れも無く部屋の扉が音を鳴らした。

 拳で木製の扉を叩く、乾いた音だ。控えめなそれは、誰が訪れたのか、声を聞かずともシシリアには分かった。

「姉さん、起きてる?」

 十年ほど前にシシリアの家族に迎えられたローティアの声が、扉の奥から届く。

 シシリアは結んだ手を解き、寝台から足を出し、部屋履きに足を滑らせた。

「ええ、今起きたところよ」

 シシリアが答えると、扉は静かに開かれた。騒音を立てないようにと、細やかなところまで気を遣うローティアらしい動作だ。

 部屋へと足を踏み入れた弟は、お茶と軽食を載せた丸い盆を持っていた。ポットの口からは蒸気が立ち上り、上品な紅茶の香りがふわりと部屋に広がる。

「おはよう、ローティア。よく眠れて?」

「おはよう。僕はまあまあ眠れてるよ。姉さんこそ、具合は良い?」

「ええ、今日はとても爽やかに目が覚めたの。久しぶりに、外へ出かけようかな」

 腕を伸ばす動作を添えて、シシリアは精一杯明るく微笑んだ。

「そう。外なら、庭に薔薇の蕾が開いたらしいから、後で見に行ってみる?」

「あら、咲いたのね。ミーナにも教えてあげないと。きっと喜ぶわ。そうね、お庭の水まきをしたら、教会に行こうかと思うの」

 ヴェルディス家の家事をこなす手伝いの少女を思い出しながら、シシリアは窓の外をちらりと覗く。晴れ渡った青空が広がり、清々しい風が木々の葉を揺らす。温かな気温で、出かけるには良い気候だった。

 しかし、嬉しそうなシシリアとは反対に、ローティアの表情が曇る。

 ドルミーレの教会は、病院を兼ねている。近くの町や村に医者はおらず、ドルミーレの教会を預かる神父だけが、医者の資格と技能を有していた。そのため、遠くから神父を頼ってくる病人や怪我人が絶えない。修道女だけでは手に余る時もあり、シシリアは自ら進んで手伝いをしていた。

「……教会は、最近患者も少ないみたいだし、修道女たちで間に合ってると思う。姉さんが手伝う必要は無いよ」

 寝台の隣にあるテーブルに盆を載せ、ローティアは俯きながら呟いた。

「そうね、私のできる事なんて、限られてる。でも、遠くから頼ってきてくれる人もいるの。私は、その人たちの力になってあげたい」

 シシリアは暇を見つけては教会へ行き、患者の看護や治療を手伝っている。誰かに言われたわけではなく、自主的に教会と神父の手伝いを申し出た。

 だが、ローティアはそれに関して、あまり良い感情を持っていない。病人や怪我人は、病の元凶たる病原菌を運んできているかもしれない。設備が整っているわけではない教会は、床にシーツを敷き、そこに病人を横たえる時もある。衛生的にも良好とは言えず、どこか潔癖なところのあるローティアとしては、なるべく近づいては欲しくない場所なのだ。

「だからって、姉さんが一人頑張る必要は無いよ」

「うん。でも、私が居ない時は、神父様やシスター達が私の分も頑張ってる。私は、みんなの負担も減らしてあげたい」

「でも、あいつらは姉さんに頼るばっかりじゃないか。それだけじゃない。姉さんが厚意でしてる事を、奴らは金儲けに」

 徐々に感情的になる弟の言葉を遮って、シシリアは諭すように優しい声を掛けた。

「ローティア。神父様は教会を維持するために寄付金が必要なの。それに、私は頼ってもらえて嬉しいのよ。私にできる事は、これくらいしかないから」

「でも……」

 どこか不満げなローティアに、シシリアは微笑みを向ける。

「心配してくれてるんだよね? ありがとう。私は大丈夫だから、ね」

 恐らく、ローティアはシシリアの容態に気付いている。

 教会に通うようになってから、不自然な疲れを感じた。深く長く眠っても、疲労は拭えず、少しずつ衰弱していく。

 シシリアは弟にだけは悟られまいと振舞ってはいたが、それでも鋭いローティアの事。同じ家で住んでいるのに、ばれていないわけがない。

 ローティアの気遣いは嬉しく思う。けれど、シシリアは己に与えられた生を、人の役に立てたかった。

 幼い頃より、不自由な思いをしないで生きてきた。年の変わらないローティアでさえ幼くして母を失い、その前も苦しい生活を強いられてきたと言うのに、シシリアはずっと庇護されてきた。運が良かったのだと言ってしまえばそれまでだが、それでもシシリアは一人ぬるま湯の中で生きる事を良しとしなかった。

 誰かが苦しんでいるのかもしれないのに、自分ひとりが幸せで良いのだろうか。

 いつからか、そう考えるようになっていた。

 人の役に立つ事に喜びを覚え、誰かを助けるという使命感に似た感情が芽生えた。

 それは自己満足の上にある偽善なのかもしれない。

 それでも、シシリアは己が役に立てる事が純粋に嬉しかった。

 ローティアを不安にさせているのには心が痛むけれど、シシリアはやめるつもりはなかった。

「本当に、今日は具合が良いの。ローティアこそ、毎日遅くまで勉強して、睡眠不足になってるんじゃない? 私の事より、自分を優先しなさい」

 ローティアは家にいる間、日夜分厚い参考書を片手に、机に向かっていた。彼が医者を目指しているのを、シシリアは知っている。いつかこの町にきちんとした病院をたてるのだと、幼い頃の弟は言っていた。

 ヴェルディス家はいくつかの商店を持ち、また広大な土地も有していたため、働かずとも食べていく事はできた。けれど、貴族のように遊び暮らすつもりは、シシリアにもローティアにもなかった。

 ローティアが自立するに至ったら、父の財産は教会への寄付と、病院の建設費に当てよう。シシリアはそう決めていた。だから、ローティアの心配事を増やさぬようにと、普段以上に快活に振舞った。

「ローティア、時にはお姉ちゃんの言う事、素直にききなさいね」

 寝台の横に立つ弟の髪を引っ張り、いつからかシシリアの背を追い越した弟の頭を撫ぜる。

 ローティアは気恥ずかしげに視線を逸らしたが、手を払う事はなかった。

「分かったよ。でも一つだけ約束して。……人前であの力を使わないって」

 囁くような細い声で、それだけを言う。

 シシリアは一瞬手を止めて、瞳を細める。

「うん。大丈夫」

 指通りの良い、ローティアの白金の髪をもう一度撫ぜて、シシリアは弟を解放した。

 まだ不安な色の消えないローティアに、シシリアは優しく笑いかけた。

「今日はただお手伝いするだけだから。ローティアも、勉強に励みなさいね」

「言われるまでもなくするよ。あ、食器はそのままにしておいていいから。お昼はお弁当作っておいたから、台所の台に置いてあるよ。それから……」

 あれこれとシシリアの出かける準備を整えてくれていたらしいローティアに、シシリアは頬を緩ませる。本来ならば、一つ年上であるシシリアが家事をこなすべきなのに、ローティアはシシリアよりも早くに全てを済ませてしまう。これでは、どちらが上か分からないではないか。

 喜ぶべきか悲しむべきか。奇妙な感覚に戸惑いながらも、シシリアはローティアの厚意を嬉しく思った。

 五年ほど前に母と父を同時に失い、初めて一人の寂しさを、取り残される悲しみを知った。昼夜泣き明かすシシリアの横で、ローティアはずっとシシリアを慰めようと声を掛けてくれた。当時はシシリアよりも小さかった彼は、まじないのように一つの言葉を繰り返した。

『僕がいるから、一人じゃないよ』

 いつかシシリアが彼に向けて囁いたものと同じ言葉をローティアは言った。その言葉を、シシリアは今でも忘れない。

 ローティアはずっと、シシリアのそばに居る。だから、シシリアもローティアと共に生きよう。ずっとずっと、世界が終わる時まで。互いを支えながら、生きていこう。

 不思議と、鉛のようだった身体に生気が戻ってくるような気がした。

(――大丈夫。まだいける)

 心のうちで小さく呟き、シシリアは己の両手を握った。

 一日の始まりを告げる鐘の音が、教会の方より鳴り響く。

 青い空に白い雲が流れて、緩やかな一日が始まろうとしていた。